第41回日本SF大賞 受賞のことば
第41回日本SF大賞
菅浩江『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』(早川書房)
林譲治《星系出雲の兵站》全9巻(早川書房)
菅浩江『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』(早川書房)
受賞の言葉 菅浩江
このたびは『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』を大賞に選んでいただき、ありがとうございました。また、林譲治さんとご一緒できたことも光栄に思っています。
《博物館惑星》シリーズ第一作「天上の調べ聞きうる者」が「SFマガジン」に掲載されたのは、1993年のことでした。当時の編集長は阿部毅さん。SF作家だったら「マガジン」に連載してみたい、と切望していた私は、「とりあえず一作書きました。うまくいけば連載にしたいです」とお願いしました。念願はかなったものの、日本人作家枠がなかなか取れないということで、塩澤快浩さんが編集長に就任されてもなかなか話数が進まず、結果、『永遠の森 博物館惑星』を出版できたのは七年後でした。けれど、推理作家協会賞という身に余る賞をいただけたのは、一気に書くのではなく、私の遅い成長に合わせてじっくり考えながら書き進められたからだと思います。
推協賞受賞後、目の前には明るい世界があるものだと信じていたのに、思うように活躍できませんでした。それを出版不況のせいにするつもりはありません。小松さん、筒井さん、星さんの時代のように「中間小説誌にもSFを」と意気込んでみたものの、私の力がたりなかったのでしょう。もしかしたら、出版業界のみならず世情が変わっていたのかとも思います。
一昨年、プライベートの事情で連載をまたお願いする際に、真っ先に思い浮かんだのは《博物館惑星》の続き、でした。〈アフロディーテ〉は疲れた私が常に帰りたい安息の地であり、なにより読者さんたちが望んでくださっていたからです。その時、どんなに恐ろしい決意が必要だったかは、『不見の月 博物館惑星Ⅱ』のあとがきに記しました。不安の中で書き進める間、滅多に褒めてくれない塩澤さんが、あれやこれやと心優しいご感想とご指導をくださったのがとても嬉しかったです。
今回、この受賞でみなさまからさらなるあたたかな力をいただきました。ひとつは、盛大に褒めていただいた第一作目のラストに負けない幕引きがどうやらできたらしいことに対して。また、日常の数多い困難の中でも、無事に兵藤健を主人公にした今回の連載を終えられたことに対して。もうひとつは、ほぼ二十年の歳月を経て刊行した続編の存在を、読者さんたちに広く知らせることができたということに対して。
これもみな、ご尽力いただいた方々や支えてくださった読者のみなさまのお蔭だと感謝しております。もう少し、生きてみます。
『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』スタッフクレジット
- 著者:菅 浩江
- 発行者:早川 浩
- 編集:塩澤 快浩
- 装画:十日町 たけひろ
- 装幀:早川書房デザイン室
- 印刷所:精文堂印刷株式会社
- 製本所:大口製本印刷株式会社
- 発行所:株式会社早川書房
林譲治《星系出雲の兵站》全9巻(早川書房)
受賞の言葉 林譲治
第41回日本SF大賞』の受賞が決まったと池澤会長より電話をいただいたのは二月二〇日一六時一〇分のことだった。それを受けた時の気持ちというのは不思議なものだった。
なぜならば私は昨年、一昨年と会長として受賞された方々に電話連絡を入れる立場であったからだ。嬉しさより、「あぁ、電話を受ける側の人はこんな感じだったのか」という考えが先に来た。
ただ、嬉しさという点では、大賞受賞よりも、ノミネートされた時点での方が大きかった。まさかノミネートされるとは思っていなかったためだ。
これは決して謙遜とかそういう話ではなく、今の日本SFの状況を見てのことだ。我々のようなSFシカゴ世代(第四世代か第五世代か人により分類が違う、つまり、四か五世代)も作品を発表しているが、それ以上に第六世代、第七世代の活躍が目覚ましかったからだ。
こうした状況の中で選ばれたということに驚いたわけである。同時にそれは誇れることであろうと思う。
それで今回選考会を経て、大賞受賞となったわけですが、実は自分の大賞より、立原透耶氏の特別賞受賞の方が嬉しかった。
というのも、私は立原氏の日中間のSF交流のための活躍を十数年見てきたからだ。昨今の日本における日中間のSF交流の拡大も立原氏がいなければ、その歴史は違っていただろう(『三体』とか読めなかったかも知れないのです)。
そうした活動が評価され、特別賞を受けられたということは、選考委員各氏の見識を示すものと思いますし、そうした選考委員に評価されたことは私としてはとても誇りに思うことです。
大賞に選ばれてから何度か尋ねられたのは、会長職をやりながらよく二年で九冊も書けたね、という質問。だが、じっさいはこの作品に関しては、会長職をしていたからこそ書けたという側面は大きい。
作家は個人事業主ですから、組織として活動する機会というのは稀なこと。仕事相手は編集者か、多くてもこれにイラストレーターの方が加わる(ちなみに本シリーズが好評だったのは、Rey.Hori氏の素晴らしいイラストがあったのは間違いないと思う)程度であった。
しかし、会長職に就いたことで、少なからず組織の存在を意識することとなった。SF作家クラブの理事会では一〇人からの関係者が集まって案件を検討し、あるいは事務局長ともども出版社などに挨拶回りを行うことも一度や二度ではなかった。
そうした中で、組織で仕事を行うことの意味を考える日常を送ってきたことが、本作品については少なからず影響を与えたのは間違いない。じっさい作家クラブ内の組織運営の議論と実行の状況というのは、このシリーズの中で割とシンクロしている部分もあるのでした。
で、文字数も残り少なくなってまいりましたので、日本SF大賞を受賞する秘訣などをこの小冊子を読んでいるあなたにだけ伝授いたしましょう。
聞くところによりますと、本作の評価点は組織論SFの部分にあったらしい。先に述べましたように、個人事業主の私が組織論SFで評価されたのは、日本SF作家クラブでの経験が大きかった。自分より優れたクリエイターの方々と仕事ができる機会などまず無いわけです。
そうなりますと、いきなり理事は無理としても、日本SF作家クラブの事務局員になるとか、SF大賞の運営委員会のメンバーになるような経験が、日本SF大賞受賞への最短距離であるという結論が導かれるのであります。
なお、風の便りに、事務局長はいつでも事務局員を受け入れる用意があるとのことです。ここだけの内緒ですけどね。
《星系出雲の兵站》全9巻 スタッフクレジット
- 著者:林 譲治
- 発行者:早川 浩
- 印刷者:矢部 真太郎
- 編集:塩澤 快浩
- 装画:Rey.Hori
- 装幀:岩郷重力+Y.S
- 印刷所:三松堂株式会社
- 製本所:株式会社明光社
- 発行所:株式会社早川書房
第41回日本SF大賞 最終候補作品(作品名五十音順)
野﨑まど『タイタン』(講談社)
立原透耶(編)『時のきざはし 現代中華SF傑作選』(新紀元社)
伴名練(編)《日本SFの臨界点》全2巻(早川書房)
北野勇作『100文字SF』(早川書房)
第41回日本SF大賞 特別賞
立原透耶「立原透耶氏の中華圏SF作品の翻訳・紹介の業績に対して」
受賞の言葉 立原透耶
この度、第41回日本大賞特別賞をいただいた立原透耶と申します。
このような大きな賞をいただいたということは、わたしにとっては本当に青天の霹靂であり、これまでの人生でも考えたことすらない予想を遥かに超えた出来事でした。
実感が湧かないなか、それでも脳裏に浮かんだのは、中国大陸、香港、台湾、そして日本の先生方や友人・知人・仲間達のことでした。大学生の頃から自力でなんとか中華圏のSFを読もうと努力しはじめ、2007年に成都の銀河賞国際大会に初参加したのがきっかけとなり、中華圏SFの紹介・翻訳を開始しました。それ以降、数多くの方々のご協力、温かな応援、ご支持、広く深いご指導などを得て、今までずっと活動を続けてくることができました。ですから今回の受賞は決してわたし一人のものではなく、関わったすべての方々と共にいただいたものだと感謝しております。この賞がきっかけで、より多くの方々が中華圏SFに興味を持ち、紹介や翻訳などの活動に参加していただければと期待しております。
昨年は新型コロナウイルス流行という未曾有の出来事により、社会も生活も大きく変化しました。こういったなかで必要となるのが小説であり、創作であり、想像、創造の力ではないかと思います。特にSFの持つ先見性、哲学性、普遍性は、国や文化を超えて共通のものであり、閉塞した社会や疲れた心に一服の清涼剤を、あるいはピリッとした刺激を与えることができるのではないでしょうか。
わたしはSFの持つ力を信じます。そして願わくば、少しでもそのお手伝いができれば。これほど嬉しいことはありません。
第41回日本SF大賞 功績賞
小林泰三
受賞の言葉 小林眞弓(故・小林泰三氏の奥様)
この度は、SF大賞功績賞という、栄えある賞を授与していただき、誠に光栄に存じます。
夫との思い出を思い起こすと、SF小説SF映画は切っても切れないものになっています。
二人の出会いは、一九八二年。初デートで映画に誘われました。その当時大阪に住んでいる人間は誰でもが知っているナンバ駅のロケット広場で待ち合わせ、駅前にある大きな映画館を通り過ぎ、曲がりくねった路地をクネクネと歩くと、場末感ただよう映画館に辿りつきました。観客は私達を入れて五、六人といったところで、『198X年』という映画でした。十八歳の私には、全く理解できない内容でした。その次に行った映画は『遊星からの物体X』でした。何とか見終わった後、眉間にシワの私とは反対に目を輝かせて映画の感想をじょう舌に語っていたのを思い出します。
その後のデートは、映画を観てその後本屋で沢山本を買い、喫茶店に入り、映画の感想を話し、各々が買った本を読んだりがパターンになりました。想像していたカッコいいデートではありませんが、彼の博識ぶりにすっかり虜になりました。
その後、結婚し、息子が生まれ、そろそろ持ち家が欲しいという話をしていた一九九四年の初夏、大好きな角川文庫を読んでいた私は、ホラー大賞募集のチラシがはさまっているのを見付け、賞金目当てに応募すると宣言しました。そうは言ったものの一文字も書けないまま締め切りが近づき、進行状況を聞いてくる夫に『あんた書き。文才があると前からにらんでてん』。会社の夏休みを利用して汗だくで二日間で書き上げたのが『玩具修理者』でした。あれから、会社員を続けながら年に何冊かの本を出していただき、五年前からは専業として精力的に出版させていただき、大変充実した作家人生を送る事が出来、言葉で表せない程の感謝で一杯の二十五年間でした。
時々彼の仕事部屋を覗くと宇宙空間の式を考え計算していました。『宇宙船や宇宙人てどんな形してるんやろ?』と聞くと、『人類が想像もつかない形態してるはずやで』と話していました。私には理解出来ない世界に住んでいましたが、夫としても父親としても誠実で、温厚で私達家族の誇りであり道標でした。
病床では、家に帰り小説を書くことを目標に辛いリハビリと薬のコントロールにと頑張っていましたが、日に日に衰えていっててもその思いを諦めることはなかったです。亡くなる三日前、金色の宇宙船が迎えに来た。と、ああ彼は逝ってしまうのかと覚悟しました。
彼亡き後、私は道しるべを失い、喪失感にさいなまれていますが、夜空を見上げると彼の愛した世界が広がっていて、見た事もない宇宙船に乗った彼が宇宙人を見つけ子供のようなキラキラした瞳で旅をしていると夢想すると、少しだけ心が癒されるのです。