第41回日本SF大賞 受賞のことば

2021年5月8日公開

第41回日本SF大賞

菅浩江『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』(早川書房)

林譲治《星系出雲の兵站》全9巻(早川書房)


菅浩江『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』(早川書房)

受賞の言葉 菅浩江

『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』

このたびは『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』を大賞に選んでいただき、ありがとうございました。また、林譲治さんとご一緒できたことも光栄に思っています。

《博物館惑星》シリーズ第一作「天上の調べ聞きうる者」が「SFマガジン」に掲載されたのは、1993年のことでした。当時の編集長は阿部毅さん。SF作家だったら「マガジン」に連載してみたい、と切望していた私は、「とりあえず一作書きました。うまくいけば連載にしたいです」とお願いしました。念願はかなったものの、日本人作家枠がなかなか取れないということで、塩澤快浩さんが編集長に就任されてもなかなか話数が進まず、結果、『永遠の森 博物館惑星』を出版できたのは七年後でした。けれど、推理作家協会賞という身に余る賞をいただけたのは、一気に書くのではなく、私の遅い成長に合わせてじっくり考えながら書き進められたからだと思います。

推協賞受賞後、目の前には明るい世界があるものだと信じていたのに、思うように活躍できませんでした。それを出版不況のせいにするつもりはありません。小松さん、筒井さん、星さんの時代のように「中間小説誌にもSFを」と意気込んでみたものの、私の力がたりなかったのでしょう。もしかしたら、出版業界のみならず世情が変わっていたのかとも思います。

一昨年、プライベートの事情で連載をまたお願いする際に、真っ先に思い浮かんだのは《博物館惑星》の続き、でした。〈アフロディーテ〉は疲れた私が常に帰りたい安息の地であり、なにより読者さんたちが望んでくださっていたからです。その時、どんなに恐ろしい決意が必要だったかは、『不見の月 博物館惑星Ⅱ』のあとがきに記しました。不安の中で書き進める間、滅多に褒めてくれない塩澤さんが、あれやこれやと心優しいご感想とご指導をくださったのがとても嬉しかったです。

今回、この受賞でみなさまからさらなるあたたかな力をいただきました。ひとつは、盛大に褒めていただいた第一作目のラストに負けない幕引きがどうやらできたらしいことに対して。また、日常の数多い困難の中でも、無事に兵藤健を主人公にした今回の連載を終えられたことに対して。もうひとつは、ほぼ二十年の歳月を経て刊行した続編の存在を、読者さんたちに広く知らせることができたということに対して。

これもみな、ご尽力いただいた方々や支えてくださった読者のみなさまのお蔭だと感謝しております。もう少し、生きてみます。

菅浩江

菅浩江(すが・ひろえ)

1963年生まれ、京都府出身。高校在学中の80年に、同人グループ「星群の会」のオリジナル・アンソロジーに発表した短編「ブルー・フライト」が、矢野徹の推薦で「SF宝石」81年4月号(光文社)に転載されデビュー。89年にソノラマ文庫から『ゆらぎの森のシエラ』を刊行し、本格的な作家活動に入る。92年に『メルサスの少年』(新潮文庫、91年)で第23回星雲賞日本長編部門、93年に「そばかすのフィギュア」で第24回星雲賞日本短編部門を、2001年に『永遠の森 博物館惑星』(早川書房、00年)で第32回星雲賞日本長編部門、第54回日本推理作家協会賞長編および連作短編集部門を、14年には『誰に見しょとて』(ハヤカワSFシリーズJコレクション)で第13回センス・オブ・ジェンダー賞をそれぞれ受賞。『永遠の森 博物館惑星』は第21回、『誰に見しょとて』は第35回の日本SF大賞最終候補作にもなっている。現在、東京創元社のウェブマガジン「Webミステリーズ!」にて、「妄想少女」を連載中。収益テストとしてnoteを更新中。https://note.com/hiroe_suga

『歓喜の歌 博物館惑星Ⅲ』スタッフクレジット

  • 著者:菅 浩江
  • 発行者:早川 浩
  • 編集:塩澤 快浩
  • 装画:十日町 たけひろ
  • 装幀:早川書房デザイン室
  • 印刷所:精文堂印刷株式会社
  • 製本所:大口製本印刷株式会社
  • 発行所:株式会社早川書房

林譲治《星系出雲の兵站》全9巻(早川書房)

受賞の言葉 林譲治

《星系出雲の兵站》

第41回日本SF大賞』の受賞が決まったと池澤会長より電話をいただいたのは二月二〇日一六時一〇分のことだった。それを受けた時の気持ちというのは不思議なものだった。

なぜならば私は昨年、一昨年と会長として受賞された方々に電話連絡を入れる立場であったからだ。嬉しさより、「あぁ、電話を受ける側の人はこんな感じだったのか」という考えが先に来た。

ただ、嬉しさという点では、大賞受賞よりも、ノミネートされた時点での方が大きかった。まさかノミネートされるとは思っていなかったためだ。

これは決して謙遜とかそういう話ではなく、今の日本SFの状況を見てのことだ。我々のようなSFシカゴ世代(第四世代か第五世代か人により分類が違う、つまり、四か五世代)も作品を発表しているが、それ以上に第六世代、第七世代の活躍が目覚ましかったからだ。

こうした状況の中で選ばれたということに驚いたわけである。同時にそれは誇れることであろうと思う。

それで今回選考会を経て、大賞受賞となったわけですが、実は自分の大賞より、立原透耶氏の特別賞受賞の方が嬉しかった。

というのも、私は立原氏の日中間のSF交流のための活躍を十数年見てきたからだ。昨今の日本における日中間のSF交流の拡大も立原氏がいなければ、その歴史は違っていただろう(『三体』とか読めなかったかも知れないのです)。

そうした活動が評価され、特別賞を受けられたということは、選考委員各氏の見識を示すものと思いますし、そうした選考委員に評価されたことは私としてはとても誇りに思うことです。

大賞に選ばれてから何度か尋ねられたのは、会長職をやりながらよく二年で九冊も書けたね、という質問。だが、じっさいはこの作品に関しては、会長職をしていたからこそ書けたという側面は大きい。

作家は個人事業主ですから、組織として活動する機会というのは稀なこと。仕事相手は編集者か、多くてもこれにイラストレーターの方が加わる(ちなみに本シリーズが好評だったのは、Rey.Hori氏の素晴らしいイラストがあったのは間違いないと思う)程度であった。

しかし、会長職に就いたことで、少なからず組織の存在を意識することとなった。SF作家クラブの理事会では一〇人からの関係者が集まって案件を検討し、あるいは事務局長ともども出版社などに挨拶回りを行うことも一度や二度ではなかった。

そうした中で、組織で仕事を行うことの意味を考える日常を送ってきたことが、本作品については少なからず影響を与えたのは間違いない。じっさい作家クラブ内の組織運営の議論と実行の状況というのは、このシリーズの中で割とシンクロしている部分もあるのでした。

で、文字数も残り少なくなってまいりましたので、日本SF大賞を受賞する秘訣などをこの小冊子を読んでいるあなたにだけ伝授いたしましょう。

聞くところによりますと、本作の評価点は組織論SFの部分にあったらしい。先に述べましたように、個人事業主の私が組織論SFで評価されたのは、日本SF作家クラブでの経験が大きかった。自分より優れたクリエイターの方々と仕事ができる機会などまず無いわけです。

そうなりますと、いきなり理事は無理としても、日本SF作家クラブの事務局員になるとか、SF大賞の運営委員会のメンバーになるような経験が、日本SF大賞受賞への最短距離であるという結論が導かれるのであります。

なお、風の便りに、事務局長はいつでも事務局員を受け入れる用意があるとのことです。ここだけの内緒ですけどね。

林譲治

林譲治(はやし・じょうじ)

1962年生まれ、北海道出身。北海道大学医療短期技術大学部卒業後、臨床検査技師を経て、95年、『大日本帝国欧州電撃作戦』(高貫布士との共著/飛天ノベルズ)で作家デビュー。以後、主に架空戦記小説で活躍する。99年から『機動戦士ガンダム』シリーズのノベライズ(角川スニーカー文庫)を手掛け、2000~01年にハルキ文庫から刊行した《那国文明圏》シリーズ第一作『侵略者の平和』で本格的にSFに進出。他の作品に『大赤斑追撃』(徳間デュアル文庫、01年)、『ウロボロスの波動』(ハヤカワSFシリーズJコレクション、02年)、『進化の設計者』(ハヤカワSFシリーズJコレクション、07年)、『キャプテン・リリスと猫の宇宙船』(朝日ノベルズ、10年)などがある。18年から20年まで、第19代日本SF作家クラブ会長を務めた。21年からハヤカワ文庫JAで新シリーズ『大日本帝国の銀河』をスタート。現在2巻まで刊行ずみ。

《星系出雲の兵站》全9巻 スタッフクレジット

  • 著者:林 譲治
  • 発行者:早川 浩
  • 印刷者:矢部 真太郎
  • 編集:塩澤 快浩
  • 装画:Rey.Hori
  • 装幀:岩郷重力+Y.S
  • 印刷所:三松堂株式会社
  • 製本所:株式会社明光社
  • 発行所:株式会社早川書房

第41回日本SF大賞 最終候補作品(作品名五十音順)

野﨑まど『タイタン』(講談社)

『タイタン』
野﨑まど(のざき・まど)

生年、出身地ともに非公開。2009年『[映]アムリタ』で、第16回電撃小説大賞で新設されたメディアワークス文庫賞の第一回受賞者となり、デビュー。以後、『舞面真面とお面の女』(メディアワークス文庫、10年)、『2』(同文庫、12年)、『独創短編シリーズ 野﨑まど劇場』(電撃文庫、12年)などを発表。13年の『know』(ハヤカワ文庫JA)は、第34回日本SF大賞最終候補となる他、2014大学読書人大賞にもノミネートされた。小説の他に、17年のテレビアニメ『正解するカド』ではシリーズ構成と脚本を担当。19年公開の劇場アニメ『HELLO WORLD』では脚本とノベライズ(集英社文庫)も担当した。同年講談社タイガで15年から刊行中の《バビロン》シリーズ(既刊3巻)がテレビアニメ化された。また、『タイタン』は第42回吉川英治文学新人賞の候補にもなった。

立原透耶(編)『時のきざはし 現代中華SF傑作選』(新紀元社)

『時のきざはし 現代中華SF傑作選』

伴名練(編)《日本SFの臨界点》全2巻(早川書房)

《日本SFの臨界点》
伴名練(はんな・れん)

1988年生まれ、高知県出身。京都大学文学部卒。在学中に京都大学SF研究会に所属。2010年に「遠呪」で第17回日本ホラー小説大賞短編賞を受賞。同年に受賞作を改題・改稿し、書き下ろし中編「Chocolate blood, biscuit hearts.」をカップリングした『少女禁区』(角川ホラー文庫)でデビュー。その後はアンソロジーや同人誌などで単発的に短編の発表を続け、それらの作品を集めた19年の『なめらかな世界と、その敵』(早川書房)が、第40回日本SF大賞最終候補となった。他の作品に「兇帝戦始」(『ダーク・ロマンス 異形コレクションXLIX』光文社文庫所収)、「墓師たち」(『kaze no tanbun 移動図書館の子供たち』柏書房所収)などがある。現在一迅社の月刊誌「コミック百合姫」の表紙に小説を連載中。20年に刊行された《2010年代SF傑作選》全2巻で大森望とともに編者を務めた。

北野勇作『100文字SF』(早川書房)

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北野勇作(きたの・ゆうさく)

1962年生まれ、兵庫県出身。甲南大学理学部応用物理学科卒業。会社勤めの傍ら「SFマガジン」の「ハヤカワSFコンテスト」や「SFアドベンチャー」の「森下一仁のショートノベル塾」への投稿を経て、92年、『昔、火星のあった場所』で第4回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞しデビュー。2000年の第1回小松左京賞の最終候補となった『かめくん』が翌年徳間デュアル文庫から刊行され、第22回日本SF大賞を受賞。10年には『どろんころんど』(福音館書店)で第31回日本SF大賞最終候補となる。他の小説に『どーなつ』(ハヤカワSFシリーズJコレクション、02年)、『人面町四丁目』(角川ホラー文庫、04年)、『社員たち』(河出書房新社、13年)、『その先には何が!? じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説』(キノブックス、18年)、『ななつの娘と夜の旅』(惑星と口笛ブックス、20年)などがある。09年からTwitterで始めた「ほぼ百字小説」は、2967話(21年2月17日現在)を越えて現在も継続中。小説の他に、創作落語の執筆や自作の朗読、演劇活動なども行っている。

第41回日本SF大賞 特別賞

立原透耶「立原透耶氏の中華圏SF作品の翻訳・紹介の業績に対して」

受賞の言葉 立原透耶

この度、第41回日本大賞特別賞をいただいた立原透耶と申します。

このような大きな賞をいただいたということは、わたしにとっては本当に青天の霹靂であり、これまでの人生でも考えたことすらない予想を遥かに超えた出来事でした。

実感が湧かないなか、それでも脳裏に浮かんだのは、中国大陸、香港、台湾、そして日本の先生方や友人・知人・仲間達のことでした。大学生の頃から自力でなんとか中華圏のSFを読もうと努力しはじめ、2007年に成都の銀河賞国際大会に初参加したのがきっかけとなり、中華圏SFの紹介・翻訳を開始しました。それ以降、数多くの方々のご協力、温かな応援、ご支持、広く深いご指導などを得て、今までずっと活動を続けてくることができました。ですから今回の受賞は決してわたし一人のものではなく、関わったすべての方々と共にいただいたものだと感謝しております。この賞がきっかけで、より多くの方々が中華圏SFに興味を持ち、紹介や翻訳などの活動に参加していただければと期待しております。

昨年は新型コロナウイルス流行という未曾有の出来事により、社会も生活も大きく変化しました。こういったなかで必要となるのが小説であり、創作であり、想像、創造の力ではないかと思います。特にSFの持つ先見性、哲学性、普遍性は、国や文化を超えて共通のものであり、閉塞した社会や疲れた心に一服の清涼剤を、あるいはピリッとした刺激を与えることができるのではないでしょうか。

わたしはSFの持つ力を信じます。そして願わくば、少しでもそのお手伝いができれば。これほど嬉しいことはありません。

立原透耶

立原透耶(たちはら・とうや)

1969年生まれ、奈良県出身。大阪市立大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。大学在学中の91年に「夢売りのたまご」(立原とうや名義)で、第18回コバルト・ノベル大賞読者大賞を受賞、翌年『シャドウ・サークル 後継者の鈴』(コバルト文庫)でデビュー。以後、《冥界武侠譚》シリーズ(集英社スーパーファンタジー文庫、97~2000年)、『竜と宙』(幻狼ファンタジアノベルス、08年)、《ひとり百物語 怪談実話集》シリーズ(メディアファクトリー、09~12年)など多数の作品を発表(2000年から現在の名義を使用)。16~18年にかけてその一部が『立原透耶著作集』全5巻(彩流社)にまとめられた。中国文学研究者として、札幌の大学で教鞭を執る傍ら多くの論文やエッセイなどを執筆。07年に横浜で開催された世界SF大会では、パネリストに韓松、狩野あざみを招き、「アジアのSFと周辺事情~現状を語る」パネルの司会を務めた。呉岩「マウスパッド」をはじめとする中華SFの翻訳も多く手掛け、翻訳監修を務めた劉慈欣『三体』日本語版(早川書房、19年)は第51回星雲賞海外長編部門を受賞した。最新の訳書に郝景芳『人之彼岸』 (浅田雅美氏との共訳、新☆ハヤカワ・SF・シリーズ、21年)がある。

第41回日本SF大賞 功績賞

小林泰三

小林泰三
小林泰三(こばやし・やすみ)

1962年生まれ、京都府出身。大阪大学大学院基礎工学研究科修了。95年、「玩具修理者」で、第2回日本ホラー小説大賞短編賞を受賞しデビュー。翌年、同作を表題とした単行本が角川書店から刊行され、併録の中編「酔歩する男」はSF読者からも注目を集め、第28回星雲賞日本短編部門の参考候補となった。以後、ホラー、SF、ミステリを複雑に横断する多彩な作品を執筆。98年、「海を見る人」で第10回SFマガジン読者賞を受賞。長編『AΩ』(角川書店、01年)で第22回日本SF大賞最終候補、短編集『海を見る人』(ハヤカワSFシリーズJコレクション、02年)で第23回日本SF大賞の最終候補となった。12年の『天獄と地国』(ハヤカワ文庫JA)で第43回星雲賞日本長編部門を、13年の『アリス殺し』(創元クライム・クラブ)で第8回啓文堂大賞文芸書大賞と〝上伊那の高校生が選ぶ「読書大賞」2015〟を、16年の『ウルトラマンF』(TSUBURAYA×HAYAKAWA UNIVERSE)で第48回星雲賞日本長編部門を、それぞれ受賞した。他の作品に、『密室・殺人』(角川書店、98年)、『人獣細工』(角川ホラー文庫、99年)、『天体の回転について』(ハヤカワSFシリーズJコレクション、08年)、『人外サーカス』(KADOKAWA、18年)、『ティンカー・ベル殺し』(創元クライム・クラブ、20年)、『未来からの脱出』(KADOKAWA、20年)などがある。20年11月23日に逝去。
(写真提供:東京創元社)

受賞の言葉 小林眞弓(故・小林泰三氏の奥様)

この度は、SF大賞功績賞という、栄えある賞を授与していただき、誠に光栄に存じます。

夫との思い出を思い起こすと、SF小説SF映画は切っても切れないものになっています。

二人の出会いは、一九八二年。初デートで映画に誘われました。その当時大阪に住んでいる人間は誰でもが知っているナンバ駅のロケット広場で待ち合わせ、駅前にある大きな映画館を通り過ぎ、曲がりくねった路地をクネクネと歩くと、場末感ただよう映画館に辿りつきました。観客は私達を入れて五、六人といったところで、『198X年』という映画でした。十八歳の私には、全く理解できない内容でした。その次に行った映画は『遊星からの物体X』でした。何とか見終わった後、眉間にシワの私とは反対に目を輝かせて映画の感想をじょう舌に語っていたのを思い出します。

その後のデートは、映画を観てその後本屋で沢山本を買い、喫茶店に入り、映画の感想を話し、各々が買った本を読んだりがパターンになりました。想像していたカッコいいデートではありませんが、彼の博識ぶりにすっかり虜になりました。

その後、結婚し、息子が生まれ、そろそろ持ち家が欲しいという話をしていた一九九四年の初夏、大好きな角川文庫を読んでいた私は、ホラー大賞募集のチラシがはさまっているのを見付け、賞金目当てに応募すると宣言しました。そうは言ったものの一文字も書けないまま締め切りが近づき、進行状況を聞いてくる夫に『あんた書き。文才があると前からにらんでてん』。会社の夏休みを利用して汗だくで二日間で書き上げたのが『玩具修理者』でした。あれから、会社員を続けながら年に何冊かの本を出していただき、五年前からは専業として精力的に出版させていただき、大変充実した作家人生を送る事が出来、言葉で表せない程の感謝で一杯の二十五年間でした。

時々彼の仕事部屋を覗くと宇宙空間の式を考え計算していました。『宇宙船や宇宙人てどんな形してるんやろ?』と聞くと、『人類が想像もつかない形態してるはずやで』と話していました。私には理解出来ない世界に住んでいましたが、夫としても父親としても誠実で、温厚で私達家族の誇りであり道標でした。

病床では、家に帰り小説を書くことを目標に辛いリハビリと薬のコントロールにと頑張っていましたが、日に日に衰えていっててもその思いを諦めることはなかったです。亡くなる三日前、金色の宇宙船が迎えに来た。と、ああ彼は逝ってしまうのかと覚悟しました。

彼亡き後、私は道しるべを失い、喪失感にさいなまれていますが、夜空を見上げると彼の愛した世界が広がっていて、見た事もない宇宙船に乗った彼が宇宙人を見つけ子供のようなキラキラした瞳で旅をしていると夢想すると、少しだけ心が癒されるのです。