第39回日本SF大賞 選考経過 選評

2019年7月2日公開 | 2019年4月19日・贈賞式会場にて配布された冊子より

第39回日本SF大賞選考経過報告

第39回日本SF大賞の選考会は、日下三蔵、高槻真樹、高野史緒、飛浩隆、長谷敏司の全選考委員出席のもと、2019年2月24日に都内某所で行われました。

運営委員会からは司会として林譲治会長、オブザーバーとして鬼嶋清美事務局長、記録係として私、渡邊利道の三名が出席いたしました。

今回の最終候補作は以下の六作品です。

  • 『オブジェクタム』 高山羽根子(朝日新聞出版)
  • 『最後にして最初のアイドル』 草野原々(早川書房)
  • 『飛ぶ孔雀』 山尾悠子(文藝春秋)
  • 『名もなき王国』 倉数茂(ポプラ社)
  • 『半分世界』 石川宗生(東京創元社)
  • 『文字渦』 円城塔(新潮社)

選考経緯

まず会長による開会の挨拶があり、ついで選考委員それぞれに大賞に推したい作品を挙げていただくことになりました。ところが、最初に発言した選考委員から二作品の同時受賞を希望する意見が述べられ、その上でどうしてもひとつに絞らなければならないのであれば少数派の支持に回る、というふうに付け加えられました。そのため、それに続くすべての選考委員が一位と二位の作品をそれぞれに挙げていく(一人の選考委員などは三位まで挙げられました)変則的なかたちになりました。

その結果一位に『飛ぶ孔雀』を挙げられたのが三人、『文字渦』が二人、二位に『文字渦』を挙げられたのが二人、『名もなき王国』と『飛ぶ孔雀』と『半分世界』を挙げられたのが、それぞれ一人となりました。
また、特別賞に『名もなき王国』を挙げられた選考委員が一人いましたが、特別賞については、今回は最終候補作がすべて小説、それも中短編集や中短編による連作長編であり、特別に勘案する事情があるとは認めにくいという意見があり、討議の結果特別賞は出さないことに決定しました。

この段階でほぼ『飛ぶ孔雀』と『文字渦』の一騎打ちか、あるいは同時受賞というふうに議論は絞られたのですが、意見交換の中から予想外の美点が見えてくることもあるので、他の最終候補作の評価についても丁寧な議論がなされました。

草野原々『最後にして最初のアイドル』

『最後にして最初のアイドル』については、まず今現在のSFファンの中で人気を集めているコンテンツであるアイドルや声優、ソーシャルゲームといった最新のカルチャーにビビッドに反応し、多くの読者から熱く支持された作品内容を大きく評価する意見がありました。小説技術的に稚拙な部分があるのではないか、あらすじを羅列しただけのように見える、収録された三作品のプロットがほぼ同一である、などの批判的意見が出され、それに対し、この文体には現在形で進行している新しい世代の文体的特徴と呼応する部分があるのではないか、ワイドスクリーンバロックというジャンルの性質上、アイディアやガジェットの多さのために作品に単調さが出るのは仕方がない面がある、あるいは同じようなプロットといっても不思議に読んでいて退屈な感じはしない、などの賛否両方の意見にかなりはっきり分かれました。いずれにしても、いかにも荒削りな新人の作品であり、この一冊で評価を定めるのは時期尚早であろうという意見は一致しました。

高山羽根子『オブジェクタム』

『オブジェクタム』については、第36回日本SF大賞の最終候補作となった『うどん きつねつきの』に続く二回目のノミネートです。前回、新人の第一短編集でありまだ伸び代を感じるので、今後のさらなる活躍に期待したいとして見送られた経緯もありました。今回の『オジブジェクタム』は、その期待に応える出来栄えで、特に表題作の完成度は見事なものであり、ここで大賞を贈っても良いのではないかという意見が出ました。しかし、やはりこの作品集がこの作家の代表作と言えるほどの決定打となっているかという点で、まだもっとスケールの大きな作品を書く期待値が高いという意見が大勢を占めました。その理由として、本書の後に刊行された『居た場所』(河出書房新社)はさらにクオリティが上がっており、今春には著者初めての長編小説が発表される予定であることにも触れられました。

石川宗生『半分世界』

『半分世界』については、新人の第一短編集とは思えないような内容のクオリティの高さと、短編集としてのまとまりの良さから、大賞に推したいという声があるほどでした。また日本SFのこれまでのマジックリアリズム系統の作品たちと比較して、ごくナチュラルに無国籍風な作風はとても新しいという評価もありました。しかし、すでに見事な個性を確立していると認めるにしても、その分やや収録作品がそれぞれに似通って見えること、また本作から予想される作者の技量からしても本作はまだ出発点であって、次作以降どんどん優れた作品を執筆し、そこで周囲の予想を大きく上回る傑作を見せてくれるのを期待したいという意見が出ました。本作が作者の出発点であるというのは大賞に推した選考委員も同意するものだったので、今回は見送りとなりました。

倉数茂『名もなき王国』

『名もなき王国』は、今回の最終候補作がほぼすべて中短編集か連作長編である中で、連作といっても作中人物の書いたとされる複数の短編が作中作のように小説の中に埋め込まれたという変則的なスタイルの長編小説でした。作者自身を思わせる語り手を登場させ、ほとんど虚実皮膜に近い技法を用いながら、物語を書くとはどういうことか、というテーマを、その魅惑に肉薄しながら書いた内容には、作者の切実な思考がうかがわれ、まさに現在のところ代表作といって過言ではない作品であり、何らかのかたちで顕彰したいとする選考委員が複数いました。大変な力作である点はすべての選考委員からも同意されましたが、結末の展開に関して選考委員の間ではっきり賛否が分かれました。またそれに関連して、作中作となる短編が作品全体の仕掛けに比してしっかり噛み合っているとは言い難く、無理につじつまを合わせたような不自然さがあるという指摘もありました。結末のどんでん返しに関しては意図的なものだとする選考委員も、その指摘には有効な反論がありませんでした。

円城塔『文字渦』

『文字渦』については、とにかく短編一作一作に込められた技巧、知識や洞察といった情報量の多さとその処理技術が尋常ではなく、その上で、余裕のある語り口の文学的な気韻に、アイディアや展開のよく考えるとバカSFといっても差支えがないような諧謔とユーモアは比類がないと全選考委員の間で意見が一致していました。そのため、比較対象としてはまず過去のSF大賞での「言語SF」としての受賞作である神林長平『言壺』と比較してどうかという意見が出されましたが、テーマは同じでもまったく違う方法の作品なので比較は難しいが、特に遜色はないだろうと意見が一致しました。ついで、過去のこの作者の作品との比較で、いつもの作品とほとんど同じではないかという意見も出ました。これに対しては、これまでの作者の仕事の延長上にあってその最新のアップデート版であり、代表作として間違いない、という意見や、そもそもこれまでに最終候補作となった『Self-Reference ENGINE』(第28回)や『Boy's Surface』(第29回)、あるいは特別賞となった『屍者の帝国』(第31回)などで大賞が贈られていなかったのが、他の候補作との巡り合わせの問題に過ぎず、今回こそ大賞を贈るべきだとする意見までありました。

山尾悠子『飛ぶ孔雀』

『飛ぶ孔雀』については、とにかく複雑な叙述の構造を持つ、一種迷宮的とも言えるような作品を揺るぎなく綴る文章の力が凄まじい傑作である、という意見はほぼ選考委員の間で一致していました。作品の構造についての意見を交換するうちに、ある選考委員から「作者はきっとSFを書いたつもりはないのだろうが、SFは想像力の文学なので、作者にそのつもりがなくても結果的にSFの傑作になるということは起こりうる」という意見や、「これまでの作者の作品のうちでも、ガジェットなどにいかにもSF的なモチーフが使われていないにも関わらず、構造的にはむしろもっともSF的な作品であるように思われる」などの意見もありました。また本来もっと前、具体的には2000年の『山尾悠子作品集成』(国書刊行会)刊行の際に贈賞されて然るべきだったので、この機会を逃してはならないという意見も出ました。

大賞の二作同時受賞と功績賞

前述したように、かなり早い段階で『飛ぶ孔雀』と『文字渦』のうち、どちらかの単独受賞か二作同時受賞かに議論は絞られていました。前回の選考会では同じように二作に絞られた後、時間ギリギリまでかなり厳しい議論が続けられましたが、今回はほとんど初めから両作品に大賞を与えたいという選考委員が多数を占め、結果比較的すんなりと同時受賞に決定しました。

今回の最終候補作のうち、狭義のSF(サイエンス・フィクション)に該当する作品は『最後にして最初のアイドル』のみであり、他の作品はどれもスペキュレイティヴ・フィクションや東欧文学で言われる「ファンタスチカ」であったり、あるいは「想像力の文学」とでも呼ばれるべき、広い意味での「SF」作品でした。そのため、選考会では選考委員による「SFとはなにか」という問題に関して、狭義のジャンル意識への批評性を加えた考察が垣間見える大変興味深い議論が行われました。

そして最後に林会長から、日本SFに対して多大な業績を上げた方に対し、その功績を称える目的で贈られる功績賞の推薦が行われ、討議の結果全会一致で横田順彌氏に対する贈賞が決定しました。

横田順彌氏は早くからSFファンとして活動され、平井和正のジュブナイル長編『超革命的中学生集団』(角川文庫)にモデルとして登場し、その人柄もあってひろく「ヨコジュン」の愛称で親しまれました。作家デビュー後は、創作では『宇宙ゴミ大戦争』(ハヤカワ文庫JA)などの破壊的なギャグと言語遊戯を徹底的にエスカレートさせる「ハチャハチャSF」で人気を集め、エッセイでは膨大な古書の蒐集から生まれたSFマガジンの連載エッセイ『日本SFこてん古典』(集英社文庫)などで、持ち前のユーモア溢れる文体で明治から終戦直後の日本で出版されたSF作品を紹介し、古典SF研究の草分けとなりました。その成果である『快男児 押川春浪』(會津信吾氏との共著、パンリサーチインスティテュート)で第9回日本SF大賞を、『近代日本奇想小説史 明治篇』(ピラールプレス)で第32回日本SF大賞特別賞を受賞しました。また古典SF研究を活かし明治期を舞台にしたSF作品も精力的に執筆しています。それらの作品は現在では〈横田順彌明治小説コレクション〉(柏書房)などで読むことができます。

渡邊利道 (校閲:横道仁志/編集:甲賀達治)

第39回日本SF大賞 選評

選評日下三蔵

今年はまず、功績賞を贈られた横田順彌さんの業績について触れておきたい。横田さんは言語遊戯と破壊的なドタバタに特化した「ハチャハチャSF」で頭角を現し、本人のキャラクターもあって「ヨコジュン」の愛称でSFファンから親しまれた。一方で蒐集した膨大な古書の中からSF的な要素を持つ作品を軽妙な筆致で紹介した『日本SFこてん古典』を連載。実際の作品をまとめたアンソロジーも数多く編纂して、「古典SF」という概念をたった一人で作り上げてしまった。これは文学史上に特筆すべき偉業だと思う。
 やがて明治を舞台にしたSFを書き始め、日本SFの祖と言われる押川春浪や、その仲間の天狗倶楽部の面々が活躍する作品を次々と発表。司馬遼太郎とも山田風太郎とも違う横田流のアプローチで、明治という時代を鮮やかに描き続けた。さらに古典SFから一歩進んで明治の文化史全般の研究者としても活躍した。NHKの大河ドラマに天狗倶楽部が登場し、多くのSFファンが横田さんの名前を思い浮かべた、まさにその矢先の逝去は残念でならない。
 SFを愛し、SFに愛された横田さんは、既に日本SF大賞を2回(大賞と特別賞)受賞されているが、改めて全業績を振り返った時、さらに功績賞をお贈りすることに反対する委員は一人もいなかった。個人的には、読者としてだけでなく、編集者としても大いにお世話になりました。横田さん、ありがとうございました。

さて、大賞の候補作についてだが、今年は中・短篇集または連作長篇ばかりで純粋な長篇が一つもなかった。その点では同じ基準で比較しやすかったとも言える。一方で、いわゆる狭義の「サイエンス・フィクション」に属する作品は一つしかなく、他はすべて幻想小説、メタフィクション、奇妙な話(ストレンジ・フィクション)と多彩な内容であった。
 筒井康隆が七一年に刊行した若者向けの入門書『SF教室』で早くも述べているように、「SF」という言葉は「サイエンス・フィクション」の略語として誕生したが、多くの作家が作品を書いてきたことで対象範囲が広がり、もはや「エスエフ」としか呼べないものになっている。かつてSFの本質を表す言葉として「センス・オブ・ワンダー」という用語がよく使われたように、センス、つまり、感覚、イマジネーションを核として、ファンタジー、ホラー、幻想小説、奇妙な味、前衛文学から実験小説まで、さまざまな周辺ジャンルと融合できるのが、SFの特徴でもある。
 今回の候補作のラインナップは、現代SFが豊かな発展を遂げていることの証明であり、選考に当たっても、そうした視点が必要不可欠だと思った。つまり、SFを「サイエンス・フィクション」としてではなく、「想像力を駆使して紡がれた文芸作品」ととらえ、その完成度を評価する、という方針である。
 その点では山尾悠子『飛ぶ孔雀』の完成度は群を抜いており、この作品の受賞は動かないと思った。山尾さんは早川書房のSFコンテストに投じた作品で七五年にデビューし、約十年にわたって活躍した。日本のSF作家としては、横田さんと同じく第二世代に属しており、山田正紀さんや堀晃さんと同じ雑誌で特集が組まれたこともある。
 当時のインタビューでも、自分の作品はSFではなく幻想小説である、と明言されているし、九九年に活動を再開されてからも、一貫して質の高い幻想小説を書いておられる。昨年、短篇「親水性について」を創元SF文庫の年刊日本SF傑作選にいただいた時も、紹介文でSFという言葉を使わないなら、という条件で収録許可をくださったほどなので、実は、今回、日本SF大賞の候補になることをお受けいただいたことに、一番驚いている。
 推理小説は技巧の文学であるから、ミステリをまったく知らずに書いた作品が優れたミステリになる可能性は、ほとんどないと言っていい。これに対してSFは想像力の文学であるから、SFと思わずに書いた作品が優れたSFになっていることは充分にあり得る。山尾作品は、後者のもっとも高いレベルでの実例である。
 初期の代表作「遠近法」や「ムーンゲイト」では、それでもSF的な世界設定から幻想的なイメージが描出されていたのが、『飛ぶ孔雀』では小説に書かれた言葉そのものが二重三重の意味を持って幻想的な作品世界を構築しており、こうした小説作法自体が極めてSF的であると思う。
 山尾悠子という作家にとっては(今さら)日本SF大賞を受賞することにあまり意味はないかも知れないが、日本SF大賞にとっては、創設時期と初期の活動時期が微妙にずれていて贈賞の機会を逸してしまった重要な作家に賞を受けていただく千載一遇のチャンスであった。

私が次に推したのは、倉数茂『名もなき王国』である。企みに満ちたメタフィクションで、連作の中に掌篇集がまるごと挿入されているという構成は、泡坂妻夫の第一長篇『11枚のとらんぷ』を思わせる。筆一本で世界を創造している、という点では、『飛ぶ孔雀』にも通ずるスタイルの作品であり、著者の最高傑作だとも思うが、私がこの作品を評価する多くの部分が、ミステリ的な仕掛けの美しさでもあったため、他の委員を説得するだけの論陣を張り切れなかった。

次いで高く評価したのは、高山羽根子『オブジェクタム』である。私と大森望さんが選考委員を務める第1回創元SF短編賞に投じられた高山さんのデビュー作「うどん キツネつきの」は、断片的に奇妙な出来事が描かれ、全体を通してみると裏で大きなSF的事件が起こっているのでは、と思わせる作品であった。物語の面白さと小説の上手さは充分に認められるものの、SF度が低いと感じられて大賞に推し切れず、佳作に留まった経緯がある。同作を表題とした第一作品集がSF大賞の候補になった時にも、上手いし面白いが、まだまだいいものが書けるのでは、と評価されて贈賞が見送られた。
 ところが『オブジェクタム』の、特に表題作は、「うどん キツネつきの」と同じスタイルでさらに高い完成度を示す傑作だった。こうなると、この形式が高山SFの「型」と考えるべきだし、のびしろを期待して授賞を見送った以上、さらにいいものを書いてきたら賞を出すのが筋ではないかとも思った。
 だが、他の委員からは、もっといいものが書ける、という意見が多く、なんといってもまだ二作目であると思うと、強硬な主張も出来なかった。高山さんのさらなる活躍を期待します。

円城塔『文字渦』は文字そのものをあらゆる角度から弄んだような言語SFであった。その発想と実験精神は横田さんのハチャハチャSFにも通じると思ったが、語り口が真面目な分、真顔で大ぼらを吹いているようなおかしさがある。言語SFとしては、SF大賞には神林長平『言壺』という受賞作があり、そのクオリティの差についても気になったが、検討の結果、遜色なしという結論になった。『言壺』に匹敵するということは、『文字渦』もまた、天下の奇書ということだ。一篇ずつは短いが、そこに込められたアイデア、技巧、手間の量は尋常ではなく、SF大賞にふさわしい作品だと思う。
『飛ぶ孔雀』の単独受賞か、『名もなき王国』『オブジェクタム』『文字渦』のいずれかとの同時受賞と考えて選考会に臨んだので、この結果には満足している。心情的にはすべての作品に大賞を贈りたいくらいだが、そうもいかないのがつらいところだ。

石川宗生『半分世界』は奇妙な味の作品集で、クオリティは申し分なかったが、これがこの作家の最高傑作か、と言われると、まだまだいいものが出てくると思う。新人の第一作が誰の目にも分かるホームランであるケースは意外と少なく、例えば広瀬正『マイナス・ゼロ』や半村良『石の血脈』が、いま発表されたら、それに該当するだろう。選考委員としては、できれば大賞はヒットではなくホームランに出したい。過去の例では梶尾真治『サラマンダー殲滅』のような作品が生まれた時だ。
『半分世界』は石川さんの第一作品集であり、これからこのレベルの作品がたくさん書かれると思うと期待は高まる。

草野原々『最後にして最初のアイドル』は、今回の候補作中で唯一の狭義の「サイエンス・フィクション」であった。SF的なアイデアが豊富でストーリーも面白く、ホームランとは言わぬまでも、かなりの長打であることは間違いない。新人の第一作品集としては、注目に値する一冊といえるだろう。一方で、小説作品として見た場合、えんえんとあらすじだけを説明しているような荒っぽさがあり、かなりアンバランスな印象である。
 いまのところ、剣道の防具をつけてバッターボックスに立ち、竹刀をメチャクチャに振り回しているのに打った球は二塁打、みたいな状況で、読者はそのパフォーマンス込みで草野選手に声援を送っていると思う。ここでフォームを改善し、「普通のバッター」になることは、実はそれほど難しくはない。小説は何作か書けば上手くなっていくものだからである。だが、その結果、打率の低い凡庸な打者になってしまっては意味がない。肝心なのは、どれだけ大きい球を打つか、なのだ。
 新井素子さんがデビューした時、特徴的な文体に途惑って、作家としては大成しないとか、いずれ普通の文体になる、などと批判した人がいたようだが、周知のように新井さんはあの文体のまま優れたSFを書き続けている。草野さんも自分の武器と弱点をしっかりと見極めて、どういう作家を目指すのかを考えていただきたい。応援しています。

三年間、日本SF大賞の選考委員を務めてきて、読者としては大いに勉強になったし、各年の選考については良い結果が残せたと思っている。SF大賞は日本SFにとって大きな意義のある賞である、という意を強くしたが、それもこれも優れた作品を発表する作家と、それを読んで支持する読者あってのものなのである。SF大賞はSF作家クラブや選考委員が上から与える権威などではなく、作家と読者が形成していく国産SFの歴史の中に、ささやかに灯された里程標なのだ。後世の読者は受賞作だけでなく、候補作や各年のエントリー作品にも注目して、SFを楽しんでいただきたいと思います。

選評高槻真樹

今回のラインナップは小説のみだが、ここまで思弁小説寄りの作品ばかりがずらりと並んだ例は過去になかった。スペキュレイティヴフィクションの絶対的価値基準について、語られるべき時が来ているということなのだろう。歴史的な選考の場に立ち会えたことを光栄に思う。
 とはいえ候補作中五作が、受賞レベルに十分に到達した完成度で、昨年以上のマラソン協議になるのではないか、と危惧を抱えつつの会場入りではあった。
 選考会ではまず、一人一人が一押しの作品を挙げることから始まった。皮肉にも最初に指名されたのは私である。仕方ないので『飛ぶ孔雀』と『文字渦』が拮抗しておりどちらとも決めがたい、と切り出した。ひとまず『飛ぶ孔雀』に一票を投じるが、最終的には少数派の支持にまわる、ということにしたのである。
 そして張りつめた緊張の中、五人の選考委員の意見表明が一巡した時、なんと全員が一致して『飛ぶ孔雀』と『文字渦』を挙げていた。あえて一本に絞った場合の集計は、『飛ぶ孔雀』三票、 『文字渦』二票という結果だったが、私が少数派に付くことを表明しているため、両者の票が三票と二票の間で揺れ動き決着しない、というおかしなことになってしまった。
「いやあ、困った困った」
と言いつつも、皆緊張がほぐれた顔でニコニコしていたのをよく覚えている。そう、誰もどちらか一方に絞る気などなかったのだ。全会一致での同時受賞が、事実上決着した瞬間だった。

まだ円城塔がSF大賞を取っていなかった、ということに驚かされる。円城塔ほど日本SFに多大な影響を与えてしまった現役作家はいないはずなのに。ただ、おかげでこうして文句のつけようがない大傑作でこの場に在り、それを選考委員として読むことができる。無上の喜びだ。漢字という言語をテーマに、得意の理系的情報処理と奇想的なアイデアを駆使して、まさに前代未聞の純アジアSFを誕生させたことには驚愕するほかない。
 見慣れた存在であるはずの漢字が、独自の法則によって組み替えられ、別の意味を与えられる。冥王星の軌道上に置かれたファイルやポケモンめいた漢字バトルや、演説をはじめるルビといった奇抜なアイデアの数々が、いちいち見事な「新しいSF」となっている。それでいて、人を喰ったインベーダーゲームネタなどを、しれっと投げ込む余裕ぶり。これぞ円城美学の完成形であろう。

山尾悠子については、何より「SFへの帰還」に感激してしまう。いや今回も幻想文学の王道であろうとの反論があるかもしれない。本書は様々な断片から成り立っており、個々の場面は、確かに幻想文学らしさを持つ。だが、全体として読み解こうとした時に、こちらでまとめようとするとあちらがほどけ、あちらでまとめようとするとこちらがほどける。部分は分かりやすいのに、全体をまとめることに著しい困難が伴う。
 実は、ここに本作品のもっともSF的な仕掛けが施されているのではないだろうか。円城塔『文字渦』と本書はちょうど対極の位置関係にある。円城は、飛躍した独自の「法則」を掲げ、それをつないでいくことで、かくも異様な漢字世界の物語を組み立てた。呆気には取られるが、円城のしつらえた土俵に乗ってしまえば、理解はできる。これに対し、山尾は個々の「現象」に着目したようだ。「火が燃えにくくなる」という現象の変化により、万物のあらゆる「現象」は少しずつずれていき、一枚の絵になりそうでならなくなってしまう。あちらでもこちらでも少しずつずれた、破綻した「現象」の集積としての世界が現れる。理解できそうでできないもの、として読者は世界をまるごと受け止めるしかないのである。
 今回の選考にあたって四回読んだが、そのたびに、とても同じ作品とは思えないほど、印象が変わっていくことに驚かされた。まさに、P・K・ディックが『銀河の壺なおし』で描いた、カレンドの書そのものである。
 まさに好対照の二作品、同時受賞で全会一致を得たのも当然だろう。

これ以外の三作品は、今後の成長が見込まれる書き手ばかりであり、ぜひ再挑戦に期待したい。
 石川宗生『半分世界』は、早くも独自の世界を確立してしまったということに恐怖すら感じる。マジックリアリズムだが筒井康隆や笙野頼子とも異なり、無国籍な世界で、おおらかなホラ話を見せてくれる。ただ、これで完成形かというとそれは違う気がする。
 高山羽根子『オブジェクタム』は、SFと純文学という二本の軸足をうまく生かして、クリアな文体で描かれた、美しい不明瞭な世界を作り上げた。しかし続く『居た場所』はさらに完成度が高い。今後よりふさわしい評価のチャンスがあるはずだ。
 倉数茂『名もなき王国』は実に惜しい。現実を自らに同化してしまう虚構という、ボルヘスの裏返しのメタフィクションを確立した業績は高く評価せねばならない。ぜひ特別賞に、と推したが、他の委員の同意を得られなかった。一見欠点に見える要素すら伏線として取り込む巧みさには感嘆させられたのだが、それはやはり欠点であるとする意見を覆すには至らなかった。技巧とあざとさは紙一重ということかもしれない。それが本書の至らなかった点かもしれないが、魅力でもある。惜しい、という悔しさはこの作品だけでなく私自身も甘んじて受けるべきだろう。力不足をおわびしたい。

残る一点草野原々『最初にして最後のアイドル』については、少し助言をしたい。
 美術教師の友人に聞いた、デッサンを嫌がる美学生を思い出した。抽象画を描いてやるぞと意気込んでいるときに、退屈なデッサンは辛いだろう。だが、フォルムを正確につかむ基礎的な技術を身に付けなければ、きちんと崩すことはできない。精進してほしい。

選評高野史緒

今回は図らずも候補作が六作全て小説ということになった。やはり、たった一人の人間が考え、個々の読者もたった一人で読むというミニマムな表現形式、小説は、今なお強力な魅力を持っていると言えよう。私は今回、『飛ぶ孔雀』の単独受賞もしくは『文字渦』との同時受賞という結論で選考会に臨んだ。各作品に対する評価は以下の通りである。
 高山羽根子『オブジェクタム』は、期待の持たせ方に対して、語られる結論が小さい。小さくてもいいのだが、納得させてほしい。筆力に対し、作品がアンダー・アチーヴメントであると感じる。著者は幾つもの文体で文壇受けする小説を生産する能力があるようだが、「やっぱりここは高山羽根子でなければ!」と思わせてくれる作風は果たしてあるのだろうか。作風の確立と、代表作となり得るような死力を尽くした作品が求められる。
 草野原々『最後にして最初のアイドル』は、基本、同じタイプの三作が収録されているが、意外に「同じものを読まされた」感は思ったより少なかった。まさに「今」を切り取ったテーマと、飽きられたりネタが尽きたりすることを恐れないガジェットのつぎ込みっぷりは見事だ。が、作品としての評価は他の候補作には及ばなかった。この著者は「これから」をどうするのだろうかという心配もある。今後を見定める必要があるだろう。
 山尾悠子『飛ぶ孔雀』は、大変な傑作であろう。本作は一言一句がムダなく、しかし窮屈でなく、作品の世界に貢献しており、一行たりとも読者を飽きさせない。登場人物たちは、前の役の衣装や台詞を引きずったまま次の役を演じ、物語は読むたびに違った様相を見せ、閉じるようで閉じない円環、永遠に続くスピログラフのように、著者から読者へと巡ってゆく。山尾は誰にも真似のできない、追随できない域に達したと言えるのではないだろうか。これを大賞としないのはあり得ない。一読してそう確信させられた。
 石川宗生『半分世界』は、マジックリアリズムを目指して(自認して)いるのかもしれないが(もしかしたらジェームズ・ジョイスあたりも意識しているのかもしれないが)、どの作品も「リアリズム」というところまで行っていない気がする。実にもどかしい。随所にちりばめられる教養も、表面に張り付けた飾りのようになってしまっている。が、作風にすでに独自のものがある点は高く評価したい。しかしSF大賞の俎上に載せるのは時期尚早で、佐藤哲也や北野勇作、浅暮三文等と比べられるくらいになってからだと思われる。
 円城塔『文字渦』は、晦渋と諧謔が廻旋し邂逅する諸余怨敵皆悉摧滅的怪作にして快作。文字や言語、意味、情報に関する広範な知識と深い洞察から生まれるおふざけは、まさにこの著者ならではのもので、他に比べるものがない。とはいえ、いや、だからこそと言うべきか、「いつもの円城塔」の再生産で、その点が『飛ぶ孔雀』に一歩及ばないと考えた。もっとも「いつもの円城塔」がSF大賞に値するのは確かなので、同時受賞に賛成した。
 倉数茂『名もなき王国』は、一編一編は優れた文学なのだが「幻の庭」は幻滅感があった。ひそやかな繋がりを持った幾つもの幻想を、外部から闖入した「著者」が、頭で考えてまとめに入って不必要に饒舌になってしまった。もっと単純でいいので、それまでの世界観を台無しにしない方法で完結させてほしかった。著者は、もっと自分の物語の「そのものの力」を信じてあげてほしい。作者が恣意的なコントロールを手放すことで、彼の物語は自ずと大成するはずである。
 今回はいかにもSFらしいSFは一作だけで、他の五作は広義のSF、主にスラヴ語圏で言うところの「ファンタスチカ」であった。候補作のほとんどが文学的にも優れていただけではなく、このように「SF」の定義が成熟してきたことも喜びたい。受賞者、候補者の活躍とともにも、来年以降のSF大賞の展開も楽しみである。

選評浩隆

草野原々『最後にして最初のアイドル』のテクストの値打ちは、意外にもその文芸としての可能性にあると考える。この文体や展開はほかの候補作と比べていっけん稚拙であるようだけれども、じつはいちばん若い世代の作家たち(まったく似てはいないが、たとえば大前粟生、佐川恭一らを念頭に置いている)において立ち上がりつつあるものと通底しているはずで、ここはしっかり確認しておきたい。SFとしてのアイディアや展開は(過去の受賞作と比べれば)単調だが、真の問題はべつの点にあろう。飛が気になったのは、収録作がいずれも若い女性の身体を冗談交じりに損壊し、作者がその加害にまんまと乗じて(損壊された人体に只乗りして)全能性を享受するありさまだった。それが作者にとって「これでしかありえない」誠実な表現である可能性はある。しかし同時に「SFファンの悪ふざけ」のもっとも質(たち)の悪い側面と共依存する結果になる懸念も排除できない。読者は、草野の過剰さを一時的にもてはやすのではなく、かれの感覚の敏感さに目を留め、繊細に育ててほしい。
 倉数茂『名もなき王国』の結末について委員の意見は分かれた。ミステリの解決のように固定された事実と読む見解、むしろそのことによって読者を虚構へ引きずり込むとする見解、他の章と等価であり互いの意味を揺らしあうのだとする見解。飛は第一の読みに立ち「そこに収束させる?」とやや失望した。公平を期すと、本作は入念かつ的確な叙述で作品全体を底支えしつつ、昭和のお屋敷物語りから現代の衰退した地方都市を舞台にしたスリラー、都会の夫婦の心の乖離から一片の雲母のような幻想的スケッチまで、振れ幅の大きなパートがたくみに連結されていて、作者は甘美と幻滅を背中合わせにした「王国」の姿を浮かび上がらせることに成功している。ただ、物語りと物語ることの物語りはあまたあり、それらと隔絶した質や斬新さを獲得したかを考えれば積極的には推せなかった。
 石川宗生『半分世界』についてだが、飛は同書に解説を書いているのでそれをご参照いただきたい。選考委員としての資格については、運営側に、問題ないことを確認して選考会に臨んだことをお断りしておく。あくまで偶々であるが、選考会において飛から本書に言及することはなかった。
 高山羽根子『オブジェクタム』を、私はひとつの展覧会のように愉しんだ。ある展示室には角の向こうに去る靴のかかとや、多数のスカートとその長さをまとめた表、パンチカードをすき込んだ壁新聞、移動遊園地のうごく精緻なミニチュアが展示されている。次の部屋はいちめん丈高い草に覆われ掻き分けていくとテントの中のインキの匂いを嗅ぐことができる。そして最大の空間にしつらえられているのは石と水と虹の庭園だ。ひとつのコンセプトから導かれた多彩な事物と表現。本書の文体(語り手の主語が周到に消されている)と叙述(やたらと道順を説明する)によって、読者はひとくみの目になり美術館の順路をたどる。巡覧を終え、文学の言葉には馴致しがたい感銘を受け取り、私たちは小説から退出する。候補作中、三位であると考えていた。
 今回で任期の三年を終えるわけだが、第一年目に選考会で「作者の『代表作』を大賞にしたい」という願いを口にした。代表作は一生にいくつも書けない。巡り合わせは世の常で、受賞作が「代表作」でないことも往々にある。だからこそ、新進作家が才能を大きく開花させ画期を築いた作品、中堅や大家の成熟した技法とおとろえぬ意欲が新境地に結実した傑作、そんな「代表作」に賞を獲ってほしいと思う。この三年、前者として『ゲームの王国』(昨年)、後者には『WOMBS』『シン・ゴジラ』(一昨年)、そして最終年となる今年に到っては文学史に残る『文字渦』と『飛ぶ孔雀』に出会え、まことに幸福な三年間だった。選考会では後者を推す委員がやや多かったが、どちらかが劣っているとまで言い切れる者はひとりもおらず、しぜん、二作同時贈賞が満場一致の意見となった。
 『文字渦』は断章の相互作用でより高次の世界を描出する点でも、そこにとぼけたユーモアや切なさがただよう点でも、『Self-Reference ENGINE』直系の最新形態であり、凄まじい切れ味の知的快楽が味わえるだけでなく、執筆環境から印刷製本工程まで(判型が四六版より微妙に小さいことを指摘する委員がいた)をも作品の一部に取りこんで、円城塔のひとつのピークとなった。コンパクトな一篇が包含する空間は唖然とするほど広く、その十二個を掛け合わせた世界は果てしないものと感じられる。
 『飛ぶ孔雀』のテクストは、どこまでもどこまでも読み手を裏切りあしらいつつ、世界がそれ自身から逸脱するさまを描き出す。緻密な設計と意地悪な即興がもろともに疾走する山尾悠子の緩急自在な呼吸、融通無碍な口跡がたどりつく最終行を読めば、だれだって涙せずにおられまい。小説(文学といってもいい)の最高の秘密  われわれはそこで何かを得るのではなく、大切なものを失って現実に還るのであり、だからこそそれは忘れ難い体験になるのだ  を、ここまで端的に、簡明に、そしてなつかしさと美しさを以て言いつくした台詞を、私はほかに知らない。

選評長谷敏司

今回の第39回日本SF大賞は、ノミネート六作品がすべて中短編小説集でした。賞の講評としては、あたりまえのことのように聞こえるかもしれません。ですが、日本SF大賞は、中短編、長編の小説だけでなく、評論も映画やマンガのようなジャンルも対象とするため、おそらく賞の歴史で初めてのことです。この日本SF大賞としては珍しい状況のため、純粋に中短編集の力だけを見るという、とてもわかりやすい選考になりました。
 議論を尽くすと、自然と大賞の二作が決まりました。
 以下、各作品について触れさせていただきます。
 『最初にして最後のアイドル』は、第4回ハヤカワSFコンテスト特別賞を受賞した表題作を含む、草野原々氏のデビュー短編集です。
 現在の若い世代が楽しんでいるソーシャルゲームやアイドルといったカルチャーを、拡大してゆき壮大なビジョンに到達するという、ワイドスクリーンバロックが三編入っている、特殊な構成の短編集です。若いワイドスクリーンバロックの書き手は非常に貴重です。
 いま、年若い趣味人が集まって盛り上がる中で、似たようなネタは日本のいろんなところで生まれていたかもしれません。すぐれた同時代性をもっていることは明らかです。ですが、この作品は、それをハヤカワSFコンテストという新人賞で評価を受けるだけのクオリティに仕上げて、若い世代にとどく言葉で物語を創り出しました。最初にハンカチをとったのは草野原々であることは、評価するべきところだと思います。
 小説としては粗いところがあります。これは他の選考委員の先生の講評で、厳しい指摘があると思われます。瑕疵がないとは言えません。それが作品の出来不出来の前に言い訳にならないことは承知の上で擁護するならば、作品のパターンが似ることは、ワイドスクリーンバロックに起こりがちな傾向です。本書の収録作では、この弱点を、物語を圧縮して、だれる前に物語を締めてしまうという手法で乗り越えています。しかし、ただでも情報量が多いワイドスクリーンバロックをさらに圧縮することは、物語をあらすじとして追うだけでもたいへんで、小説として内容を深く掘り込んだりふくらませたりすることが極めて難しくなるという、ジレンマを生み出します。
 これは、作家の能力よりも、書いた物語の性質と戦略の方向性からきているものです。難しいチャレンジを、時代に合ったかたちで、しっかりとお客さんのほうを向いてやりきった、エンタテインメント作家としての資質は高いものです。本作で見られた粗を、これから味としてゆくのか、克服してゆくのかを含めて、今後に大いに注目するべき作家であると思います。
 倉数茂氏の『名もなき王国』は、連作中短編集であり、ひとつながりの大きな物語でもあります。
 今回のノミネート作の中で、作者にとっての今、書かれるべき切実さをもっとも強く感じた作品でした。なぜ、この物語は語られたのか、この物語は語られなければならないのかという、言葉と自分の物語をもつ誰にとっても他人事ではないことと、向き合い続けています。
 物語ることで現実と物語の関係が曖昧になり、その曖昧になった足場から、物語の中の人物がまた新たな現実を物語りはじめる。その螺旋をつくるような運動が、物語と読者をどんどん遠くへと運んでゆく、切実さに押し流されて迷路に迷い込んでゆくような小説です。
 最終的には、物語が現実に着地し、これまでの語りの螺旋の意義や理屈がぴたりと合う、秀逸な構造を持っています。物語の中にあった切実さについて腑に落ちることも、素晴らしい読書体験です。ただ、この結末自体も、もしやと思わせる部分もあり、おそらくより大きな螺旋の入り口であることを想像させます。そこに至って、序文を読み返して、架空なるものと物語る人との関係を再び考えさせるのも、なるほどと思える仕掛けです。
 本作の構成はとてもよくできたものです。われわれは物語を語るとき、本当のことを語りながら架空の話をしています。架空に託して本当だったり本当に近いなにがしかを語るのも、そうしなければならないほど切実な現実があるためでもあります。ただ、小説のラストに納得するほど、人生のつらさに物語が回収されるようで、回収されることから逃れるためにその周囲をぐるぐる回っているようで、立ち止まってしまうところがありました。大賞として推すには、自分にとっては一歩足りませんでした。
 高山羽根子氏の『オブジェクタム』は、表題作となる短編がすばらしいものでした。ひっかかりを残した余韻をもつこの物語を、もう一度読むと、見え方がまるで違っていて、見逃していたさまざまな繋がりに気づくようになっています。その繋がりが、幻のように何かを形作って、追想と現実の間を繋ぐ小説体験を創り出していました。バラバラの現象のようでもある何かが、思い出の中で繋がりをもっていて、それをたぐってゆくと、自分の中での大切な風景や印象を強く残す記憶に結びついている。大切な風景や記憶に行き着く物語だから、どこにでもあるもので組み立てた遊園地が、忘れがたい光景になって読み手にせまってきます。
 人間が作り出した手つきの記憶が、どこかやさしい書きぶりで、心を動かします。個人的には、遊園地の光景と同じくらい、おじいさんが袋に石を入れて運ぶ姿が忘れがたく心に残りました。われわれの営みも、他の人からは他愛ないものを組み立てて、誰かに楽しんでもらうための容易に消え去る遊園地を作っているのでしょう。おとなになった主人公は、再びのぼってみるとしょぼくれていた丘に、そのときが来たら、今後は自分が遊園地を作らなければならないのかもしれません。
 秀逸な小説でした。ただ、今回は、SF大賞として一冊まるごと隙のない他の候補があったため、見送りとなりました。
 石川宗生氏の『半分世界』は、収録作「吉田同名」で第7回創元SF短編賞を受賞した石川氏のデビュー短編集です。パターンを並べることや拡張してゆくことで、シンプルなところから世界が野放図なまでに気持ちよく拡大してゆきます。拡張や配置や重ね合わせ、そしてひとつひとつはわかりやすいものである展開を、どんどん繰り広げてゆくことで、万華鏡のように世界を描き出してゆくのです。実際に小説としてこれほどのクオリティでかたちにするのは、すぐれた技術と思考の行き届きがなければ到底成し得ないもので、新人とは思えない堂々たる書きぶりでした。「吉田同名」では、同一人物が大量発生することで、同一人物というひとつのパーソナリティから成る均質な集団を創り出しています。この仕掛けが、パラメーターを減らしたことで人間集団が実験サンプルのように均質になるという大転換を起こし、人文的である人間の振る舞いが数学によるシミュレーションのように描き出されるという、唖然とする豪腕を見せてくれます。
 そのほかにも、半分に切り取られて丸見えになった家という、昔のドリフターズのコントのような状況から、展開の芸を見せる「半分世界」。歴史と交錯しながらスポーツと恋愛を基盤にして気持ちよくストーリーが展開してゆく「白黒ダービー小史」。バス停という人間が滞留する場所から、移動を止めて留まることと人類の関係を描き出す壮大なバス停叙事詩、「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」。ここに至っては、パターンの拡張や連続の中に営みの本質が存在するかのようです。
 デビュー短編集がこのクオリティであるというのは、まさに賞賛するよりないことです。ですが、石川氏の、思いつきのような種から拡大してゆく世界の可能性、あるいは別の書きぶりを見たい。という欲求がわきました。大きな才能の、ひとつの方向からの姿しか見ることができていないように思えたのです。今回は大賞ということでは見送りとしましたが、この尋常ならざる書き手のことが、広く知られてほしいと望みます。
 山尾悠子氏の『飛ぶ孔雀』は、自分にとっては最初、難解な小説でした。
 繰り返して読むと違った貌を見せる、含意もイメージも豊穣な一冊だったということです。最初に一行ずつ理解しながら読もうとしたときの感想は、迷路に迷い込んだようで、よくわからないというものでした。ですが、文章の中に答えを見つけようとするのではなく、書かれたテキストから想像をふくらませながら読むと、一気にイメージがふくらみ、楽しく読めるようになりました。「飛ぶ孔雀」クライマックスのスピード感をもってめまぐるしく展開してゆくイメージは、ただただ美しいものでした。
 続編のような、そうではないような、「不燃性について」では、そのイメージの世界がもう一歩純化されたような感覚がありました。ほとんどの人物は、名前のかわりにイニシャルで示されることで、人物からキャラクター性は半分はぎとられ、生き生きとしていながらもどこか不確かです。けれど、イニシャルにまでそぎ落とされたからこそ、人物はときとして他人にすり替わったかもしれず、Kのそれのような展開が、するりと納得をもって入ってくる。意味を読み取ろうと肩に力を入れることをやめれば、そこには絵画的な懐かしくも魅力的な光景が広がっている不思議な中編でした。込み入っていて、活気があって、なぜか懐かしい世界が、イメージとして広がりました。ミツのような名前のある人物や固有の名が、あれは「飛ぶ孔雀」のミツだろうかと想起させ、ふたつの物語世界をつなぐ手がかりのようにそうでないように曖昧でありながら、関連性に空想を広げさせます。こちらの中編のクライマックスも怒濤のようで、現実から離れることが大きいぶんイメージが純粋で、感情を揺り動かすせまりようも激しいものでした。
 不確かであることに意味がある。不確かであるものに幻想が滑り込み、われわれの現実は、幻想へと橋渡しされる。不確かさの中の、曖昧な表面のひだや陰に、世界の美しさが息づいているように感じさせます。改めて読み直しているとき、われわれが日々乗っている電車の中が、火の付かない世界の電車と同じレールに乗っていてもおかしくないような、不可思議な感覚があったことを覚えています。
 驚嘆すべき作品でした。謹んで大賞とさせていただきたく思います。
 円城塔氏の『文字渦』は、精密にバリエーション豊かに短編を積み重ねていった短編集でした。われわれの使う文字は、もちろん現実を書き記すためのものですが、この文字そのものが独立した現実であり、文字が現実をコントロールしているという言語SF的な顛倒を起点に、どんどん世界が広がってゆきます。
 言語SFの系譜の最先端というより、文字に焦点を絞った文字SFというべきものでした。ひとつの鉱脈を発見したうえ、その主要なところを掘りぬいていったような、すさまじい情報量の一冊です。いち作家として、一ページにかかっている学習や執筆の手間を想像するとめまいがしそうな、贅沢な短編集でした。しかも、そのコストに振り回されることなく、小説は統御されて惜しみなくさらりと締められています。見事です。
 それでも、限られた読者だけが楽しめる、間口の狭い小説かというと、そうではありません。むしろユーモアSFのような楽しさがありつつも、それを一行一行にあふれる、すさまじいほどの技術、知識や見識、遊び心によって作者の独自の世界に昇華した、広く構えられた作品でもあります。
 あまりにも盛り込まれた秀逸なネタが多すぎて、印象に残るところすら、読む人それぞれだろうと思われます。
 物語がどんな光景を読者に見せるかを意識された、幸福な一作です。本作は円城塔氏の代表作のひとつであり、大賞として賞するべき作品であると考えました。
 自分は、「金字」の経典で最高潮に達したイメージを経て、最後の書かれた文字自体が自らを書き進めるかのような「かな」で、気持ちよく語りを取り戻す構成に、深くうならされました。ただただ感心するよりありません。
 文句なしの大賞です。おめでとうございます。