第38回日本SF大賞 選考経過 選評

2018年6月20日公開 | 2018年4月20日・贈賞式会場にて配布された冊子より

日本SF作家クラブは一九六三年の創設より任意団体として活動を続けてまいりましたが、二〇一七年八月二十三日をもって一般社団法人日本SF作家クラブを設立し、日本SF大賞を含む全ての事業を、設立した新たな法人のもとで実施することにいたしました。
 この記念すべき年に日本SF大賞をスポンサードしてくださった株式会社ドワンゴ様と株式会社ブックリスタ様、百七十三作品もの作品エントリーを行ってくださったSF読者のみなさま、最終候補作を投票した日本SF作家クラブ会員のみなさま、五つの最終候補作から小川哲様『ゲームの王国』と飛浩隆様『自生の夢』の二作品へ第38回日本SF大賞を贈る決断をしてくださった選考委員のみなさま。受賞されたお二方と、功績賞をお受けしてくださった山野浩一様の関係者のみなさま、そして日本SF大賞を楽しみにされているみなさまへ、この場を借りて、お礼申し上げます。
 一九八〇年度より徳間書店様にご支援いただいていた日本SF大賞は、先の第17代東野司会長のもとで日本SF作家クラブによる自主運営へと大きく舵を切りました。会員であるSF作家、画家、評論家らによる自主運営には行き届かないところも数多くあるかと思いますが、日本SFの隆盛を数多くの方々に届けられていることを誇りに思っております。
 今後も、お付き合いいただけると嬉しく思います。

一般社団法人日本SF作家クラブ 第18代会長・藤井太洋

第38回日本SF大賞選考経過

第38回日本SF大賞の選考会は、日下三蔵、高槻真樹、高野史緒、長谷敏司の選考委員が出席、候補作に自作が選出された飛浩隆選考委員は書面での参加となって2018年2月25日に行われた。運営委員会からは藤井太洋会長の作品が候補作になっていたため開会の挨拶のみで退席し別室で待機、功績賞の選考で復帰する変則的なかたちとなり、前回オブザーバーだったYOUCHAN事務局長が司会をつとめ、オブザーバーは置かず、記録係として渡邊利道が出席した。

まず選考委員それぞれに大賞と特別賞に推したい作品を提示してもらい、ついで書面参加の飛浩隆選考委員のコメントが紹介された。その結果、大賞に『ゲームの王国』が二人、『自生の夢』が二人、特別賞に『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』と『ゲームの王国』がそれぞれ一人ずつと評価がわかれるかたちになった。
 個別の作品の検討では、日本SF大賞としてどのような作品を顕彰したいのか、という、選考委員それぞれのSF観、文学観、それに日本SF大賞の役割や意義といった観点が多く論じられた。また新人の作品がふたつ、既受賞者の作品がふたつ、大ベテランの数十年に亘る三部作の完結編がひとつ、というノミネートの結果から、それぞれの作者のキャリアの中でのその作品、また過去の作品との比較といった議論も行われた。

『横浜駅SF』に関しては、まずそのアイディアの奇抜さと展開の豊富さ、物語のわかりやすいストレートな面白さが全選考委員から最大級に高く評価された。しかし人物やドラマの書き込み不足や、大量の設定が齟齬を来している部分があるなど、完成度の点で荒削りさが目立ち、今回は受賞にはいたらず、素晴らしい才能なのは間違いないので、今後の作品に期待するという意見で一致した。

『公正的戦闘規範』には、非常に高いレヴェルの短編集なのは間違いないが、表題作が突出しているという意見や、第35回日本SF大賞を受賞した『オービタル・クラウド』に比べると、今後書かれるであろう作品を期待させる部分が強く、今回の受賞は見送るべきではないかという意見が出た。また、本作の工学的な側面についての記述が、一般読者に対して難解であるかどうかについて選考委員の間で意見の対立があった。科学技術の専門知識があるSFファンにしか理解されにくいのではないかという意見と、いやこれは現代人にとっては一般的な技術でとくに高度な知識を必要としないだろうという意見、また、作品のスタイルそのものは冒険小説やミステリの話法に則った読みやすいものなので多少の知識不足は苦にならないという意見が出た。

『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』については、作者の思考をそのまま自由連想法的に記述したような破天荒な文体や、クリシェの多用、アイディアや引用がまったく加工されずにそのまま投げ出されるように配置されているなど、通常の小説技法を大幅に逸脱している点と、作者のこれまでの長い文業からの自己引用、目配せが鏤められており、とくに『白き日旅立てば不死』『聖シュテファン寺院の鐘の音は』に連なる三部作の完結編として読まなければ理解不能な細部が多く含まれているため作品単体での評価が難しいという指摘があった。それに対し、さまざまな一見ネガティブな要素が、作品のラストに至って登場する思弁的概念によって一貫したパースペクティブを与えられるという、SF作品ならではの快楽を与えてくれ、また難解な批評用語や芸術作品の引用が頻出するにも関わらず、物語は非常にリーダビリティーが高く、ひろく今年度のSFの収穫として顕彰するに値するという意見が出た。しかし、長い議論の中で反対者を説得するまでには至らなかった。また三部作の完結編として特別賞の授与という提案に関しては、エントリーが作品単体でなされているため認められないという結論になった。

『ゲームの王国』は、第一部のマジック・リアリズム的作品世界と物語の強度がとにかく素晴らしく、それに比して第二部でのSF的アイディアの弱さや、物語がとくに登場人物達のエモーションの面から見て不完全燃焼に感じられてしまうという点が批判された。それに対して、第一部で登場するさまざまな要素が、第二部でそれぞれ構造的に受け継がれて発展させられていき、全体を通してスケールの大きな作品世界を作り上げていると反論されたが、作品の構造的な完成度は理解できるとしても、やはり登場人物の人生の時間の描き方に不足を感じられることなどが重ねて指摘され、議論は並行線を辿った。しかしまた日本SF大賞の「このあとからは、これがなかった以前の世界が想像できないような作品」や「SFの歴史に新たな側面を付け加えた作品」という選択基準に鑑み、これまで日本SFでほとんど題材にされてこなかったカンボジアという舞台設定の巧みな用い方は高く評価されるべきだという意見は全選考委員に認められた。また特別賞は、作品単体の評価は別にして、社会現象となった等の話題性が日本SF大賞という場において記録にとどめるに値する、あるいはSFというジャンル内での企画そのものの画期性や影響が顕彰されるべきであると判断されるときに贈賞されるもので、大賞の次点ではないという位置づけが確認され、候補作すべてが現役作家の新作小説という同一条件で『ゲームの王国』に特別賞を贈る理由はないと結論された。

『自生の夢』については、とにかく作品の完成度の高さは全選考委員の認めるところだったが、飛浩隆という作家にとって、この作品は期待値を大きく超えるものではないのではないか、また二度目の受賞というこれまで前例のない受賞に値する画期的な作品であるかという点が議論された。しかしこれもまた、作品の評価は作品単体でなされるべきであり、唯一比較されるとすれば過去の受賞作に対してで、その観点からも『自生の夢』はまったく遜色がない作品であると結論された。

激論の末、『ゲームの王国』と『自生の夢』の二作に絞られたものの議論は膠着状態に陥り、司会から過去の例を鑑みて二作同時受賞はどうかという提案がなされ、どちらの作品の支持者も支持しない作品が日本SF大賞に相応しい作品ではないという否定的意見ではなく、二作を比較すればこちらをとる、という意見であるということから、最終的にはその場にいる選考委員の全員一致で日本SF大賞の同時受賞が決定した。

最後に別室で待機していた藤井会長が選考会に復帰し、功績賞に関する討議が書類参加の飛選考委員も電話で参加して行われ、全会一致で山野浩一氏に対する贈賞が決定した。

文責=渡邊利道

第38回日本SF大賞 選評

選評日下三蔵

今年の大本命はテレビアニメ『けものフレンズ』だと思っていた。この作品と小説作品の収穫を、どのように比較・評価すべきか脳内で何度もシミュレーションを繰り返していたのだが、会員投票が思ったほど伸びず、次点グループに留まったのは意外であった。そもそもテレビアニメを見ている会員が少ないのか、視聴したうえで投票するほどではないと判断されたのかは分からないが、個人的には残念である。
 出揃った最終候補作は、小説、マンガ、評論、映画と多彩な媒体の作品が集まった昨年とはうって変わって小説オンリー。そのラインナップに不満はなく、むしろ受賞に積極的に反対する作品が一つもなくて、困ったほどであった。選考会の席上でも「日下さんは発言が少ないですね」と指摘されてしまったが、どれが受賞でもいいだろう、という気持ちが現れていたことは否めない。
 そして、新人の長篇二作では、どちらかと言えば『ゲームの王国』、既受賞者の短篇集二冊では、どちらかと言えば『自生の夢』、というのが私の評価だったから、この結果には満足している。
 そもそも最終候補作のすべてが早川書房の「SFが読みたい!2018年版」ベストテンにランクインしていて(1、2、3、6、9位)、1位と2位の作品が受賞しているのだから、読者として今年の選考結果に文句をつけるとすれば「順当過ぎて面白くない」ということになるだろう。選考委員の立場からは「順当なものを選んで文句を言われても困るよ」と返答するしかないのだが。
 もちろんこれは結果論であって、選考の席上ではランキングの順位などはまったく考慮せず、小説作品としての評価が詳細に比較・検討された。以下、各作品についての私見を述べる。

荒巻義雄『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』は「著者八十四歳の書下し長篇」ということに、まず敬意を表したい。いわゆる昭和ヒトケタの生まれで新作を発表している作家は、SF界では筒井康隆と眉村卓の両氏くらいしか見当たらず、お二人より荒巻さんの方が年長なのだ。もっともミステリ界では西村京太郎、辻真先、皆川博子と荒巻さんより年長の現役作家もいるから、年齢だけでは驚くに値しない。私が驚愕したのは、これが白樹直哉シリーズの第三作だったからである。
 第一作の『白き日旅立てば不死』は一九七二年に刊行された著者の第一長篇であり、国産SF初期の傑作の一つであった。私は十年後の八二年、中学生の時にこの作品を読んで以来、何度も読み返している。八七年に「SFアドベンチャー」に連載され、翌年に刊行された『聖シュテファン寺院の鐘の音は』は、『白き日~』の続編だ! と思って色の着いたインクで刷られた美しい単行本を興奮しながら読んだ。
 第一作のファラオ企画「原点叢書」版あとがきに、白樹の旅はまだ続く、とあって、さらなる続編の構想が示唆されていたものの、社交辞令のようなものだろう、と思っていただけに、二十五年後に本当に登場したこの第三作には本当に驚かされた。荒巻さんは確か山村正夫氏の作品集の解説で、その活動を楕円に例えていたが、白樹直哉シリーズも楕円を描いて運動しているかのように、一作目と二作目より二作目と三作目の間隔の方が長くなったのだ。
『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』はタイトルの通り宇宙が舞台となり、霊魂や意識について魅力的なアイデアが次々と提示されていく。懐かしい登場人物や過去の荒巻作品のモチーフが随所に見え、章立てや小見出しに至るまで著者の個性が横溢した作品世界を堪能したが、この作品単体では評価しにくかった。提示されたアイデアが原石のままであることが大きな理由だが、無論、小説に決まったルールはなく、この作品を評価できないのは解説で高山宏氏が言う「これをSFとして(のみ)評価しようとする痩せたもの差し」しか我々が持ち合わせていないからかも知れない。しかし、日本SF大賞の選考に、それ以外のもの差しを用いるのも、またおかしな話になってしまう。
 私は最初から、この作品は単体で評価するのではなく、白樹直哉シリーズ三部作として特別賞を贈るのがふさわしいと思って、そう主張したが、他の委員を説得することは出来なかった。力不足をお詫びしたい。

藤井太洋『公正的戦闘規範』はハイレベルな短篇集である。正確な科学知識に基づいて近未来の社会のあり方を想像し、そこに起こるドラマを描く、という著者のスタイルは、かつてはSFの本道だったはずだが、近年では主流派とは言えない。そもそもSFをサイエンス・フィクションと定義して「サイエンス」の部分にこだわる作家が少数派になってしまっているのである。
 藤井太洋の恐ろしいところは、平気で五年後、十年後、二十年後の「近未来」を舞台にすることだと思う。例えば人類が宇宙に進出して生活している、といった設定のSFならば、五十年後、百年後を舞台にするのが普通だろう。五十年前に光瀬龍が書いた宇宙年代記もの(「墓碑銘2007年」「オホーツク2017年」など)の作中年代に、われわれは、ようやく到達しつつある。そこに描かれた「未来」は現在とは違っているが、いま宇宙年代記を読んで、現実と違う! と怒る人はいないはずだ。時の流れが背景を洗い流し、芯となるドラマだけが残っているからである。
 しかし、五年や十年などはあっという間だ。藤井作品は近い将来、確実に「少し前に書かれた現在を舞台にした小説」として読まれることになる。予測の精度が甘ければ、たちまち時代遅れということにもなりかねない。それを恐れていないのが凄い。
 だから私は、藤井作品が真価を発揮するのは「作中年代が実際の年代に追いつかれてから」ではないかと思っている。その意味で、本書であわてて二度目のSF大賞を贈るのは時期尚早ではないかという懸念があった。なんと言っても、これはまだ著者の第一作品集なのである。SF界での活躍と存在感から、つい忘れがちだが、藤井太洋はまだデビューから五年しか経っていないバリバリの新鋭作家(!)なのだ。今後、次々と傑作が生み出されていくことは間違いないだろう。

飛浩隆『自生の夢』もハイレベルな一冊であった。表題作をはじめ、収録されている一本一本が発表されている段階で、これ、短篇集になったらどうなっちゃうんだろう、と何度も思わされた。実際に本にまとまった時にも、凄い一冊になったなあ、という感想しかなかった。
 いや、もう一つ、これは二度目のSF大賞あり得るか? とも思った。かつて日本SF大賞には、大賞を複数回は受賞できないという内規があり、作家クラブの自主運営に変わってそれが廃されてからも、大賞を二度獲った人はいなかったからだ(大賞と特別賞は横田順彌氏、宮内悠介氏などの前例あり)。
 私は大賞の選考に当たっては、その年の最良の収穫かどうか、という横軸の評価は当然として、これまでのSF大賞受賞作のラインナップに新たに加えて遜色のない傑作と言えるかどうか、という縦軸の評価も必要だと思っている。小説だけでも大豊作という昨今の状況では考えにくいことだが、最終候補の中でもっとも良い作品でもSF大賞受賞作とするには不満の残るレベルだったとしたら、「受賞作なし」という選択も視野にいれるべきだろう。
 既受賞者の場合には、さらにこれに過去のその人の作品との比較、というベクトルが加わってくる。『自生の夢』は、その点でも楽々と水準をクリアしていて、非常に推しやすかった。いい作品さえ書けば、二度目、三度目の大賞受賞もあり得る、という前例を示せたことは、SF大賞にとって大きなプラスになると思っている。

柞刈湯葉『横浜駅SF』はネットで話題になった時に、着想は面白いけど、これはいわゆる出オチ作品なのでは? と疑い、単行本をすぐに買って読み、全篇を埋め尽くすアイデアの数々に圧倒された。近年では逢空万太氏の『這いよれ!ニャル子さん』で同じことを思ったが、「ネタ(基本設定)」のインパクトだけに頼らず、「物語」を描こうとする姿勢には好感が持てる。
 神奈川県民にとって、横浜駅が常に工事中であるというのは常識だが、本州の99%が横浜駅と化した未来社会での冒険SFは、あらゆる読者を引き込まずにはいないだろう。この作中世界で私の住む横須賀市の久里浜が横浜駅の「外」にあったのはショックだったが、これは作品の評価とは関係がない。
 たいへん面白く読んだが、他の委員からも指摘されていたように、アイデアの量が多過ぎて、作品全体の構成を制御し切れていない点は気になった。もっとも著者の「あとがき」にあるように、この単行本はネットに発表されたうちの半分をまとめたもので、残りは別途刊行されると予告されているのだから(2017年8月に『横浜駅SF 全国版』として刊行)、第一分冊単体でノミネートされてしまったのは著者にとっては不運であった。
 今回は結果につながらなかったが、極めて有力な新鋭作家のひとりであることは疑いのないところだ。柞刈さんの今後の活躍に、大いに注目していきたい。

小川哲『ゲームの王国』も新鋭作家の作品である。やや未整理の目立った第一長篇『ユートロニカのこちら側』に比べると長足の進歩で、物語の孕む熱量を保ったまま、作者が作品全体を高い精度でコントロールしているのが素晴らしい。
 ポル・ポト政権下のカンボジアを舞台に奇抜なキャラクターが次々と登場する上巻は、マジックリアリズムを意識していると思われるが、私は白土三平『忍者武芸帳』の影一族を連想した。そう思ってみると、上巻の雰囲気は同『カムイ伝』に近いようにも見える。
 下巻に入ると一転して近未来へと舞台が移る構成の妙、「人生」と「ゲーム」を対比させた主題が明確に描かれ、小説の面白さをたっぷりと感じさせてくれる。SF味が薄い、という評もあったが、半村良『聖母伝説』のように注意深く読まないと最後までSFと分からないようなSFもあるのだから、本書も充分にSFの範疇に含まれると思う。
 この作品をもっとも強く推した飛さんが、よりによって書面参加だったため、議論の途中で隔靴掻痒の感はあったものの、その飛さんの作品と並んで受賞という結果は、順当なものだったと確信している。

今年は2017年に亡くなった山野浩一さんに功績賞を差し上げることになった。日本SF第一世代に属する作家でありながら、比較的早い時期にSFから離れ、競馬評論に活動の軸足を移した人だから、この贈賞を意外に思う人もいるかも知れない。SFアニメの原作や脚本は多く手がけているにせよ、SF作家としては、わずかに六冊の著書しか残していないのだ(他に傑作選が二冊出ている)。
 しかし、山野さんには著作という形では見えない多大な功績がある。ひとつ目は仲間褒めの体質が強いSF界にあって本格的な評論を発表し、賛否を巻き起こしながら議論の素地を築いたこと。ふたつ目はニューウェーブSFの理論的指導者として「季刊NW-SF」を創刊、数多くの後進の育成に当たったこと。みっつ目はサンリオSF文庫の編集顧問として最新の海外作品の翻訳・紹介に尽力したこと。
 特にひとつ目の業績については、編集者時代にSF同人誌「宇宙塵」の傑作選を編むために、同誌のバックナンバー全冊を通読した時の印象が忘れられない。舌鋒鋭い山野さんの評論の切れ味、そこから始まる諸家による論争の面白さ。何とか本に形にできないものかと、ずっと考えている。
 以上のような理由から、山野浩一さんに功績賞を贈ることに賛成した。アンソロジーには何度か作品をいただいたものの、直接お話したことは数回しかなく、恐らく私の名前は認識されていなかったのではないかと思うが、ひとりのSFファンとしてお礼を申し上げます。山野さん、ありがとうございました。

選評高槻真樹

牧眞司会員と交代で、今回から担当させていただくことになった。よろしくお願いします。打診を受けた時は、他の選考委員の方々とあまりに格が違いすぎて困惑したのだが、近年のエントリー傾向を受けて映画の知識を持つメンバーが欲しいという説明を受けて、ならばとお受けすることにした。
 皮肉にも、コミックや映画、アニメが並んだ前回から一転して、今回はオーソドックスな小説ばかり5点が並んだが、それだけ小説の成果が大きかった年だということだろう。実のところ、審議は瞬時に終わるのではないかと予想していた。他の選考委員の方々も思いは同じだったらしい。だが、いざ蓋を開けてみれば、各人の意中の作品はバラバラで、思いがけず難航を極めることとなった。
 当方が推したのは『ゲームの王国』。同様に強く推してくれたのは飛浩隆さんだった。問題は、飛さん自身の作品が候補作に入ってしまったため、書面参加となってしまったことだった。かなり強い調子で推してくれたのはありがたかったが、その根拠を示す表現が難解すぎてよくわからない。私が一人で、懸命に他の選考委員を説得しなければならなかった。反対意見は「SF度が低い」という点に尽きた。完成度の高さは認めるが、これはSFではないのでは? というわけだ。実は私も初読時は同じ感想を持った。ところが、今回の審査にあたりもう一度読み返してみたところ、上巻のマジックリアリズム的な描写が下巻のSF設定の見事な伏線となっていることに気付き、驚愕した。問題は、そのことを理解してもらうためには、この膨大な分量を二度読まなければならないということなのだ。
 対抗馬となったのは、ほかならぬ飛さんの『自生の夢』。確かに完成度は圧倒的で、文句のつけようもない。だが、これまで避けられてきた二度目の受賞にあえて推すほどの飛躍的進化はあるだろうか?
 議論が煮詰まったので、他の作品もひとつずつ検討し直すことにした。
 まず『横浜駅SF』。確かにアイデアは抜群に面白い。外枠はありふれた閉鎖社会ものだが、それをディストピア国家ではなく、人間の意思を超えて増殖する鉄道駅にしてしまった発想は注目に値する。だが一冊の本としてみた時に、詰め込みすぎで設定のバランスが悪い。ネット上で周囲と対話を繰り返しながら組み上げられていったという出自のせいもあるだろうが、別視点のキャラクターたちの物語があちこちで尻切れ状態で投げ出されている。そのあたりは続巻を読んでほしいということなのかもしれないが、本書の単体としての完成度が下がってもいいという理由にはならないだろう。慌ててまとめたせいだろうが、あちこちで設定の齟齬が見られる。しかし、そんなことは著者が一番分かっているようだ。がっかりするファンたちをなだめ、結果を冷静に受け止める、新人離れした対応には驚かされた。近い将来、今度こそ大本命の傑作を手に再挑戦してくれるはずだ。
 続いて『公正的戦闘規範』。例によってやや読みにくく歯ごたえがあるが、『オービタル・クラウド』からさらに先へ進んでいることを感じる。コンピュータ言語を、世界を読み替え新しいビジョンを組み立てるための、梯子として用いるうまさもすばらしい。第一短編集でこの完成度というのは驚異的だし、過去に候補となった二長編とは確かに違うものが感じられる。前の二冊が電子書籍を前提にしているのに対し、今回は紙で行きつ戻りつ読むことを想定している気がした。確かにそこから何かが生まれつつある。ここで提示された素材を組み合わせることで、さらに驚異的な長編が生まれるのではないか、そんな期待感を持ってしまうのである。今の所、そのアイデアの萌芽があるだけだ。となると、読者としては、それらの展開を踏まえた着地点を期待してしまうというものだろう。次なる評価は、その時でも遅くない。
『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』は、熱心に推す委員もいた。作者のSF界への多大な功績に関しては否定するものではない。ただ、この作品の構成には疑問を感じるし、作者が提唱する「マニエリスム文学」にも首をかしげてしまう。マグリット的世界を描くために「ルネ・マグリットのようだ」と書くだけで済ませることは、本当に何かを表現したことになるのだろうか。確かにわかりやすい。書き手の意図は100%読者に伝わるだろうし、同じ嗜好を持つ読者は熱狂するだろう。でも本当にそれでいいのか。言語表現の裏をかき、工夫をこらし、あえて言うならマグリットの名を出さずにマグリット的空間を感じさせる表現をしてみせることこそが、言語で物語を紡ぐ者がなすべきことなのではないか。あまりにも分かりやすいため、心にひっかかる違和感がほとんど生まれない。たとえば、作者と似た志向を持つJ・G・バラードの作品では、なぜそこに登場するのかまったくわからない外科手術の教科書などというものが唐突に出現する。そうした理解しがたさ、薄気味の悪い非合理性こそが、SF的想像力を喚起するのではないか。作者の分かりやすさがもたらした支持の広がりは認めるが、野心ある新しいSFを標榜するのであれば、あえて二兎を追ってほしかった。
 そして『自生の夢』である。毎回新刊を発表するたびに大賞候補となる安定感は伊達ではない。一定の読みやすさは保ちつつも、見せるビジョンの美しさ・巧みさには圧倒されてしまう。これぞ言語でSFを味わう醍醐味というべきだ。毎回90点以上を叩き出す驚異的な安定感をそろそろ再評価すべきか、それとも、来年に控えている『零號琴』に期待すべきか。さすがにあの難解極まる超大作をまとまったものとして改稿するのは至難の業だろう。ならば、この場を借りて私たちが飛の背中を押すべきではないか。『零號琴』が完成すれば、それこそが二度目のSF大賞にふさわしい基準点となるだろう。だから今回はあえて避けるべき、というのが私の意見だったのだが、「でも『廃園の天使シリーズ』は完成しなかった」という指摘を受けてしまうといささか辛い。
 かくして、大賞は『自生の夢』と『ゲームの王国』のどちらか、というところまで絞られた。そこでもう一度『ゲームの王国』の価値について説明することになる。SFとしてのキモは、下巻のムイタックの「あなたは普通が得意な人間ですか」という言葉に尽きる。上巻において展開される様々なゲームは「普通」の基準を巡って争われるものであり、下巻では、その解釈を巡って対立した主人公二人が、「普通」の主導権を巡って争うことになる。そのうえで素材となるのが人間の脳波というわけだ。
 カンボジアを舞台としたSF自体初だろうし、安易にマジックリアリズムやスチームパンクに逃げず、下巻で本格SFとしてきちんと着地させた腕前は、称賛に値する。なによりも読みやすく普遍性があり、SFに苦手意識を持つ一般文芸読者にも支持が広がったことは、本書の大きな功績である。
 確かに「若書き」としか言いようのない未熟さはあちこちに見られる。主人公二人が年を取ったようにまったく見えない、という指摘は確かにその通りだ。だがそれでも、あえてこの作品を推すことにこだわった。
 現在、SFの王道といえばグレッグ・イーガンであろう。確かにすばらしいのだが付いていけない読者も出始めている。SFの多様性を維持するためにも、今のうちに別の道を見つけておきたい。ジャンル外への広がりは大切だ。若き俊英がおぼろげながらも示した道に、確かな希望を感じた。これを途絶えさせてはいけない。
 二時間半の激論は膠着状態に陥ったが、『自生の夢』派を説得の末、同時受賞ならばということで、落着をみた。本当に疲れた。今は飛さんの講評を聞いてみたい気分でいっぱいである。ただ、ここで踏ん張って『ゲームの王国』を押し込んだことは、この先必ず生きてくるはずだ。その成果が表れる日を、今から楽しみにしている。

選評高野史緒

SF大賞はご存知の通り、小説のみならず漫画や映像作品、評論、果ては「SFとしか言いようのない出来事」等、恐ろしく広範囲に対象を求めている。そのために選定方式にも新たな工夫がなされているが、今回は図らずも五つの候補作が全て小説であった。対象を広く取っている以上、小説以外の候補作が上がってきて欲しいところではあるが、しかし、本年度は少なくとも、その五つの小説の中に「これが候補作とは納得しがたい」と思えるものが一つもなかったことを喜びたいと思う。
 過半数の委員が推したのが『ゲームの王国』であったが、私個人としては、これは小説の出来不出来とはまったく別な面で大賞には推し難いと考えた。理由は何よりも、本作の利とすべきところは一般小説的な面であり、SF的な点は「ちょっとしたアイディア」で終わってしまっている点だ。が、他の委員に対し強く反対するほどの拒否感はなかったので、『自生の夢』と同時受賞ならという妥協で大賞として同意した。
 その『自生の夢』も、一編一編は完成された作品群なのだが、一冊の本としては、単発の短編を混ぜたアリス・ウォンを軸とする未完成の連作短編集という印象になってしまっているのがどうにも残念であった。こちらも単独受賞には悩む、という評価をしたが、他の委員が強く推す『ゲームの王国』と同時受賞という形で落ち着いた。
 『公正的戦闘規範』は、これもまた『自生の夢』同様、一つ一つが完成された作品集であった。現在進行形のリアルな科学や技術を想像の翼に載せて近未来を透視するという、言わば古典的王道SFのあり方を今日に体現しているという点も大いなる魅力であった。ただ、続けて読んでいると、きれいに出来上がったエンターテイメントのルーチンに読者が踊らされている印象を受ける点にひっかかりを感じるのである。このハリウッド映画的なウェルメイド感を克服した時、この著者は短篇でも恐るべき力を発揮する気がしてならない。
 『横浜駅SF』は、私は本作の成立の経緯もネットでの評判もほとんど知らない、限りなくタブラ・ラサの状態で接した。いかにもライトなノベルらしい、力のいらないリーダビリティに逆に不満を感じる瞬間もあったが、しかし、総体として作品の印象はよく、意外にも(失礼!)私の中での評価は高い。出来事や人物が「やりっぱなしで回収されない」と評した委員もいたが、私はむしろ、それが予定調和的でないリアル感や不条理さ、理不尽さを作り出しており、かえって作品に貢献していると感じた。ただ、大賞として推すには本作はまだ小粒である。
 さて、問題は『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』である。実を言うと、私が大賞に推したのは本作であった。確かに、「一つの作品として」の欠点や問題は、他のどの候補作より多いのは否定できない。が、それでもなお、と私が考えたのは、本作が「まさしくSFという形でしかできない」テーマを限界まで追求した点にあった。人間の思想や哲学、芸術等々は、他の思想や作品から意識的、無意識的に影響を受け、反発し合い、消化吸収し合い、引用し合い……と、互いを無限の鏡が反映し合うようにして出来ており、それもまた無限の鏡が反映し合ってゆくことが無限に続くものなのだ。しかしそうである以上、本来は、人類の全ての思考を完全に網羅しなければ完成はしない。が、当然だがそれは不可能だ。どうせ何をやっても不完全にしかならない作品を、それでもあえてこういう形で、「無限大分の一」の部分だけでも形にしようという、その常軌を逸したクレイジーなSFっぷりこそ、SF大賞にふさわしいと判断したのだ。残念ながら他の委員の賛同を得ることができなかったが、私の本作への評価は変わることはない。
 いずれの候補作も、しかし、それぞれが全く別の方向を目指して独自の道を行っているが故に比較や序列付けが難しかったという点は、むしろ喜ばしいことであろう。各氏の今後の活躍を期待したい。

選評浩隆

選考会には欠席し、書面を提出した。以下はその書面に手を加えて選評としたものである。

結論から先に述べると、私は、小川哲『ゲームの王国』のみを大賞に推します。
 他の四作は小川作を押し退けるには至っていません。今回の候補作はすべて「新刊の」「小説」という点で同一条件であり、大賞には一作のみを選出すべきと考えます。

「『五十年以上も連れ添った作者とその妻が、ときどき同時に同じことを考えたりする現象』を説明しようとすれば、現段階では未発見だが必ず存在しなければならない素粒子Xを想定する必要がある」――荒巻義雄『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』は、こうした科学観に拠って立ち、「〈物語る機械〉と化した作者の脳の、ディスプレイであるところの前頭葉が、自律的に、明晰夢を見せながら上映した物語」。(作者じしんの言葉の要約による)。
 全編を通じ、奇妙な「人物」が次から次へと登場し膨大なトピックやアイディアを開陳してはあっさり退場して場面はつぎの場面へ切り替わる。一貫して読み手の前にとどまるのは語り手たる「わたし」の印象、存在感であり、つまりこの作品の主題は「作者その人」なのであろう。奇妙な登場人物だってみな作者の分身だ。
 大家の後期作とは多かれ少なかれそのようなところがあり、表出の仕方がやや緩い(例えば、特に後半、「らしい」を無造作に連発するところなど)ことも含め、「作者その人」の教養や思考や感覚を天衣無縫に語るその声に耳を傾け、読み手がそれぞれの感興を汲み取る――そのような楽しみ方に開かれた書と感じた。
 その限りにおいて構築性の弱さはむしろ美点である。また、科学的仮説の快楽や未来社会の迫真性異形性が他の候補作に及ばないこと、シュールレアリスムへ傾斜しながら美や明晰さにいまひとつを望みたいことも、大きな瑕疵とはならない。
 すると判断の分かれ目になるのは、この作品に徹頭徹尾「作者」しか登場しないことを是とするかどうかだ。私はSFに「他者との激突が起こる場」であることを期待し、あるいは「だれも見たことのない他者を生みだす場」であってほしいと願う。あらゆる細部が作者の掌中にあることに安住した、あるいはカバーデザインが象徴するようにすべてが作者の脳の遍歴として収束してゆく本作を、私は大賞にふさわしいと確信できなかった。

藤井太洋『公正的戦闘規範』の収録作はどれもこれも高密度で、考え抜かれ、洗練されている。要するにきわめて高品質である。この作者は「現代世界のクリティカルな局面でテクノロジーが果たしうるポジティヴな役割」を自らのテーマと掲げているが、それがポジショントークに流れないよう誠実な態度を貫いている。「第二内戦」を例に取ると、凡庸な書き手なら「西部」の人びとを反テクノロジーの徒として馬鹿にしそうなものだが、作者はむしろそこから「西部」ならではの可能性を汲み出し大きなブレイクスルーを出現させてみせる。公平であることが、興奮を呼ぶ。これぞ藤井太洋の真骨頂というべきか。
 しかし仔細に見ると、いくつかの作品では短編のサイズであまりにも多くのことを達成しようとするあまり、小説ではなくて過密な運行表でも見せられている気になる瞬間がある。一歩譲ってそれはいいとしても、そのダイアグラムがエンタメの骨法に拠りすぎていることは指摘しておかねばならない。
 「常夏の夜」を例に取ると、主人公と軍人が恋仲であるのは、一ジャーナリストでしかない主人公を国家的な秘密のそばに居れるようにするためだし、ロボットの暴走を仕出かす別の軍人との近さもふくめ、手短にドンパチにたどりつけるようにする工夫と思われるが、それでは人間関係や展開が「ただの設定と段取り」で終わっちゃわないか? それ以上に、この作品の真の核心は、ありがちなアクションを経なくては表現できないのか? 未来をたぐり寄せるふたつの手法の対比が新旧の世代を照らし出す構造(さらにはそれが小説の叙述それ自体の変容をも示唆するさま)には目を見張らされるだけに、もっともっとこちらを圧倒してくれ、とせがみたくなる。
 その点、表題作は題材と主題が緊密に縒り合わされ、細部は手の切れるように鋭利で、感銘が長く残る傑作だった。

残る二作のあいだでやや迷った。

柞刈湯葉『横浜駅SF』は、twitterに投下された一個のネタを拡張し台風のごとく発達させて一個の別天地を創造した作品。アイディアのエスカレーションぶりはもちろん、破滅後世界ものとしてもロードものとしても、なんとも正統的なSFで、そこに彩り豊かな小ネタを投下して魅力的なアップデートを施すところさえも「まさにSF」。時代に即した題材を振りまいているようで意外と賞味期限が長そうでもあり、それもこれも作者のずば抜けた機知、入念な細部構築を破綻なく全体構成と繋げてしまえる手腕、そしてなによりも天賦の愛嬌と運動神経あってのことだろう。
 しかしながら日本SF大賞の授賞の可否を問う段になると、このデキの良さ、というより「おさまりの良さ」が気になる。この作中世界はたしかに広大で起伏と変化に富み、さまざまな危険や恐怖、謎に満ちているが、読者はそれを安心して楽しめばよく、真に畏怖すべき瞬間――読んでいる自分の身に危険を感じるような恐怖、作品の内容が消化しきれず混乱が何日も頭に居ついてしまう体験――には出会えない。最初の一擲から予想される範囲を超えていかないのだ。
 もちろんこれは無い物ねだりだ。この作品はそのような衝撃を与えるのではなく、予想可能な「あるある」の内側に読者(や作者)をかくまってくれることに値打ちがあるのだから。
 しかし今一度読み返せば、二輪で四国を疾走する男の人物設定や、最終場面に窺えるディアスポラの予感は、この作品が軽快な装いの下に潜めたものの片鱗を見せてくれてもいる。作者はこの作品の可能性を知悉しつつ、敢えて洗練されたお話しをくり出すことを自分に課しているようだ。たしかにこの素材自体、そのような作品となることを欲してもいて、これはこれで十分お話作りとして正解なのである。
 しかし私は、可能性を底の底まで掘り返された作品――そうでなくてどうやって読者を震撼させられる? ――にこそ賞を贈りたいと願って選考の場に立っている。作者持ち前の作風に背を向けずともそれは可能なはずであり、他の候補作はそれぞれのやり方でこの難事に挑もうとしているのだから。

小川哲『ゲームの王国』が他のどの候補作よりも堂々とした小説であることは疑いない。からかっているのではなく畏敬の思いで申している。
 ここには作者が「これぞ」と見いだした重厚な題材があり、それを存分に展開する力量の発揮があり、「理不尽な世界でフェアなゲームを行うこと」という主題を徹底的に考え抜きあくまで物語として語ろうとする意志の息長い持続がある。その結果としてでき上がった小説は、めっぽう面白く、不謹慎な哄笑にも事欠かず、ときにページをめくる手を凍りつかせ、胸に迫る瞬間をいくつも生み出し、ついには祈りのことばにたどり着く。作者が執筆に着手したときにおそらくこの全体像は見えておらず、道なき道を歩き通してこの豊かさを読者に手渡してくれたことにはただ感謝しかない。
 問題はふたつ。
 ひとつめは「これ、SF分があまりないよね」、ふたつめは「SF分の方が、リアル分よりおとなしいよね」で、あ、つまり問題は一つか。
 そう、ここでわたしは「日本SF大賞」の選考をしているのだ。かくもリアル分で秀でた作品であるがゆえ、「本作はガチの日本SFとしてどうなんだ」を考え抜いてみたい。しかも、たとえばロベーブレソン村の風景を「マジックリアリズム」と持ち上げてよしとすることなく。
 そこで下巻に登場する脳波ゲームについて読み返してみる。
 表面的にはいかにも地味なアイディアであり実装ではあるが、実はこのガジェットは、長大な作品世界をメタレベルで「回顧」し(「思い出」に注目せよ)、回収することで、さまざまな苦悩と葛藤を一つの場面、一つの瞬間に結実させる流れを作り出しているのだと気づかされる。その流れは細い水流としてはじまり次第に複雑さと勢い、水量を増していくのだ。
 さよう、本作下巻では、ある破局へ向けて時間線を前方へ進む層とは別に、上巻で呈示した問題を巻き取ってゆく逆向きの流れがあり、この構造があってこそ作者は、上巻が作り出す巨大な慣性にあらがい、破局と救済が一つとなったピリオドを打ちおおせることができた――これが私の(とりあえずの)見立てだ。これを言い換えると「扱いにくい巨大な主題をまとめあげるために架空科学のガジェットを使う」となり、そのまま小松左京の出発点、戦後日本SFの原点の谺が聞こえてくる。
 この視点から見直すとき、巨大で複雑な本作はたちまちシンプルなアイディアストーリーとしての顔を見せる。本作の感動の中核にあるのは、かつてこの地上にあり今もある人間たちの絶望と希望が、ひとつのSFアイディアの登場によって、やさしく、またきびしく昇華されていくことにあるのだと了解される。
 これが堂々たるSFでなくてなんだろう。
 以上の理由で、わたしは『ゲームの王国』をためらいなく日本SF大賞に推す。

選評長谷敏司

まず、『公正的戦闘規範』は、藤井太洋氏の豊かな才能を示す短編集でした。
 難しい問題が希望の持てる方向へ進んでゆくのが気持ちよい一冊でした。エンタテインメントとしてハイレベルで、質的な信頼も素晴らしいものです。本を手に取ったときの信用は、現在随一だと思います。
 現在の技術の延長から、ポジティブな未来図を想像させてくれる筆致は、不安な時代だからこそいっそう輝くものです。未来に夢を見せてくれることがSFの大きな役割だったことを思い出させてくれます。「公正的戦闘規範」でのスマホやAI、ドローンが変えるテロと戦争のかたち、「第二内戦」の分断されたアメリカのように、今、旬の問題が、質の高いSFで切り取られることは、読者に興味を持ってもらいジャンルとしての可能性を広げるものだと思います。
 この短編集は、『オービタル・クラウド』の藤井太洋が、短編でもその魅力を遺憾なく発揮できることを証明してくれたと思います。ですが、そこから明確にもう一歩進むものになっていたと評価するまでは至らなかったと感じました。このため、今回は大賞に推すことはしませんでした。
 デビュー五年目とは思えない安定感にくわえて、さらに着実に世界を広げていっておられるので、ある意味選評が書きにくいです。実際、盤石の一冊でした。
『横浜駅SF』は、昨年度の大きな収穫だったと思っています。杵刈湯葉氏が持つ、世界の空白を自分のイメージで埋められる力は、SF作家として得難い適性です。しかも、文章が現代のネット連載小説が持つ、短い文章量の塊に読みどころを作ってゆくテンポに適応していて、さくさく読めます。
 このテンポ感は、新しい潮流ともいうべきセンスで、原稿を埋める情報の密度を見事に抑制できています。おかげで、大量の情報を伝えながらも読みやすい。こういう書き方ができるひとは本当にすくないと思います。
 人物の描き込みやドラマは、少し弱いと言えます。ですが、一冊の本として、SFギミックの洪水の中でも、これがしっかりと描ききられています。『横浜駅SF』は、この魅力的な世界を、テンションを落とすことなく書き切った腕力のほうを評価するべき作品でしょう。
 ギミックを、アイデアとディティールを整えて小説のかたちに落とし込むことに関して、候補作中で最高だったと思います。そして、そういう力を評価する場所は、SF大賞であろうと思います。
 ただ、今回は大賞作品と比べて、エネルギーがいま一歩及ばなかったと思います。杵刈氏は今回以上の作品をきっと遠からず書かれると思っています。
『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』は、思考と感性と記憶が、小説家の肉体を通して原稿用紙に足跡を綴っていったような本でした。荒巻義雄という作家の思索や感情が、読むにつれて前へ前へと進んでいって、以前の展開がどんどん切り捨てられてゆくので、独特の読み味があります。一歩ずつ死へと近づいてゆくような感覚があり、それと同時に、進むことで輪廻して生命に近づいてゆく過程であるかのようでした。
 ただ、悪く言うと、思索が延々と流れ続ける小説です。議論の合間にぽんぽんストーリーが進んでゆき、その議論もつながりがわかりにくく、夢を逍遙しているようでもあります。小説文として描写するべき部分を、体力の問題なのか、あっさりと流してしまっていることについては、やはり相当気になりました。
 この内的宇宙の旅を、荒巻氏のファンのかたは楽しんで読むと思われますが、この一冊だけを読んだ読者にとっては読解が相当難しいと感じました。ファンのかたには感慨深い作品だとは思いますが、賞に推すのはすこし厳しいと考えます。
 ただ、自分の父が七十八歳なのですが、八十四歳の作家の作品だと思うと、人間の知的能力はここまでやれるのかと率直に感嘆します。この作品の次に、どんな小説を書かれるのかと、わくわくしました。
『自生の夢』は、ただただシンプルに強い物語でした。特に、「海の指」と「自生の夢」は、本当に傑作です。
 言葉と運動の力に満ちた、イマジネーションと驚きが押し寄せるような短編でした。複雑でありながら、その感想を口にしようとすると単純なことばに帰結します。やはり、いいのです。
 ただ、一冊の本とするとき、連作のようになっている後半部のいくつかの短編は、入れないほうがよかったかもしれません。連作短編を意図していない本ですが、並んでいるからこそ、個々の短編として読むより、まとまってさらに大きなビジョンを作るのではないかと、おそらく作者の意図しない期待をしてしまいました。
 ともあれ、そんなことは些細なことで、文字と認識と言語と意識の物語を、これほど詩的に大きな世界を拍動させるように描くのは、SFの世界で寡聞にして飛浩隆氏のほかには知りません。各作のイマジネーションでただ単純に打ちのめしてくれる、強さと独自性がありました。
 かつてより現代的になり、より芳醇になった、大賞として顕彰するべき作品だと思います。飛氏はSF大賞では初の二度目の受賞ですが、二度目の贈賞をする理由があるならば、問題はないと考えます。
 小川哲氏の二作目の長編『ゲームの王国』は、選考会でもっとも激しい議論を呼んだ作品でした。
 まぎれもなく力作であり野心作ですが、個人的には、傑作かというと首をかしげる部分があったからです。
 とてつもなく濃密な上巻は文句なく素晴らしいものでした。前半のクライマックス近くで「ゲーム」と、弾圧下での生存ゲームが繋がってゆくところは、とてつもない作品を読んでいると唸るよりありませんでした。ただ、そこを超えるビジョンが下巻にあるかというと、すこしむずかしかったように思います。
 一度、講評にあたって、気になるところを列挙してみたのですが、本当によくできた作品に対して無茶な要望を並べているようだったので削りました。
 ただ、上巻のカンボジアは、あらゆるものが生存のために絞り込まれた、世界がひとつ間違えると死ぬデスゲームに転じたような、極限の現実でした。だが、それは、絶対零度近くまで温度を下げた極限環境で電子が電子対を作って超伝導が成立するような、特殊なありようです。下巻で描かれる近未来のカンボジアは、そうではありません。温度が上がった物体の中で電子が散乱して電気抵抗が生まれるように、人間は自由を手に入れてゆき、世界はもはや整理されていません。そこは、我々の知る現実に近い、シンプルで峻烈なエネルギーのありようはもはや潜んで表れなくなった現実です。だが、だからこそ、苛烈な世界でのゲームの決着をつけるべきソリヤとムイタックを、我々の常識に近い下巻のカンボジアで、もっとしっかりと見たかった。
 下巻でも楽しそうに悪役が生きているように、ソリヤとムイタックが生きる姿をもっときちんと見たかった。
 上巻は文句なしでしたが、全体を見て受賞におすかというと迷ったことで、議論になりました。この物語が持っていたポテンシャルは今以上に高かったように思えました。
 とはいえ、完璧でないという理由で顕彰しないのはあまりにも酷です。下巻も格を落とさないよう誠実に書かれて、充分に上巻の物語を受けて、豊かな余韻のある結びまで読者を連れて行く確かな力がありました。優れた作品を賞するための大賞なので、それを評価しないのは本末転倒ということになります。
 全体として、素晴らしい作品であり、大賞とするべき作品でした。小川哲氏は、この『ゲームの王国』で、若くして日本SFを代表する作家のひとりになったと思います。今後のいっそうの活躍を期待しています。