第36回日本SF大賞の選評と受賞のことば
2016年4月30日公開 | 2016年4月22日・贈賞式会場にて配布された冊子より
第36回日本SF大賞
谷甲州『コロンビア・ゼロ 新・航空宇宙軍史』(早川書房)
森岡浩之『突変』(徳間書店)
受賞の言葉 谷甲州
最初は『終わりなき索敵』だった。当時は候補作が公表されなかったが、こんなことは自然にわかる。結果が出たあとの選評では、落ちた候補作に触れることがあった。題名を伏せたままでも、候補作は容易に特定できた。ただし結果を早く知るには、新聞に頼るしかなかった。翌朝には全国紙で報道されていたのだが、記事が小さすぎて見逃してしまった。当時は選考の日程も公表されていなかったから、丹念に新聞をみていくしかない。結果が報道されてから、丸二日すぎてから電話があった。告げられた受賞作は、別の作品だった。どっと疲れが出てきた。
二度めの機会は、はやくも翌年にやってきた(らしい)。『天を越える旅人』が候補作になったようなのだが、このときも公表されなかった。選考の予定も不明だから、当日は普段とかわらない一日をすごした。ところが夕方ごろから異常事態になった。仕事場の電話が、何度も鳴りだしたのだ。相手はいずれも編集者で、特に用事があるわけではなかった。ひとしきり世間話をしたあと、全員がおなじことを訊ねてきた。「何か変わったことは、ありませんでしたか」。別に変わったことなどなかったから、そう答えるしかない。だが編集者は、要領をえない様子だった。それで一件落着かと思ったら、電話を切るとまたかかってくる。そして判で押したような応答のあと「何か変わったことは?」と訊ねて電話を終える。とてもではないが、仕事にならない。知りあいの編集者が相手だから、迷惑電話として切ることもできなかった。
事情があきらかになったのは、深夜になってからだったと思う。実はその日がSF大賞の選考会で、早い時間帯に受賞作が決まっていた。ところが作者は外出していたらしく、夜になっても連絡が取れなかった。これが混乱の原因だった。本人に知らせていないのだから、外部にむけて発信することもできない。発表を差しとめたまま、時間だけがすぎていった。当時は携帯電話が今ほど普及していなかったから、受賞者の帰宅を待つしかなかったのだ。だが出版各社は、一刻も早く情報が必要だった。受賞作の帯を取りかえたり、増刷などの対応もとらなければならない。仕方なく候補者とおぼしき谷に、電話をかけてきたらしい。かといって「受賞ですか、それとも落選ですか」などとは質問できない。遠まわしに「何か変わったことは?」と訊ねるしかなかった。候補者に負担をかけないための配慮だというが、実際には逆効果だった。
三度めは『エリコ』がきた。このときまでに選考方式がかわって、候補作が公表されていたと思う。前回から間があいていたせいか、かなり余裕を持って発表を待った。ただし、あまり期待できない事情もあった。最初から最後までひたすらやりまくる『エリコ』が、谷の代表作になるのは困る。航空宇宙軍史や『星は、昴』などの宇宙SFが、かすんでしまうのである。決して偏見ではなく差別を助長する気もないのだが、エリコではなー。
それに新田次郎文学賞を受賞した『白き嶺の男』の例もある。受賞のとき二人の娘は小学生だった。保護者が受賞したというので、校長先生が朝礼のとき全校生徒に報告してくれた。知らん顔もできずに、学校の図書室に受賞作を寄贈した。そうしたら、また朝礼の場で話題になった。だが『エリコ』の受賞時に、おなじことをやるのは具合が悪い。すでに娘たちは、中学生になっていた。中学校の図書室に『エリコ』がならんでいたら、それはそれでSFチックな状況だが風紀上好ましくないのではないか。などということを吹きまくっていたら、本当に落選してしもた。
そんなことが、さらに三度くり返された。そして通算七度めになる今回、ようやく結果を出すことができた。つまり谷の落選話はまだ半分も終わっていないのだが、すでに掲載枠を大きくこえている。受賞の言葉は次の機会にでも、と思ったが、それはさすがに厚かましい。だから、少しだけ。
今だからいえることだが、落選も決して悪くない、と思う。ことに落ち癖がついてからは、自作を客観的にふり返る余裕がでてきた。蛇足ながらつけ加えると、落選した回の選考結果はいずれも妥当なものだった。それなら、やることはひとつしかない。次は読者を圧倒する文句なしの傑作を書けばいいのだ。
などと格好をつけて書いたものの、実はいまだに信じられずにいる。あんな地味な話で、よく受賞できたものだ。いやほんと。
受賞の言葉 森岡浩之
仄聞したところ、たいていの文学賞では、候補者が結果の連絡を待つのは酒場と相場が決まっているとか。ところが、日本SF大賞の選考会はじつに健全で、昼過ぎから始まり、ギムレットどころかとりあえずのビールにすら早すぎる時間に決着がつきます。
そんなわけで、わたしは当日、酒場ならぬ喫茶店で担当編集者と知らせを待っておりました。
奇妙な感じがしました。去年はわたしが日本SF作家クラブ事務局長として、候補者の皆さんに当落をお伝えする役だったからです。実は、会員投票により今回の候補作が決定したときも、まだ事務局長でした。自作が候補作になったとき、光栄に思いつつも、困惑しました。受賞者から落選の知らせを聞くのは気分が悪いでしょうし、落選者から受賞を伝えられるのも気まずいかもしれません。しかも、事務局長は当落の連絡だけではなく、日程の調整、場所の確保など、選考会全般の段取りをしなければいけません。候補者が世話役では、選考委員の皆さんもやりにくいのではないでしょうか。ぜひとも、選考会関連の仕事をだれかに替わってもらわねばなりませんでした。「これを口実にサボれる」とも思いましたけれども。
幸い、事務局長の役職そのものを譲ることが許されたので、選考会当日は無事に伊藤優子新事務局長より電話を受けることができたのでした。
受賞後、「とっくに大賞を取っていると思っていた」と言われたりもしました。なかなか賞に値するものを送り出すことができず、忸怩たる思いです。
デビュー長編の『星界の紋章』が大賞候補作になったという噂は耳にしました。しかし、当時の大賞では候補作を公表しなかったので、確たる証拠はありません。その後は噂にすらならず、自信を喪失しかけておりました。挙げ句に不摂生なせいで身体を毀し、入院する羽目になりました。自業自得とはいえ、ずいぶん落ち込んだものです。
そんな中、学生の頃に読んだ『ヴァイキング』という本を思い出しました。著者の荒正人氏は古いSFファンには懐かしい方ですが、それはともかく、本書に記された、グリーンランドのヴァイキング植民地にまつわるエピソードがずっと心に引っかかっていたのです。
「この舞台を現代日本に移したら?」と考えたのが、『突変』を書く出発点でした。
恥ずべきことなのでしょうが、わたしには、どう語るべきかが見いだせずにいる「SFの卵」みたいなもののストックがけっこうあります。『突変』の構想が固まっていくうちに、その卵が融合し、別の大きなストーリーに発展しました。まだ書かれていないその作品からすれば、『突変』はスピンアウトとも原点とも位置づけることが可能です。しかし、まるでテーマの違う別の作品でもあります。頭の中で、二つのストーリーが共鳴しあい、成長していく感覚は、SF作家としての自信をちょっと取り戻させてくれました。
今回の受賞でさらに自信が戻り、『突変』の片割れである未成作品を形にしなければ、という思いを強くしております。手こずるでしょうが、その作品はシンギュラリティもテーマの一つなので、それが具現化するまでにはなんとかしたいものです。
今回は本当にありがとうございました。
第36回日本SF大賞 特別賞
牧野修『月世界小説』(早川書房)
受賞の言葉 牧野修
S-Fマガジン誌上で不定期連載されていた『MOUSE』が刊行されたのが1996年。現実の世界から奇想というものを生み出すのに、なんらかの論理的な道筋を用意する。それがわたしにとってのSFでした。『MOUSE』は当時SFとしてやりたかったことをやりたい放題にやった、そんな作品でした。「言葉」と「肉体」に執着するわたしの、当時の想像力の限界だったと思います。そのためか、それからしばらくわたしは小説というもの、SFというものを模索することになります。
中篇「月世界小説」がS-Fマガジンに掲載されたのが1997年7月号です。この号が出た頃、誌上では「この十年のSFはクズ」であったのか否かと論争の真っ最中。SFと銘打てば本は売れず、SFは冬の時代と言われていました。
わたしはもともと自分の進む道を迷うことなく突き進むタイプなどではなく、この当時は何を書いたら良いのかすっかり途方に暮れていました。どうせ売れないのだし世間的には無視されるのだし、とやけくそに近い状態で無茶苦茶してやろうと書いたのが中篇の「月世界小説」でした。作中でも主人公の小説家は登場シーンから、売れるような小説が書けない書けないと頭を抱えています。作中の試行錯誤はわたしの創作に対する試行錯誤そのままでした。SFって何だろう、小説って何だろうと実際に頭を抱えていた時期だったのです。過去形で語っていますが、それは今でも結論が出ていません。情けない話ですが、ある部分では当時よりも迷っています。その迷いに迷った道程を、そのままたどるようにして18年後に完成したのが今回の『月世界小説』です。想像出来ないものを想像する。なおかつ物語として楽しめる。本作がそれに成功したかどうかはわかりませんが、「SF小説」というエンタテインメントのサブジャンルで先人たちが果敢に試みてきた戦いの系譜に、何とかぎりぎり名を連ねることが出来たのではないでしょうか。本作品で賞をいただいたということで、わたしの歩いてきた道も、迷走は迷走なりに意味があったと言っていただいたような気がします。
さて、『月世界小説』はその中で原子力発電所を扱っています。作中で迎える1975年はオイルショックを経て日本のエネルギー産業が大きく変動する時期でした。石油に変わる未来のエネルギーとして、たくさんの原発が作られました。そして3・11以降、原発は様々な論争の争点となりました。そのようなものをわざわざ小説の中に取り入れる必要があったのかと疑問に思われる方もおられたようです。政治的な意図を感じた方には申し訳ないのですが、わたしには言語SFとしての興味しかありませんでした。つまり風説の流布、デマの問題です。それは「放射能」という言葉の持つ力と合わさって、多くの不幸を流行病のようにばらまきました。その言葉に曝されたものは、人も土地もたちまち汚染され穢れていきます。そんな現実に比べると、フィクションは弱毒化したワクチンのようなものです。良く出来たフィクションは現実と同様に人の感情を操作し、動かしますが、その影響は桁違いに小さい。しかし、それだからこそ人は恐怖までもフィクションの中であれば楽しむことが出来ます。虚構は現実へのワクチンとして、現実の呪詛から人間を救うことも出来るのではないか。そんなことも考えたのでした。何をどうしたら良いかわかりませんが、特別な賞をいただいたのですから、そんなことをこれからも続けていければと思っています。
ありがとうございました。
第36回日本SF大賞 功績賞
生賴範義
受賞の言葉 オーライタロー(故・生賴範義氏長男・画家)
このたびは父・生賴範義にたいし日本SF大賞功績賞という栄誉ある賞を賜りましたこと、昨年他界いたしました父に代わりまして、厚く御礼申し上げます。
平井和正氏の〈ウルフガイ〉〈幻魔大戦〉の二大シリーズ、『復活の日』『果しなき流れの果に』から『虚無回廊』にいたる小松左京氏の作品、8年の長きにわたった「SFアドベンチャー」誌の表紙、シモンズの〈ハイペリオン〉シリーズ。そして映画〈スター・ウォーズ〉〈日本沈没〉〈ゴジラ〉のポスター。まだまだ数えあげればきりがありませんが、父が50年間に制作した作品約2500点のうち、SF関連の仕事は全体のほぼ3割、約800点にものぼります。かように父はSFを「描く」人でしたが、また熱心にSFを「読む」人でもありました。父の書棚には銀の背のハヤカワ・SF・シリーズや函入りの世界SF全集が今もずらりと並んでいます。とりわけシマックはお気に入りの作家だったようです。
父がのこした文章はそれほど多くありませんが、かつてSFについて書いた文章をご紹介して、受賞の言葉とさせていただきます。
――SFアートを志す少年たちよ、SFとは単にスペースシップやエイリアンの登場する世界だけの話ではない。宇宙の果てまでに観察の眼を拡げ得る〝知性〟と地獄の暗黒に戦慄する〝感性〟という人類の両極に渉るものだ。そして現実世界は、光と闇の中間にある。まずは自分の手首を描くことから始めたまえ。かつて、その手が握った旧石器の硬い感触を思い出したまえ。
そこが遥かな〝時間と空間〟の旅への出発点である。(「スターログ」誌1979年8月号より)
第36回日本SF大賞 選評
選評「やっぱりSFが面白い」北野勇作
そもそも候補の中から受賞作を選ぶというやり方に正解や最適解はない。そんなものがあればとっとと手順を定式化して自動化してしまえるのだろうが、そうもいかないので選考委員などというものが選ばれ、自分たちにもやり方がわからないことをやることになる。だからよそから文句が出るのは当然だし、もちろん落とされる側にも文句はあるだろう。その気持ちはわかるだけに気が重い。毎回書いたことだが、そういう個人的な理由により今回も受賞作についてのみコメントします。だからこそ落としたものにもコメントしろ、という意見も当然あるでしょうが、嫌なものは嫌だから、しません。
『コロンビア・ゼロ 新・航空宇宙軍史』
その現場にいた人間の視点で語られるある歴史の転換点。一種の戦記物でもあるが、わかりやすい正義や悪の構図であったり歴史として確定してからの後付けの視点は排除され、あくまでも、ある状況である行動を選択した人間が描かれる。ひとつの選択が生死に直結する宇宙の現場感覚をここまでリアルに感じさせられ、同時にその背後で進行する個人にはどうにもできない巨大な流れも感じることができる。大賞にふさわしい正攻法の堂々たる宇宙SFだと思う。
『突変』
設定だけ見れば、よくある異世界転移ものという印象を持たれると思う。だが、それがもし現実に起きたときに現実に日常を生きている人たちがどんなふうにその非日常に対処したか、という部分をここまで地に足をつけて描いたSFはないのではないか。描かれているのは、組織の中できちんと仕事をできる人たちであり、何かが起きたときに自分が生きのびるために何をしなければならないかであり、そして集団の中の弱者を守ることであり、つまり、地域の日常を取り戻すことである。それは普通の行動であると同時に普通の人には絶対にできない行動で、そんな「めんどくさいこと」をきちんと地に足を付けて描き、なおかつ娯楽として面白く読ませてしまう筆力は、ひたすらすごいとしか言いようがない。
以上の理由で、二作が大賞を受賞、という結果に異論はありません。
ここで選考に関わったひとりとして言わせていただくと、候補作の中で私がいちばん推したのは『月世界小説』でした。言葉だけで紡がれたそのイメージの喚起力とドライブ感覚がとにかく素晴らしい。言語実験としてはすでに同種のものがある、という意見、そして、なによりも牧野修氏は『傀儡后』で過去にSF大賞を受賞している、二回目の受賞はもっとハードルをあげなければならないのではないか、といった理由で、いわば折衷案として「特別賞」に落ち着いたと記憶していますが、私個人としては、音楽にたとえれば、テーマやアイデアやアレンジ云々といった批評的に語りやすい部分よりも、「とにかく出している音そのものが素晴らしい」「こんな声は誰にも真似できない」という理由だけでも、SF大賞に相当すると考えました。まあ特別賞もSF大賞なのですが、賞金がなくて申し訳ない。
というわけで三年間、優れた候補作を読み、他の選考委員の方々とそれをネタに語り合える選考会は、そのプレッシャーと責任を除けば、この上なく楽しいものでした。今回もこれまでも、候補作はどれも面白かったし、しかしどれかを選ぶしかない、というしんどさも同じでした。私に言えるのは、やっぱりSFは面白い、ということだけです。どうもありがとうございました。
選評篠田節子
『うどん キツネつきの』は、文芸的なセンスと技法の際立った作品だった。少しとぼけた女の子的日常世界から、するりと異界にスリップする。正体不明の生物が犬、のようなものとなり、女の子たちと時間をともにしていく。「仕掛け」や「落ち」といった職人芸の世界ではない。作者にとっての自然だ。
それぞれ味わいの異なる短編が収められているが、「巨きなものの帰る場所」の呪術的世界もまた魅力的だ。一見したところ、女手のほのぼのした作品に見えて、文体にも描写にも生々しさと力強さがある。SFというよりは優れた幻想小説として読んだ。
『月世界小説』の凄まじいばかりの面白さは、どう説明したらいいのだろう。この作品が、なぜもっと書評その他に取り上げられ、評価されないのかと、ジャンルで縦割りにされた業界の理不尽を感じる。
旧約聖書を題材として、言語が実在化し多次元的世界が現出していく話が入れ子構造になっていて、と言えばとっつきは悪いが、イメージの鮮やかさとスペクタクルによってページをめくらされる。たとえば冒頭、青空にラッパを吹く天使が現れるシーンの美しさと不吉さ、まがまがしさ。たとえば有機物と機械の結合は、アイデア自体、めずらしくもないが、色、形、触感、におい、味、が読み手の五感に伝わる生々しい実在感。どうなる、と先を急ぎ、出現する光景に息を呑み、終結したときにテーマがくっきり浮かび上がってくる。小説らしい小説だ。
『突変』の面白さは対照的に説明しやすい。ある日突然、地球上のある特定地域が裏返る。ある日突然、特定地域が巨大なリングやグリッドや霧や峡谷や諸々のもので隔絶される話はたくさんあり、そのメカニズムについて説明される場合もあれば、単なる不条理として処理されることもある。いずれにしてもそこで起きる危機と人間ドラマで読ませる。だがこの小説ではリアルに境界を接した裏返しの世界と容易に行き来でき、外の世界の様相が何とも不気味で危険、同時に生態系大好き読者にとってはすこぶる魅力的な動植物が登場する。加えて裏返った世界の中で起きることも、これまでの書かれてきた小説とはひと味違う。パニック、犯罪、英雄の誕生、反対勢力との対立、圧倒的暴力といったもので引っ張っていったりはしない。分断された小世界に社会はそのまま残存し、既成の組織やシステムの中で何とか日常を維持しようと住民が律儀に右往左往する。いいじゃねーか、しょせんエンタなんだし、小説なんだから何でもありよ、の安直さが感じられないのである。後半、暴れまくる異界の生物が、怪物ではなく、餌不足から集落を襲う象に近く、弱った生き物に蝟集する捕食動物が人に危害を加えるという展開。そこに現代日本の小市民が、小市民的センスのまま放り込まれ、防御に苦戦する。書き古されたように見えて、実は今までにない小説だ。
そして全容が解明されないまま、この先、この町の人々が「大阪」を含めたその他の世界と、どんな形で関わるのかわからないまま、物語は幕を閉じる。今後、別タイトルの長編と三部作、四部作として完成を迎えるのか、シリーズ化されるのか楽しみだ。
『コロンビア・ゼロ 新・航空宇宙軍史』はストイックな小説だ。たとえば不合理な上官の命令に服従するか否かの葛藤、決断、想定外の敵の攻撃。その気になってシーンを立ち上げればいくらでも盛り上げられる小説的な見せ場を、意図的に平坦に簡潔に記述して経過とメカニズムを説明することで、テーマを際立たせていく。ドラマ化されない歴史ドキュメンタリーや武器開発史を見るような面白さ。こうしたスタイルの小説に馴染みは無かったが、あえて娯楽性を排除し、歴史はこのようなメカニズムで動いていく、ということをシミュレーションしていこうとする作者の矜持と美学を感じた。
『定本荒巻義雄メタSF全集』は、学生時代に一般小説としてSFを読んだ世代にとっては思い出箱のような作品群だ。芸術運動、思想、風俗、そして文体や発想も懐かしい。ただしあまりに膨大過ぎ、評価すべきは作品か、企画かといった問題もあり、他作品と同じ土俵に乗せることができなかった。 『SFまで10000光年』は私には理解不能な内容である。批評と判断を他の委員の方に委ねることをご勘弁いただきたい。
なお、三年間選考を行なってきたが、毎回、候補作のレベルの高さに驚き、SFの可能性を感じた。一読者として楽しませてもらうと同時に、創作者として貴重な勉強の機会を与えていただいたことを心より感謝したい。
選評谷甲州
前回につづいて今回の選考委員会も書面参加とし、当日は欠席させていただいた。拙作をのぞく五作品のうち、もっとも評価が高かったのは森岡浩之氏の『突変』だった。現在の日本と、それを取りまく悪夢のような異世界の接触が丹念に描かれている。同様の舞台設定は過去にも例があるものの、リアリティーと説得力では決して先行作品に負けていない。元の世界から切り離された地方都市の日常生活が、丁寧に描かれているせいだろう。物語の冒頭では淡々とした描写の合間に、さりげなく「裏返った」とか「チェンジリング(異源生物)」などの言葉が使われている。異様な印象を受けるが、特に説明はない。たくみな伏線に引かれて、読みつづけるだけだ。
登場人物は多彩で人数も多いのだが、いずれも普通の人々で生活感にあふれている。特異な能力を持ったスーパーヒーローや、未来を見通しているかのような指導者は登場しない。どこにでもいそうな中間管理職や、典型的なオタク集団などが等身大で描かれているだけだ。それにもかかわらず、彼らの戦いに引きこまれた。異様な環境に投げだされても、生き抜いていくしぶとさがあるからだろう。
異世界を舞台にしている点では『月世界小説』もおなじだが、こちらの方は異世界の構築よりも視覚的なイメージを重視している。日本SFの伝統ともいえる言語SFの骨格を持ちながら、本来は形をなさず文章でしか描写できない概念を「みせて」くれるのだ。ただし視覚的なイメージが先行しすぎて、舞台設定が把握しづらいという弱点が生じたように思う。たとえば敵対する存在としての「神」の素顔を、生々しく感じさせるシーンを挿入するだけでいい。印象は随分違ったものになるはずだ。現状では場面ごとのインパクトを重視しすぎて、全体像がみえにくくなっているように思えた。
直球勝負の前二作にくらべると『うどん キツネつきの』は、奇妙な読後感を楽しむ本なのかもしれない。つまり変化球のように、読者の意表をついてくるのだ。時には作品の完成度よりも、読後の印象を重視しているようにも思えた。これは狙ってできるものではなく、天性の資質なのだろう。今後この資質がどのような方向に進むのか、予断を許さない。願わくばさらに数段の進化をとげた上で、誰も予想しなかった未知の世界をみせていただきたい。
コミックエッセイの『SFまで10000光年』は、読者を選ぶ本といえる。最初のうちは理解しやすいが、回を追うごとにマニアックな話題に移行していく。読者を置き去りにしかねない勢いで、次々とネタがくり出される。読者の存在など眼中にないかのようだが、それにもかかわらず面白く読めた。すぐれた二次著作は、原典を知らなくても楽しめるからだ。時代が変化して元ネタが忘れ去られても、読ませてしまう迫力があった。
ただ月刊誌に1ページないし2ページの枠組で書かれたものを、一気に読むのはやはりしんどい。10年分の連載を一冊にまとめた結果、あまりにも濃密な世界が出来てしまった。散逸した掲載誌を一冊ずつ収集して他の記事や掲載作品に時代を感じつつ、それらに混じって異彩を放つ本作を味わうのが正しい接し方なのかもしれない。
『定本荒巻義雄メタSF全集』を他の候補作とどう比較するかで、かなり迷うことになった。二年前の『NOVA』にならって、企画の意義を評価するという方法もある。だが刊行されたのは個人全集なのだから、作家自身の評価を無視することは現実的ではない。収録作の出来自体も、評価の対象となりうる。ただしそうなると、別の問題が出てくる。長い年月をかけて生みだされた全七巻の作品群を、年間ベスト級の他の候補作と比べることが可能なのか。全集に収録された全作品の評価を問うのか、それとも集中の最高傑作に着目して他の候補作と比較するのか。
ここは「このあとからは、これがなかった以前の世界が想像できないような作品」か否かを評価基準にするしかない。念のために書いておくと「このあと」とは『定本荒巻義雄メタSF全集』が刊行された現代以降の時代であって、はじめて読者の眼にふれた時期よりあとのことではない。つまり現時点で全集が刊行された意義が問われているので、初出時の影響を再評価するものではない。そうするとこの全集は、最初から不利な条件下で他の候補作と比較されることになる。収録作を同時代に読んだ記憶を掘り起こすまでもなく、ここにおさめられた作品群は傑作がそろっている。すべてが傑作とはいわないものの、ヒット率は相当に高いといえる。個人的な感想になるが、第一巻に収録された「大いなる正午」は宇宙土木SFの傑作であり現在でも古さを感じさせない。他の収録作も同様で、時代をこえて読みつがれていく面白さがあった。
だが作品自体が古びることがなくても、周辺のSFは時代の変化とともに進化している。第四巻に収録された『聖シュテファン寺院の鐘の音は』は、今回の候補作でもある牧野修氏の『月世界小説』と構造が似ている。無論、似ているというだけでそれ以上の意味はない。しかしイメージの多彩さや、言語に対するこだわりでは『月世界小説』が上まわっているように思える。当然だろう。書かれた時代に大きな差があるのだ。両者を比較するとき、この違いは無視できない。したがって全集として刊行された意義は認めるものの、全集自体を年間ベストに推すのは無理があるように思う。
選評長山靖生
様々な傾向の候補作が並んでいる上、いずれも受賞して欲しいと思えるものばかりで困った。特別賞も含め、なるべく多くの作品の顕彰を、というのが今回の私の願いだった。選考会では最初に各選考委員が大賞に推したい作品を問われるのだが、牧野修さんと森岡浩之さんは既受賞者(と思い込んでいた)であることを考慮し、『コロンビア・ゼロ 新・航空宇宙軍史』と『定本荒巻義雄メタSF全集』を挙げた。
『コロンビア・ゼロ 新・航空宇宙軍史』には、超人的な英雄も、乾坤一擲の奇跡も訪れず、われわれの現実と地続きの歯痒い困難が描かれている。しかし人々は流されることなく、粘り強く考え、自らの技術をかけて挑み続ける。そんな人間の姿を抑制したタッチで描いて来た谷甲州さんに贈賞する機会を得たことを、ファンのひとりとして喜びたい。
『突変』に関する議論の途中で、ある委員より「『夢の樹が接げたなら』はなぜ受賞していないのか」との発言があり、私が「『星界の紋章』でお獲りになっていたからでしょう」と言った処、事務局から「未受賞です」との指摘があり、慌てた。『突変』の大賞受賞に積極賛成した。
毎回悩むのは、既受賞者の二度目の大賞候補問題だ。二度目の受賞は極めて高いハードルを越える必要があるが、しかしそのハードルが具体的にはよく分からない。歴史的には、これまでも既受賞者の再候補が何度かあったが、いまだに二度目の大賞受賞はない。一度、出てくれると、今後の流れも変わるのだろうが……。そうした事情もあり、『月世界小説』は特別賞ということで合意が得られた。言語実験というより言語冒険的な作品を、この規模で描き上げた力技とユーモアのセンスは、何らかの形で顕彰したかった。
問題は『定本荒巻義雄メタSF全集』だった。シュルレアリスムを自家薬籠中のものとして、極めてリーダビリティの高い作品世界を構築した荒巻さんの業績は大きい。私などは『白き日旅立てば不死』や『神聖代』で育ったようなものだ。荒巻作品は決して古びてはいない。しかしこれらの諸作品は、対象年度の作ではない。では出版企画として評価するというのはどうか。これに対して「この企画には多くのSF作家クラブ関係者が関わっており、身内優先と勘繰られかねない」との意見があった。この全集にまったく関わっておらず、荒巻さんと面識すらない(高校生の頃ファンレターを書き、丁寧なお返事を頂いたことはあるけど。宝物です)私には思案の外で、過剰な配慮と思われた。
他の選考委員が強く推す別作品にも感心しているので否定的意見が述べられない。そしてすべての候補作に贈賞するわけにいかないのも分かる。それでも、「いいものだから、いいのだ」と内田百閒のように口をへの字にして食い下がったが、議論の場で百閒に勝ち目はなかった。いずれ荒巻義雄論を書きたいと思う。藤元登四郎さんのような方がいる今、それに意味があるのかどうかは分からないが、書きたいと思う。
『SFまで10000光年』は連載中に面白く読み、今回一気に再読して、オタク的情報網目構造の細やかさと広がりに圧倒された。
『うどん キツネつきの』収録作品の不思議な味わいと巧みな文章には舌を巻いた。こういう作品、好きです。しかし若い方だから、今後も機会は来る。それに、これは大きなお世話なのだが、高山さんは一般文芸で十分に人気を得られるはずだ。そうした質の力量がある。デビュー早々に色がつかないほうが御本人のためではないかとも感じた。SF界としては、こうした作家を大切にしながら、広い分野で活躍して頂き、その読者も引っ張って来てもらい、数年後に大賞贈賞……というのが理想的かと思う。
今後も日本SF大賞が、SF界全体のためにも、個々の作家のキャリア形成のうえでも、有益なものであって欲しいと願っている。
選評牧眞司
選考委員を務めるのはこんかいが三回目だ。三年任期なのでこれでお役御免となる。ご一緒させていただいた谷さん、篠田さん、北野さん、長山さんがじつに鋭く、そして豊かな読みかたをなさる方々で、本当に楽しい時間をすごすことができた。さらに幸運だったのは日本SF史でも屈指の収穫期に、賞の選考を任されたことだ。収穫が多すぎて候補作(五~六作)の枠がとても狭く感じる。とくにこんかいはぼくが年間ベストと考え、選考会で推して推して推しまくろうと手ぐすねを引いていた作品が候補からこぼれてしまった!
同じくらい推したかった作品がもう一篇あり、そちらはとどこおりなく候補に入った。『コロンビア・ゼロ 新・航空宇宙軍史』だ。連作のかたちで、太陽系の各所でそれぞれ別個に勃発した事件がクライマックスでみごとにつながる。この構成が素晴らしい。設定だけを眺めるとオーソドックスな宇宙未来史に映るが、この作品の根底に流れる歴史観はほかのSFにはない独特のものだ。たとえば黄金期のアメリカSFはテクノクラート的な俯瞰視点で未来史を眺めていた。現代日本SFは戦後文学として出発したためアウトサイダー的な観点をとることが多かった。また、それに対するカウンターとして眉村卓がインサイダー文学論を提唱した。しかし、《航空宇宙軍史》の歴史観はそのいずれとも違う。主人公たちはもっと限定的な立場と視野でできごとに対峙し、のちになってそれが大きな歴史の屈曲点だったことがわかる。「現場にいる感覚」とでも言おうか、そこにはある種の覚悟と諦念がともなう。この境地は、日本SF大賞の評価基準「SFの歴史に新たな側面を付け加えた」と言えるのではないか。
SF史的な意義を勘案して推す『コロンビア・ゼロ 新・航空宇宙軍史』に対して、まったく個人的な動機で推したいのが『うどん キツネつきの』だ。ぼくは奇妙な味の短篇が大好きでだいぶ読みちらかしてきたけれど、この表題作のヘンテコな風合いはほかに味わったことがない。内容的な奇妙さでも技巧的に奇妙にしているのでもなく、日常をさらりさらりと描いて平然と奇妙になっている! 説明するのはむずかしいが、読んでみれば誰でも頷くおかしさだ。ほかの収録作もみな面白く、これからもこの水準で作品を書きつづけるとしたら高山羽根子はとんでもない逸材だろう。「新たな側面」という点ではまったく申し分ないのだが、それが「SFの歴史」に対してかというとよくわからない。でも、この作品が候補作のなかではいちばん好きだ。次の作品も楽しみ。
『突変』は文句なしに面白い。変な言いかたになるけど「文句ないくらいに面白い」ため、かえって文句をつけたくなる。森岡浩之はトガった作品がひしめく短篇集『夢の樹が接げたなら』、もしくは瑞々しいスペースオペラ《星界》シリーズで日本SF大賞をとっくに獲っているべきだった。いまさらこんな円熟したエンターテインメントを持ってくるなんてズルいじゃないか! 半村良が健在だったらライバル認定するに違いない。
『月世界小説』も面白い。ただ、牧野修ならこれくらいはやるだろうという面白さだった。疾走感という点ではすでに『MOUSE』で極みに達していたし、ヴィジョンの異様さは『傀儡后』が突き抜けている。要素で言えば、言葉がフィジカルに作用するというアイデアも分岐する宇宙も既視感がある。牧野修は自分がかつて書いた傑作と比べられ、読者の要求レベルもどんどん上がるからタイヘンだ。この作品は山田正紀『神狩り』とのつながりが指摘されるが、ぼくはむしろ世界のつくりは『神狩り2 リッパー』に似ていると思った。
『SFまで10000光年』はネタのぎっしりつまったイラストエッセイ。水玉螢之丞は絵柄といい、ツッコミのセンスといい、図抜けた才能の持ち主である。ただし、この本が扱っているのはSFそのものではなく、SFのある(特殊な)楽しみ方だろう。その楽しみ方を共有できる者にとってはこれほど共感できるものはないが、そうでない人間にとってはネタがわからないという以前にとっつきようがない。かなりハイコンテクストだ。
『定本荒巻義雄メタSF全集』は小説作品としてではなく、出版企画として候補にあがったと理解した。ぼくもかつて『白壁の文字は夕陽に映える』や『時の葦舟』をずいぶんと愛読したくちだから、こういうかたちでまとまるのは素晴らしいことだと思う。編集委員を務められた巽孝之、三浦祐嗣のおふたりの批評眼とセンスが溢れたゴージャスな内容・体裁に仕上がっている。SFがジャンルとして求心力や訴求力を持ち、新しい流れを創りだすうえで雑誌や叢書をはじめとする出版企画(どう仕掛けるか)は重要であり、その営為を日本SF大賞の枠組で評価する考え方にも大賛成だ。ただ、日本SF大賞が発足してからこれまでも荒巻全集に匹敵する出版企画はいくつもあったが、ぼくが知る限りではひとつとして候補にあがってきたことはない。正直に言えば「いまになってなぜこの全集が?」とちょっと違和感もあった。もし出版企画を賞の対象として考えるならば、旧作の集成ではなく新作を送りだすメディアにまずさしあげたい。また、違和感のなかにはこの全集に日本SF作家クラブの会員が多く関わっている事情も含まれる。もちろん、候補作の投票のときに組織票があったとあげつらっているのではない。自分が関係した企画に誇りを持つのはクリエーターならば当然だろう。ただ、作家クラブの外側から眺めた場合、公平性に疑念が持たれないだろうか? これは日本SF大賞が現行のシステムで候補作を選ぶうえで今後ともつきまとう危惧だ。本来ならば選評で書くようなことではないが、長山靖生さんより「そういうセンシティブな話題こそ作家クラブ内に閉じこめるのではなく、SFに関心をもっていらっしゃる多くの方々にオープンにすべきだ」と助言をいただいた。ぼくもまったくそのとおりだと思うので、ここに記しておく。
なお、作家クラブ会員からの提案を受けて、藤井太洋会長から「生賴範義さんに功績賞を」との推薦があった。まったく異存はない。SFの隆盛はビジュアルイメージによって支えられた面が大きい。とくにぼくたちの世代は小松左京作品や平井和正作品に付された生賴さんの絵が印象に焼きついている。