第35回日本SF大賞の選評と受賞のことば

2015年9月17日公開 | 2015年4月24日・贈賞式会場にて配布された冊子より

第35回日本SF大賞

藤井太洋『オービタル・クラウド』(早川書房)

長谷敏司『My Humanity』(早川書房)

受賞の言葉 藤井太洋

『オービタル・クラウド』を日本SF大賞へエントリーいただいた皆様、投票いただいたSF作家クラブの皆様、そして選考委員の皆様、ありがとうございました。

同時受賞となった長谷敏司さん、おめでとうございます。

二年前まで私はPC用のグラフィックソフトウェアの開発責任者でした。むき出しの数学やソフトウェア技術をユーザーの使えるような形にする──A・C・クラークの言葉を借りれば、技術を魔法に変える──ことを業務として行っていました。個人的には、Web系のツールを作り、ユーザーに「魔法」を提案していたエンジニアでもありました。

ソフトウェア開発は世界中の開発者が同じ問題に立ち向かい、ほとんどのプレイヤーが様々な要因で退場していく現場です。資金を集められなかったために、英語が苦手であったがために、ある時点でカリフォルニアにいなかったがために、志半ばにして意に染まぬことに手を染めていく現場です。

希望もありました。私の友人が作った国際宇宙ステーションの位置をWebブラウザーに表示するだけの小さなソフトウェアが、NASAのスペースシャトルミッションで利用されることになりました。彼の勧めで参加した開発合宿──ハッカソンでは、NASAの観測データを可視化するという問題に向かい、世界中のエンジニアと競い合いました。

『オービタル・クラウド』は、そんな人々や状況を大きなエンターテイメントとして描きたい、という思いで作り上げた物語です。

商業デビュー作品の『Gene Mapper -full build-』が出版された2013年4月、私は身体を壊したために会社を辞め、600枚の予定で『オービタル・クラウド』を書き始めました。物語はエンジニアであった私の体験と出会いの記憶を吸いこんで膨れあがり、年明けに脱稿したときには、約束の倍量となる1,200枚、視点を持つ登場人物だけで10名を越える大きな物語となってしまっていた。

問題は分量だけではありませんでした。現在の姿をほんの少し未来に投影して描いているという距離の近さから、SFとして楽しんでいただけるかどうか危ういと感じていたのです。

そんな物語がサスペンスフルなSF作品として届けられる形となったのは、ひとえに早川書房の井手聡司さんのおかげです。三人称の扱いにすら苦労していた私の初稿を前にしながら──刊行予定日が六週間後に迫っていたにも関わらず──3分の1のカットを含む大きな構造の変更を提案していただき、SFとしての強さを増すために最終章の驚きを幾度も書き直す機会を与えてくださいました。数ページにわたって、大きく「(ここで)ドンと(盛り上げてください)」と鉛筆で書かれた指摘は忘れられません。この場を借りて、改めて感謝いたします。

最後に、私にこの物語を書かせてくれたすべての人々に、そして『オービタル・クラウド』を手にとっていただいたすべての皆様へ、深く感謝いたします。

藤井太洋
藤井太洋ふじいたいよう

1971年奄美大島生まれ。2012年、電子書籍個人出版『Gene Mapper』を発表。同年、短篇小説「コラボレーション」「UNDER GROUND MARKET」の2作で商業誌デビュー。2013年4月に、『Gene Mapper』の増補完全版『Gene Mapper -full build-』(ハヤカワ文庫JA)を刊行。2014年2月にテクノスリラー巨篇『オービタル・クラウド』(早川書房)刊行、「ベストSF2014」国内篇1位となる。その他の短篇に、〈UNDERGROUND MARKET〉シリーズの「ヒステリアン・ケース」「アービトレーター」、『バベル NOVA+』掲載の「ノー・パラドクス」、『夏色の想像力』掲載の「常夏の夜」などがある。

受賞の言葉 長谷敏司

このたびは伝統ある賞を賜り、まことに光栄に思い感激しております。

読者の皆様、エントリーに推してくださった皆様、選考委員の皆様、そして関係者の皆様に厚くお礼申し上げます。

受賞作『My Humanity』は、2003年から2014年までの11年間で書いてきた短篇をまとめたものです。このため、振り返りますと、直接間接にデビュー以来一緒に本を作らせていただいた大半の編集者が関わっている一冊です。

わたしは作品が読者の人生の一シーンを猛スピードで通り過ぎてゆくライトノベルジャンルで、作家のキャリアを始めました。

本書所収の最初の短篇「地には豊穣」は、今も担当いただいてる早川書房の編集氏から、デビュー時の担当だった編集者を通して発注あったものです。

その後、二本目の短篇「allo,toi,toi」のときには、SFと二足のわらじで仕事をすることを、ライトノベルでの担当だった編集者に相談していました。

三本目「Hollow Vision」は、昨年日本SF大賞にノミネートいただいた拙作のスピンアウトとして書いたものなので、これもやはり担当者と話をしています。

四本目「父たちの時間」はこの短編集のために書き下ろした短篇です。何かエピソードがあったように思いメールボックスを探してみたところ、編集者さんに筆が遅いことをお詫びする自分のメールがたくさん見付かりました。

よくよく人の縁に助けていただいているのだと、改めて不思議な思いがしています。

非才の身で少しずつ学びながら歩んだ道のりを振り返りますと、不可思議という言葉で片付けたくはない感慨がわいてきます。

自分にとっては、SFの仕事は作家としての転機となるものでした。以前、第30回日本SF大賞にノミネートいただいた長篇『あなたのための物語』を刊行いただいたことで、さまざまなことが変化したのをよく覚えています。

それまでは、5年もあればシーンがまるごと色を変えてしまうライトノベルジャンルで、忘れ去られることを恐れながら日々仕事をしていました。けれど、自分にも記憶に残る仕事ができるのだと信じられるようになって、一作をよりいっそう大事にするようになりました。

当時ライトノベルでの担当編集者に「これからは作家として仕事が変わってくる」と言っていただきました。そのことを、ようやく本当に実感できるようになってきました。

これからは、今でしか書けない小説をただ時代に誠実に書いてゆく。そうして、本作以上のものを書いてゆくことをもって恩返しにしてゆきたく思います。

かつてSFとして夢見られたことが現実になってゆく、スピードの速い時代に自分たちはいます。

この中でSFの仕事ができることは大きな歓びです。その仕事を、日本SF大賞受賞という素晴らしいかたちでご評価いただけたことに心から感謝いたします。

今後とも皆様よろしくお願い申し上げます。

長谷敏司
長谷敏司はせさとし

1974年大阪府生まれ。関西大学卒。2001年、第6回スニーカー大賞金賞を受賞した『戦略拠点32098 楽園』でデビュー。2005年から『円環少女(サークリットガール)』シリーズをスタートさせる。2009年、長篇『あなたのための物語』(早川書房)で第30回日本SF大賞候補となる。2012年の『BEATLESS』(角川書店)は「ベストSF2012」国内篇3位。前回、第34回日本SF大賞候補ともなった。2014年には初となる短篇集『My Humanity』(ハヤカワ文庫JA)を刊行した。また、『BEATLESS』の世界観を開放して誰でも作品を発表できるオープンリソース・プロジェクトでも注目を集めている。

第35回日本SF大賞 功績賞

平井和正

受賞の言葉 平井摩利(故・平井和正氏 ご長女)

わたしは父の作品をほとんど読んだことがありませんと言うと、よく驚かれます。父親=作家ということを、若い頃はあまり意識していなかったのかもしれません。もちろん数々の作品を紡ぎ出していたこと、沢山の読者様に支えられて頂いていたことは判っているのですが、自分とは別次元の出来事と捉えていたようです。

そんなわたしが父が他界したことで初めて、故・平井和正の創作活動を身近に感じることが増え、SF界や当時の若者世代に彼がもたらしたものの大きさを知ることとなりました。

父が亡くなってから3ヶ月あまり、沢山の方々に語って頂いた平井和正像はわたしにとって非常に新鮮で【父親】以外の彼の姿がむしろ生前よりも生き生きと輝き始めたことに、今とても驚きを感じています。

わたしは父に対して長い間、仕事がすべての一匹狼のようなイメージを抱いて参りましたが実際は本当に沢山の人々と交流し、愛し愛されて来たのだなと、今改めて思うに至り、また嬉しく思います。


このたびは功績賞を頂戴致しましたことで、家族一同大変喜んでおります。天国の父の嬉しそうな顔を想像しつつ。

家族を代表しまして、心より深くお礼を申し上げます。

皆様、どうもありがとうございました。

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平井和正
平井和正ひらいかずまさ

1938年、横須賀市生まれ。中央大学法学部在学中の61年、「SFマガジン」の第1回コンテストに投じた短篇「殺人地帯」が奨励賞を受賞。翌年、SF同人誌「宇宙塵」に発表した「レオノーラ」が「SFマガジン」6月号に転載されてデビュー。その後、「SFマガジン」などに作品を発表する一方、『8マン』(画・桑田次郎/のち桑田二郎)、『幻魔大戦』(画・石森章太郎/のち石ノ森章太郎)、『ウルフガイ』(画・坂口尚)、『スパイダーマン』(画・池上遼一)とマンガ原作者としてヒットを連発。70年代には『狼男だよ』以降の〈アダルト・ウルフガイ〉シリーズ、『狼の紋章』以降の〈ウルフガイ〉シリーズを中心に多彩な作品を発表。SFの手法を通じて人間の暗部を鋭く抉る作風と容赦のない暴力描写は、のちのSF作家らに多大な影響を与えた。79年にスタートした小説版『幻魔大戦』以降は大河シリーズを中心に活動、『真幻魔大戦』『地球樹の女神』『ボヘミアンガラス・ストリート』など作品多数。2015年1月17日没。
(写真ご提供…
 故・平井和正氏 ご長女
 平井摩利さま)

「第35回日本SF大賞」選評

選評北野勇作

去年も書いたし、たぶん来年も同じことを書くだろうと思うのだが、受賞作以外の作品についてのコメントはしない。この選考は、候補作の中で自分にとって、もっともこの賞にふさわしいと感じるものを自らのSF観に照らし合わせて選んだだけのことであって、結果はそれ以上でもそれ以下でもなく、個人的にはそんな基準や考え方と関係なく書かれた作品に対し、あれこれ述べることなど余計なお世話であろうとしか考えられないからである。選評なのにそんなことでいいのか、という不満のあるかたもおられるかもしれないが、まあそんなことを言い出せば、こちらとしては自分の作品が候補作に残っていない、という時点で大いに不満なのだし、それにもかかわらずそれをぐっと押し殺し、べつに暴れたりもせず、どちらかといえば大人の態度で選考をしたのだから、そちらも我慢して欲しい。そして、そんな唯一の不満をのぞけば、『オービタル・クラウド』『My Humanity』の二作同時受賞という今回の結果は、とても満足のいくものだった。

じつは当初、2作同時受賞という考えが頭になく、この2作のどちらもがふさわしいと思ってはいるのだが、しかしどちらかを選ばなければならない、というところでずっと悩んでいたのだ。

まず『オービタル・クラウド』。物量、情報量、サービス、バランス、どれをとってもお見事としか言いようがなく、しかもこの世界を拡張した世界として地球とその軌道上を人間の生きるリアルな空間としてここまで動的にとらえたSFはこれまでにないと思われるし、そのアイデアの展開とディテールの丁寧な積み重ねには、SFと現実との境界線を揺らがせるほどの力を感じる。実際、SFだと意識しないまま楽しむ読者も多いのではないか。そのことこそが、まさにSF的な出来事だと思う。

一方、『My Humanity』は、短編集である分、こういった複数の候補作の中からどれかひとつを選ぶ、という局面においては、どうしてもインパクトや読み応えという点で不利にならざるを得ない。しかし結論を出せないままに、あるいはあえて出さないまま、それでも勢いを失わずに空中分解しながらさらに加速するような尖がった短編の数々は、私にとって候補作中でもっとも「SFにしか描けない何か」を感じさせるものだった。とりわけ、書き下ろしの「父たちの時間」があまりにも素晴らしく、選考会では、これ一作だけでも受賞に相当するし、この短編一作に対する受賞ということでもいい、と主張した。

日本人にはお馴染みの核が生んだあの怪獣をこんな形で再構築し成立させることに成功した作品を私は他に知らない。全体的なバランスよりもこの突出したアンバランスこそ、自分の惹かれるSFの核なのだということを再認識させられ、読んでいてとんでもなく興奮させられた。

そんなわけで、全体の意見としてはたぶん『オービタル・クラウド』になるのだろうが、しかしひとつ選ぶとなれば自分はこちらを推そう、といちおうは決めてはいたのであるが、いやいやしかし、ここまでくるともう結局は好みの問題であるし、『オービタル・クラウド』のような形で人間の生存圏を捉えた作品も他に知らなくて、しかもその大きな世界を組み上げるための細部に部屋の匂いや空気を感じさせるほどの説得力がある。そして、読者はそれゆえに、この大きな風呂敷に安心して乗っていけるに違いなく、つまりその読みやすさと安心感によって手堅い印象を与えられているだけであって、実際にはこちらも認識の最先端に位置するじつに尖がったSFであることは間違いないわけで、だからやはりこれを選ばないというのも心苦しい。でも、そんなことを言い出せば、他の候補作を落としてひとつを選ぶというのがそもそもそういうことなのだからもちろんそれは仕方がないだろうが、やっぱり苦しい。自分の意見に賛同が得られるかどうかなどわかりもしないのに、ああ申し訳ない苦しい困った困った困ったなあと鬱々しながら選考会に出てみると、結局はこういうところに落ち着いて、自分としてはこれ以上嬉しいことはないのだが、もちろん選ばなかった他の作品にも申し訳ないのは変わらない。だが、それは最初に書いたように私の作品なんか最終に選ばれもしていないのだからお互いさまと勘弁してもらうしかないし、勘弁してくれなくても仕方がない。あれこれ勝手なことを言われて落とされる作者の気持ちは痛いほどわかる。まあそれはそれとして、自分のSF観と推したい作品をどう読んだかを披露しあう選考会そのものは、前回に引き続いてじつに楽しく、おもしろい本の話をする喜びに満ちていた。それは最終に残った作品と作者のおかげです。感謝します。

選評篠田節子

今年に入り、純文学系の作品(純文学系文芸誌に発表された作品、あるいは出版社の純文学を担当する部署から発行された作品)をまとめて読む機会があった。そのイベント終了後に『誰に見しょとて』を一読、唖然とした。SF風、幻想小説風実験小説に比べ、論理性が貫かれているのは当然のこととして(純文学ジャンルでは、そうした論理的整合性は要求されない)、語彙の豊かさ、詩的な表現、日本語の文章の巧みさと美しさといった点で、現代日本の「純文学」に分類される作品より明らかにまさっている、と感じたからだ。

テーマや内容について述べたい。化粧品に使われる最先端テクノロジー、化粧の起源、呪術的要素、装うことから身体改造に至る連続性、といった事柄は、女性読者の一人としては了解事項というよりは、常識に近いもので、その前提を作者と共有したうえで、「おお、そう来たか」と膝を打ちながら、たいへんに楽しく読み進めた。(ちなみに『誰に見しょとて』というこのタイトルは、男社会の大いなる誤解を象徴するもので、実際のところは、現代の女性にとっては、この作品の中で幾度か語られるように「理想の自分に近づきたい」という動機が大きな部分をしめる)

化粧という日常の延長線上に物語は思わぬ方向に展開するが、水中、宇宙空間への適応を可能とする人工皮膚への物語的飛躍には、境界論、認知論をより説得力あるものにするSF的骨格があればと感じた。

あるいは短編それぞれの問題提起に短編内で決着をつけ、ラスト「化粧歴程」の詩的で壮大な世界に繋げられればさらに印象深かったかもしれない。とはいえこの方の作品は、SFに限定されない舞台で、大きくスポットライトを浴びるのではないか。

『北の想像力』については、文学を「北海道」という地域でカテゴライズしてまとめ上げた意図はたいへんに興味深く、記念碑的作品と言えよう。ただし個々の評論については、取り上げられた文学作品について私自身が未読であるものも多く、優劣についての判断ができず、他の委員の方に評価を委ねた。

『星を創る者たち』は、苛烈な環境下での巨大土木工事、登場する重機、事故と命がけの脱出、といった物語を牽引する要素のすべてが、読む者の心を惹きつける。たが、描写の少なさが辛い。説明と会話という簡潔な記述で進められる物語は、その語彙や説明によって自動的にイメージを立ち上げることのできる素養を読み手に要求する。残念ながらそうした素養が私にはなく、あらすじを追うことは出来ても、活字の背後にパノラマを広げることができなかった。

すべての短編を結び着ける最終章の発想は非常に魅力的であり、驚愕よりは壮大なロマンを感じる。

『オービタル・クラウド』は、冒頭、イラン人青年が気球を上げるシーンから一気に物語に引き込まれる。アイデア、テーマ、ストーリー、一癖ある人物造形。文句のつけようのない長編サスペンス小説だった。

とはいえ、「あんた、作中のテクノロジー、ちゃんとわかって読んでいるの?」と尋ねられたら「すみません」と頭を下げるしかない。だが、なぜか理解できた気になって、楽しく読み進めてしまう。画像を多用して原理を説明する科学情報番組と同じだ。作者の的確で鮮やかな視覚描写によって納得させられてしまうのだ。ちっぽけな善悪を乗り越え、人類の可能性のようなものを提示したところも、「泣ける」気分の安易な感動で決着させる凡百の「エンタメ」とは一線を画し、作者の真摯な姿勢を感じる。昨年の『Gene Mapper -full build-』からの大きな飛躍にも目を見張った。

一方、テーマ性の屹立した『My Humanity』は、『オービタル・クラウド』とは対照的な、極めて挑戦的な作品だ。「allo,toi,toi」の既存の価値観をゆさぶる叙情性にも息を呑んだが、新しく書き下ろされた「父たちの時間」が突出しており、この短編2本で大賞に値すると考える。

「父たちの時間」については平成のゴジラという意見が出たが、私はこれを極小群体ロボットによるパンデミック話として読んだ。

核燃料再処理工場ではすでにロボットが使われており、原発事故が起きたときにも、高濃度放射線下の作業にロボット導入が検討された。(ただし悪条件により誤作動を起こすうえ、重たく使い物にならなかった)

ならば一歩進めて放射性廃棄物処理や廃炉の管理のために、高濃度の放射線を吸収して作動する自律型極小ロボットを作ったらどうか。トイレ無きマンション問題は即座に解決。さらに自己増殖させて、増えたナノロボットは理想的な遮蔽壁になる。いかにも産学連携のどこかの研究室で生まれそうなアイデアだ。実験段階から日経新聞が飛びつき、文科省の補助金、企業投資も……。

核実験から生まれたゴジラが最初から背負っている暗さおぞましさとは対極の誕生、となるべきものだが、そんな先端技術には不安がつきまとう。科学的な説明をされても、生理的な部分で拒否感がつきまとう。

冒頭からそうした不安に包まれた物語は、人のコントロールを離れた極小ロボットが、生物的な進化を遂げていくにつれ、おぞましさも恐怖も加速していく。しかも得体が知れない。増殖から生殖に、それも有性生殖へと、たかが機械が進化する。有性生殖にともなう雄の発生。雄=父の持つ意味とは何か。

アイデアの一つ一つにうなずき、「これだよ」と膝を打つ。生物学的父の生態と男性科学者のセンスや行動を重ね合わせて語ることで小説的にも厚みを増している。簡潔にして的確、そして熱のこもった描写も読ませる。こうした作品が翻訳され、海外発信できたらいいのだが。

選評甲州

今回の選考委員会は書面参加とし、当日は欠席させていただいた。以下に拙作をのぞく4作品について、選評を書いていく。最初に結論から。4作品はいずれも甲乙をつけられないほどの佳作揃いだが、あえて順位をつけるなら『オービタル・クラウド』が頭ひとつ抜けだしているとの印象を受けた。『誰に見しょとて』と『My Humanity』がやや遅れてこれにつづき、評論集の『北の想像力』は別格として評価するのが相当と考えた。だがその差はわずかなもので、結果を予測することは困難だ。評価基準のわずかな違いで大幅に順位が入れかわる可能性は充分にある。各作品の評価は、次の通り。

『オービタル・クラウド』

全候補作の中で、唯一の長編小説。ストーリー展開を評価の主軸とした場合、どうしても長編小説の方が有利になる。1冊を丸ごと使って、ストーリーを展開できるからだ。短編集やアンソロジーにくらべて、読後の印象が強くなるのは否定できない。無論、短編集にも特有の魅力があるのだが、それは後述する。
 本書は長編小説の魅力であるストーリー性を、最大限に生かした秀作といっていい。最初に提示された小さな謎が、ストーリーの進展にともなって大きくふくらんでいく過程はスリリングだ。ひとつの謎がとけると別の大きな謎があらわれて、読者を飽きさせない構成になっているのも長編小説の強みといえる。さらに複数の視点で物語を立体的に構築していく大技も、長編小説だからこそ使えたものだ。短編小説であっても多視点の構造は可能だが、30枚から50枚程度の長さで同様のことをやるのは無理がある。
 ただ秀作であることは否定しないものの、気になる点もある。前作『Gene Mapper -full build-』でも感じたことだが、ストーリーの根幹をなす危機的状況が容易には読みとれなかった。したがって提示された謎を追う登場人物たちの動きにも、緊迫感がない。破局にいたる大雑把な道筋や、危機を回避するために必要なものが示されていれば登場人物と危機感が共有できた(つまり感情移入できた)はずだ。ところが現状ではそれがなく、曖昧な状態のままストーリーが進展する。あえて定型をはずしたとも考えられるが、惜しいとの印象にかわりはなかった。ストーリーを構築する上で読者に状況を伝えづらい事情があったとしても、緊迫感を共有することは可能だと考えられる。かりに状況を明かせなくても、危機回避のタイムリミット等は示せるのではないか。物語の進展にともなって謎がとけるだけではなく、危機の本質がより深刻となるような展開がほしいところだ。

『誰に見しょとて』

前項で長編小説の有利さについて書いたが、短編集やアンソロジーにも捨てがたい魅力がある。ことにSFのジャンルにおいては、短編小説は長編小説に劣らない広がりを持っている。かなり特異な舞台設定や、登場人物のキャラクターを作品ごとに選択できるのだ。基本的に短編小説の舞台や登場人物は使い捨てであり、物語の終息と同時に放棄するべきものだ。SFに限定していえば、作品ごとに異なる宇宙を構築することが可能となる。だからこそ、濃密な物語空間が生まれるのだ。
 その上で本書の基本構造をみていくと、短編集ではあるものの全体がひとつの大きなストリーを形成する連作短編になっている。つまり「作品ごとに異なる小宇宙を用意する」という短編SFの特性を捨てても、ストーリー性を重視しているといえる。あつかっているのは化粧や美容という日常的な素材だが、一話ごとに思わぬ方向へ飛躍するのが興味深い。ときおり強引さを感じるものの、ついには人類の進化にまで話が広がる。古代のプリミティブな動機からはじまった化粧が、宇宙に進出した人類の必要装備となるまでを描いている。
 ただ最終話となる第10話は、描かれているエピソードが多すぎて混乱状態だった。それまでの登場人物が総出で「その後」が語られるのだが、かぎられたスペースですべてを網羅するのは無理があるのではないか。各エピソードを代表する人物だけを登場させるか、さりげなく過去のエピソードや登場人物の行動を補足した方がよかったように思う。現状では語るべきことが多すぎて、容易に実情を把握できなかった。

『My Humanity』

本書も短編集ではあるが、他の候補作と違って連作ではない。各話にストーリー上のつながりはなく、その意味では純然たるSF短編とみなしてよさそうだ(分量からすると中編と呼ぶべきかもしれないが)。ただストーリーは独立していても、機軸となるアイディアは先行する自作長編から派生したものだ。独自の舞台設定とアイディアが投入されているのは、集中で唯一の書き下ろしとなる「父たちの時間」のみだった。
 こう書くと独自性のとぼしい派生作品のような印象を受けるが、そんなことはない。舞台設定やメインアイディアが共通でも、独立したストーリーを生み出すことは可能だ。一般論としては語れないものの、この著者の場合は困難ではないはずだ。アイディアや小道具を生みだす手順が、演繹的だからだ。
 大雑把にいってSFに登場するアイディアや小道具は、二通りの手順をへて生みだされる。ニーズから思いつくか、基本的な原理から演繹的に導きだされるかだ。前者のニーズ先行型は、最初に「こんなものがほしい」という欲求がある。ドラえもんの「どこでもドア」のように直感的でわかりやすい道具だから、作動原理を描写する必要もない。未来の超技術で製作されたことにしておけば、普通の読者は納得して存在を受け入れてしまう。
 これに対し演繹型は、理論的な裏づけがもとめられる。基本的な作動原理や原型機は超技術でいいが、その機器が普及した場合の波及効果には説得力のある解説が必要だ。ニーズ先行型よりもリアルになるせいか、どうしても説明が過大になる。SF作家は通常どちらかの型に分類される。そして作風が大きくかわらないかぎり、型が変化することはない。著者の長谷敏司氏は典型的な演繹型思考の主といっていい。先行作品に登場した疑似神経制御言語ITPのアイディアを流用して、まったく別の物語を生みだした。本書に収録された「地には豊穣」と「allo,toi,toi」は、おなじ設定を利用したとは思えない多彩な作品に仕上がっている。
 ただし、問題点もある。演繹が常套化した結果、設定の描写が必要以上に長くなってしまうのだ。そのために、ストーリーの本筋がみえにくくなっている印象を受けた。

『北の想像力』

本書は評論集だが、便宜上これまでの分類をあてはめることにする。小説の基準で本書の構造を読み解いた上で、他の候補作と比較するのだ。無茶は承知の上だ。しかし候補作となった以上、直接的な比較は避けて通れない。このことを念頭において、本書を読みすすめていった。
 本書には多数の評論が収録されているが、基軸となる北海道との関わりは様々だ。北海道出身作家の作品を「北海道文学」あるいは「北海道SF」として論じている一方で、道外の作家が北海道を舞台に書いた作品も同列に論じている。かと思うとアイヌ口承文学を、SFの視点からとらえなおすという試みもある。よくいえば「なんでもあり」の自由さがあるものの、統一感のない雑多な印象はぬぐえない。収録されている評論はいずれも力作揃いで、読みすすめている間は圧倒される思いがした。ところが読み終えたところで、途方に暮れることになった。それでは「北海道SF」あるいは「北海道文学」とは何かという疑問に、本書はこたえていないのだ。のみならず、それぞれの論考を比較すると無視できない食い違いがあらわれることもあった。
 たとえば第2部のパネル再録で小谷氏から「アメリカSFと北海道SFは似ている」との発言があった。この指摘は非常に興味深かったのだが、残念なことに他の部分ではこの点について論じられていなかった。そして第3部では北海道文学の可能性について、(東京文学でしかない日本文学から)世界文学への転換について書いている。明確な矛盾ではないものの、読んでいて肩すかしを食らったかのようだった。
 ここで冒頭の一文にもどる。あえて小説の尺度で本書を評価すると、他の候補作にくらべてストーリー性が希薄といわざるをえない。長編小説の『オービタル・クラウド』にせよ連作短編の『誰に見しょとて』にせよ、一冊を通読すると明確なストーリーが読みとれる。スピンアウト小説としての『My Humanity』から全体的なストーリーを読みとることはできないが、舞台設定を同じくする統一感がある。ところが『北の想像力』には、一貫したストーリーがみられない。評論集に小説のようなストーリーを導入することが可能なのかと問われそうだが、この点については楽観している。力量のある書き手が多数いるのだから、方向性を定めておけば良質の評論が集まるはずだ。北海道SF(あるいは文学)とは何かという問いに答えた上で、その根拠を複数の評論で補強することは可能ではないか。現在の半分以下にまで分量を絞りこめば、これまでにない画期的な評論集が生まれるだろう。さらにSFを「仮説の文学」とすることで、本書全体を仮説の上に構築することもできるのではないか。現状では多面的に「北の想像力」をとらえすぎて、全体的なまとまりが悪いように思える。

選評長山靖生

今回、私は金子みすずだった。みんな違ってみんな良いのである。いずれの作品も推す理由はすぐに見つかる。どれが受賞してもそれなりに納得できる。しかしながら選考委員である以上、選択しなければならない。改めてSFとは何か、表現とは何かを考えながら、優れた作品に敢えて推さない理由を見つけて順位をつけるという苦しい作業をしなければならなかった。

今回の候補作品のなかで唯一の評論である『北の想像力』は大変な労作であり、刺激的な論集だった。たとえばSF史に関心を抱く者にとって三浦祐嗣「北海道SFファンダム史序説」は大変貴重な研究であり、藤元登四郎・岡和田晃「荒巻義雄―2013年の取材から」も示唆に富んでいる。またSFとの関りが希薄な論考も多くあるものの、かえってそちらに強く惹かれたりもした。横道仁志「武田泰淳『ひかりごけ』の罪の論理」は出色の文芸批評であり、岡和田晃「「辺境」という発火点」には国体論者として大いに触発されるものがあった。とはいうものの、こうした論考をSFというジャンルのなかで評価するのが適切なのか悩むところがあった。

さらに事情が複雑になるのは、今回の対象期間中に編者の岡和田氏が単独の評論集『「世界内戦」とわずかな希望』を出版していたことだ。私としてはそちらを評価したい気持ちが強かった。候補作ではないので選考会で推すことはできないが、期間内により推したいSF論集があるのに、こちらを年度内SFの最高作品とすることには些かのためらいを覚えた。編者を含む幾人かの論者はいずれ単著で候補となるだろうし、単著で受賞するほうが望ましいのではないだろうか。

『誰に見しょとて』は大変に面白く、なにより文体の見事さに舌を巻いた。こうしたテーマでSFが成立し、ひとつの世界観が構築されていくさまに驚かされたし、最終話の飛翔ぶりにも感銘を受けた。その一方で私には難しい世界観であったことも認めなければならない。

読みながら、女性ならもっと多くを感得できるのだろうと思う局面がしばしばあり、大切なものを読み落としている惧れを抱かずにはおれなかった。また医療関係者としては人体改造的な審美治療に懐疑的(ここ数年、医療管理委員として医師法に抵触するアートメイクによる健康被害に対応している)なこともあって、私はこの作品の望ましい読者ではないだろう。ただしそうした自分のありようを自覚してバイアスを排除した評価を心掛けたが、メークをめぐる社会的価値観のパラダイムシフトや進化にまで及ぶからには、私のような他者をも圧倒/感化してくれたらとも感じた(ただしそうした社会運動じみた作品を著者が目指しているわけではないから、ないもの強請りだろう)。小説の完成度の高さに感服しながらもその点だけが引っかかった。

『星を創る者たち』は宇宙を舞台にした建築工学SFというユニークなもので、飽くことなく建設・破壊・挑戦を繰り返す人間存在の根源が、表題作に至って解き明かされるのにも驚かされた。壮大なプロジェクトを扱いながら、企業ドラマにありがちの劇的な盛り上がりに逃げることなく、許認可の問題や他部署からの横槍、コストや瑣末な人間関係などを織り込みながら、すべてを淡々と日常業務の延長のなかでこなしていく人々の姿は、ありそうでなかったもので、とても土木工学ぽいのではないかと思ったりした。

サイエンス・フィクションの歴史のなかで、様々な「科学」が題材となったが、こうしたアプローチはコロンブスの卵なのではないか。また長年にわたって断続的に書き続けられた本作は、私にとっても自分のSF経験の中で折々に意識してきた作品であり特別の愛着と敬意を感じる。

『My Humanity』もまた短編集。そこで扱われる話題には幼児性愛や民族主義など、常識的には嫌悪を誘うものもあった。だがそうした偏った思考を持つマイノリティが、近未来の情報社会でどのように生き、あるいは生成され得るかについて主観的に描いて説得力があり、切なささえ感じさせられた。この点、社会構造や人間存在の本質に踏み込む「大きな物語」よりも読者を説得しやすく、物語構造の選択もうまかった。また書き下ろし「父たちの時間」は圧巻だった。収録作は発表年代順に配列されており、キャリアと共に文体も物語も完成度を高めているその達成を称賛したい気持ちを強く抱いた。

達成といえば『オービタル・クラウド』は堂々たるSFサスペンスで、候補作唯一の長編ということもあり、最も強度を感じた。作中の科学的説明には理解の及ばない部分もあったが、説得力ある描写で読み応えがあり、心地良く騙された。藤井氏は長谷氏と共に昨年も候補になっており、精緻で堅実な描写力に大風呂敷の図々しさが加われば心置きなく推せると思ったのだが、それが速やかに現前されたことはまことに嬉しく、責任を持って推したいと思った。

いろいろ迷った末に、どの作品が押されても受賞に反対はしないものの、自分としては『オービタル・クラウド』『My Humanity』『星を創る者たち』を推し、紛糾した際には多数委員の賛意を得られる二作品をと考えた。

結果的に『オービタル・クラウド』『My Humanity』の二作に大賞を贈れることになった。決定に至る議論は建設的なもので(私自身は言葉足らずで意を尽くせなかった点を悔やむ気持ちもあるが)、選考委員の皆様の〝読み〟に学ぶことが多かった。

選評眞司

候補作リストを見て「えっ、これだけ?」と思った。たった5作なの?

前年度は日本SFのオールタイムベストに入るような突出した傑作の鍔迫り合いとなったが、今年度は嶺の高さだけでなく山腹の広がりが豊かだ。注目作の点数において日本SF史上のエポックとなる収穫の年となった。なのに、候補作リストにはこれも入っていないあれも入っていない。それでイイのか?

もちろん、この賞の規定(内規?)にしたがい、正当な手続きをふんだうえで5作(票差が拮抗していればそれ以上の場合もあるが)に絞られていると承知している。それでもなお、「いくらなんでも少なすぎる!」と文句を言いたくなる。なんのことはない、ぼくにとって大切なのは受賞作を決めることよりも、その過程でほかの選考委員のひとたち(それぞれ独自かつ鋭敏な批評眼の持ち主)と、面白いSFについて語りあうのが重要なのだ。実際、選考終了後には、候補作以外の注目作の話も出た。選考会なんていうと権威的に案配しているみたいだが、基本的には読書会なのだ。

日本SF大賞に興味のあるみなさんも、受賞作だけを取り沙汰するのではなく、すべての候補作、さらにそこに収まらなかったほかの傑作にも目を向けてもらえると嬉しい。「エントリー一覧」が参考になる。それぞれにコメントがついているので、ご自分の好みに合いそうな作品をどうぞ(ずいぶんワガママな推薦もあるがそれはそれでステキだ。一人ひとりの偏愛こそが面白い)。

さて、候補にあがった作品はどれも読み応えがあって素晴らしい。以下、刊行順にコメントしていこう。

●谷甲州『星を創る者たち』……太陽系各所における開発プロジェクト過程で発生した工学的問題について、湿っぽい情緒や大げさなドラマをいっさい交えず、抑えた筆致で解決への道筋を描く。登場人物はほぼ記号的存在だが、にもかかわらず(むしろ、だからこそ)人間が焦点となる。この連作が主題化するのは、環境を創り変える、ほとんど本能的な動機を備えた人間なのだ。終盤にSF史上最大級のサプライズがおかれているが、それは一過性の昂奮におわらない。それまでのエピソードを照らしだして、エンジニアリングの本質を問い直す。

●菅浩江『誰に見しょとて』……化粧という日常的な題材から出発しながら、ラディカルな問題を惹起する。つまり「インタフェイスとしての肌」「メディアとしての肌」であり、それは呪術をはじめとする文化人類学的視座、身体論を含む自己同一性の問題、他者とのコミュニケーションなどへつながっていく。この幅広いSFヴィジョンを内包しつつ、おしゃれや美肌といった身近な感覚から乖離しない点が出色だ。サイバーパンク以降のポストヒューマンSFに比肩する内容を備えながら、これほど読みやすい(文章的な洗練も含めて)物語が書けるものなのか。

●藤井太洋『オービタル・クラウド』……前年の日本SF大賞候補『Gene Mapper -full build-』に引きつづき、エンターテインメントの骨法において「21世紀版マイクル・クライトン」と呼びたくなるほどの冴えを見せる。人物造形のメリハリ、科学技術の細部におよぶアイデアのもっともらしさ、いくつもの伏線をより合わせ太い物語を構成する手さばき……どれをとっても一級だ。特筆すべきは、今日的リアリティである。Webサービスの起業家、ジャーナリスティックな天文写真家、政府の情報統制下にある宇宙工学者など、そうした現場の人間がどういう価値観や感覚でものごとを捉え、行動するかがありありと描かれ、それがストーリーを駆動する。また、敵と味方の対立に終始せず、互いが噛みあって新しい技術開発環境が開かれる点にもセンス・オヴ・ワンダーが横溢する。

●長谷敏司『My Humanity』……先端テクノロジーを梃子にしたSFの設定を用い、人間性のありか/ありようにギリギリのアプローチをおこなっているのは、前年の日本SF大賞の候補にあがった『BEATLESS』と同様。たとえば、この短篇集のために書き下ろされた「父たちの時間」では、放射線を吸収するナノロボット《クラウズ》の実用化により核分裂炉が世界に普及した近未来を舞台として、「地球生命史を画する大異変」と「父と息子のつながり」とがパラレルに語られる。両者は物語的な併走にとどまらず、自然科学的ロジックと社会学的ロジック(個体/群れの行動)で二重写しになる。『My Humanity』のタイトルが示すように、SF的アイデアをただ客観的に扱うのではなく、自身(My)――この"自身"とは作者個人のみならず、読者一人ひとりに通じる普遍だ――の切実な問題として引き受けていく姿勢が素晴らしい。

●岡和田晃編『北の想像力 《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅』……たくさんの評論・研究が集まっているなか、飛び抜けて優れているのは横道仁志「武田泰淳『ひかりごけ』の罪の論理」だ。批評理論を弄するのではなく、あくまで精読によって説得力のある新解釈を提示している。もうひとつの注目作は、岡和田晃「辺境という発火源」。丁寧な裏づけによって向井豊昭という作家の真価を明らかにしていく。エッジの効いた論述で知られる著者だが、この評論ではむしろ粘り強く資料を読みこむことで論を組み立てている。この2篇がとくに印象に残ったが、両者とも扱っている対象は、いくら広義に捉えてもSFとは言えない。SFを扱ったなかでは、宮野由梨香「「氷原」の彼方へ」が、論が及ぶ範囲を自覚的に示したうえで、その範囲内で独特のヴィジョンを展開していて面白い。渡邊利道「小説製造機械が紡ぐ数学的《構造》の夢について」は、読者がうすうす感じている円城塔の特徴をより精緻に捉えている。

以上の候補のうち、選考会がはじまった時点から『オービタル・クラウド』と『My Humanity』への評価がひときわ高かった。ぼくもそれにはまったく異論がない。ただし、偏愛をこめ『星を創る者たち』も併せて推した。ぼく自身がかつて工学を学んだこともあり(落ちこぼれ学生だったが)、いまも取材でプラントエンジニアリングのプロジェクトを取材することがある。そのなかで、いわゆる「プロジェクトX」的な扱いで捉えられないエンジニアの真相を感じていたが、『星を創る者たち』はそれを端的に(SFならではの鮮明さで)言いあてており、そこにシビれたのだ。ただし、これはいくぶん個人的なバイアスとも自覚していたので、そのまま押しきることはできなかった。

けっきょく選考会は早々に『オービタル・クラウド』と『My Humanity』との一騎打ちのかたちになったのだが、そのあとはあっけなかった。その場にいた全員が異口同音に同時受賞を提案したのだ。

評論作品の『北の想像力』に特別賞ともいったん考え、ほかの選考委員とも話しあったのだが、強く推すには至らなかった。評論を小説と同列に評価できるかという根本的な問題もあるが、複数著者による評論アンソロジーという性格上、評価の基準をどこに置くかの見極めもある。一冊のコンセプトを見れば、これは類を見ない意欲的な試みだ。企画力のみならず実行力は驚嘆に値する。しかし、収録作の水準を見た場合は、かならずしも傑作・秀作ばかりが揃っているわけではない。先述したように横道論文と岡和田論文が群を抜いて面白いが、どちらもSFを扱ったものではないため、日本SF大賞にはそぐわない。打ち明けて言うと、今年度の対象範囲のなかで、ぼくにとって『北の想像力』以上に刺激的で面白い評論集があった。ほかならぬ岡和田晃『「世界内戦」とわずかな希望』である。こちらのほうが候補だったならばと、なんとなく釈然としない気持ちが残った。

最後に功績賞について。まず、前年度の内規にあった条件「日本SF作家クラブへの功績があった日本SF作家クラブ会員を対象とする」がはずれて良かった(内規については日本SF大賞選考委員会ではなく、まったく別組織の日本SF大賞運営委員会による裁定)。平井和正さんはクラブ会員ではないが(ご本人の意志でだいぶ前に退会なさった)、日本SFの隆盛の立役者の一人だ。功績賞はその賞の性質上、会員投票による候補選出はなく(各自が推薦することはできる)、選考委員の判断に多くを委ねられており、正直その責任の重さに怯むところもある。しかし、平井和正さんにさしあげることに異議を唱える者はないだろう。ごく自然に贈賞が決まった。