第9回日本SF評論賞および第34回日本SF大賞の選評と受賞のことば

2014年12月18日公開 | 2014年3月1日・贈賞式会場にて配布された冊子より

第9回日本SF評論賞 奨励賞

進藤洋介「ジュラシック・パーク」のフラクタル

受賞の言葉

第九回日本SF評論賞奨励賞を受賞させて頂きました進藤洋介と申します。この度は身に余る栄誉に与り、大変感激すると同時に恐縮の余り四肢が震える思いです。拙文を査読して下さった選考委員の皆様、並びに賞の運営に務められた関係者の皆様には、心より御礼申し上げます。

私が日本SF評論賞へ投稿させて頂くのは今回で二度目となります。最終選考に留まった前回の論考で取り上げたのは、細田守監督のアニメ作品でした。また、それ以前には別の媒体でサイコホラーに関する論考、「新世紀エヴァンゲリオン」に関する論考を発表させて頂いたことがあります。振り返ってみると、私が扱ってきた主題は必ずしも一貫しているわけではなく、そのような振れ幅は私のバックボーンの無さの証明でしょう。特定分野の確固たる素養があるかといわれたら、かなり怪しいといわざるをえません。日本SF評論賞歴代受賞者の錚々たる面々を純粋培養された総合格闘家とするなら、さしずめ私はテレビで覚えた忍術の会得者といったところでしょうか。

ただ、専門分野と呼べる程のものがないというのは事実ですが、常に気にしている分野というのはあって、多少の浮気癖はあるにせよ私の興味は主に「怪獣」という概念の周辺を漂っています。端的にいって「怪獣好き」ということです。自分という人間を形容するなら「一九八二年生まれの栃木県出身」というよりは、「成田亨デザインの怪獣や宇宙人を前に涙を、平成ガメラ三部作を前に鼻血を流す人間」といった方がしっくりくるような気がします。そんな私は、次のような質問にはいつも判で押したように答えています。

「好きな小説は?」

「好きな映画は?」

答えは小学生の頃から全く変わっていません。それは「ジュラシック・パーク」です。「「怪獣好き」といっておいて恐竜じゃないか」という突っ込みはごもっともですが、フィクション的想像力においては恐竜も怪獣の一種であるはずなのでそこはご容赦下さい。

日本SF評論賞に二度目の投稿をさせて頂き、結果的に自分が最も愛する作品に関する論考で受賞を達成できたという世にも稀な幸運は、その喜びをより一層大きなものにしています。そういった幸運に恵まれた上に図々しくも希望を述べるとするなら、掲載予定の拙文によって「ジュラシック・パーク」という作品に興味を持って頂ける方が一人でもいたら、と願っています。

以上を持ちまして、甚だ簡単且つ感傷的ではありますが受賞の言葉とさせて頂きます。この度は、本当にありがとうございました。

進藤洋介
進藤洋介しんどうようすけ

1982年、栃木県出身。共著書に『映画の恐怖』(2007)、『女は変身する』(2008、共に青弓社刊)。

「第9回日本SF評論賞」選評

選評森下一仁

第九回日本SF評論賞――最終候補二作というのは厳選された結果というより、応募数減を反映したもので、かなり寂しい選考といわざるを得なかった。

そんな中で健闘したお二人には大いなる敬意を表したい。

傳田賢功さんの「蟠る論理――カート・ヴォネガット・ジュニア論」は、ヴォネガット作品をいくつかの対立項から読み解こうとする。取り上げられた対立項はいずれもヴォネガットを理解するためには無視できない重要なもので、批評家としての確かな鑑識眼を感じさせた。

文章は一つ一つのセンテンスが長く、かなり癖のあるものだが、じっくり読み込めば筋が通っており、読む楽しみのあるテキストになっている。

惜しむらくは、対象となっている作品数があまりにも少なく、これではヴォネガットの全体像をつかめないのではないかという不安を感じてしまう。事実、経済や科学技術などに関しては、論じる素材としてもっと適切な作品が存在するし、作家の伝記的側面についても、さらなる踏み込みが欲しかった。題材を決めてから書き上げるまでの期間が短すぎたのかもしれない。

進藤洋介さんは、前回、細田守監督のアニメ論で最終候補に残った方。今回の「「ジュラシック・パーク」のフラクタル」は、小説と映画、両方の面から『ジュラシック・パーク』を論じておられる。ただ、基本的にはやはり映像作品をテーマにするのが得意な方と見受けられ、マイクル・クライトンによる原作小説を論じる部分では隔靴掻痒の感があった。

一方、スピルバーグ監督による映画化作品に関しては、さまざまな側面から映像の魅力や秘密を解き明かしており、技術的にもテーマ的にも同作品を楽しむヒントに富んでいる。論考としては、二本の柱のうち一本が脆弱なので独り立ちするのは難しいところだが、映像論をさらに読ませてもらいたいという期待をこめて奨励賞を送ることになった。

日本SF評論賞、応募作があまりにも少なくなってしまったので、次回の募集は未定ということになった。しかし、SF作品の魅力と問題提起力は、現在、ますます増大している。論ずべきテーマは山積みだし、それを論じる才能もまだまだ埋もれているに違いない。さらに、これから育ってくる若い人材もいるはずだ。各自の批評力を研ぎ澄まし、文章力を練り上げながら、再開の日をお待ちいただきたい。

選評川又千秋

軍用機、ことに戦闘機の能力は、安定と不安定のパラドキシカルなバランスの上に成り立っている。

航空機であるかぎり安全で確実な飛行が求められるのは当然だが、いざ戦闘モードに入ったら瞬時に安定を崩し、不安定かつ危険な機動に遷移しなくてはならない。同時に、そこから速やかに安定を回復する能力が求められる。

安定から不安定へ……不安定から安定へ……この移行に失敗すると、機体は墜落する。最初から不安定な機体は、そもそも飛行に適さない。

評論も、実は似たようなものではないかと考える。つまり、安定と不安定がもたらすスリリングなダイナミズムこそが、ジャンル自体を活性化するエネルギーとなるのだ。

まずもって書き手に求められるのは的確な読書力であり、そこに独自のアクロバチックな誤読力を織り交ぜることで、思いもよらぬ視点の運動による"眩暈"を、読み手にもたらして欲しいのである。

今回、最終選考に残ったのは二篇。

傳田賢功「蟠る論理――カート・ヴォネガット・ジュニア論」は、ヴォネガットの主要作中を遊行しつつ、そこここから様々な「お宝」を拾い上げ、それらを同時代的コンセプトと、書き手固有の問題意識に従って吟味する力作である。

目配りは多岐にわたり、ヴォネガットとの共振性も高い。

ただ、このテーマで、なぜ『ガラパゴスの方舟』に言及しなかったのか。ここが大きな疑問であると同時に、せっかく「お宝」として発見した目標に、もっと接近……あるいは切り込んで欲しかったというフラストレーションが残った。

進藤洋介「「ジュラシック・パーク」のフラクタル」は、表題通り、マイケル・クライトンの代表作と映画化作品を巡る論考。クライトン作品を特徴付ける諸相と、映像化された世界との間合を丁寧に検証している。

ただ気になったのは、文庫や単行本に付された「あとがき」、解説の類を批判的に引用している点。こうした文章は、決して精緻な批評を目的としたものではなく、言ってしまうなら営業的文案の一種、惹句の類であることを心得るべきだろう。

結果、これら二篇は、選考会を経て表記の結果となった。

安定/不安定、双方の能力をさらに磨いてもらいたい意図で、敢えて苦言めいたことも付け加えた。以上――

選評図子

今回の最終候補作はたいへん対照的な二編であったと思います。

カート・ヴォネガットの3作品を通して現代世界を語った傳田賢功さんの「蟠る論理――カート・ヴォネガット・ジュニア論」、そしてマイケル・クライトンの小説と映画の相互作用を解読した進藤洋介さんの「「ジュラシック・パーク」のフラクタル」でした。

傳田賢功さんの「蟠る論理――カート・ヴォネガット・ジュニア論」について。

冒頭ニーチェとヴォネガットの引用ではじまる傳田さんの評論は、ヴォネガットの言葉「わたしは逆に秩序の中に混沌を持ちこもう」どおりに、自民党政権から国際政治、TPP、宗教、文学まで、およそ言及しない時事問題はないと思えるほどの言葉の混沌でした。

改行の少ないうねるような文体には癖があり、同じ選考委員の森下さんが「読み解く愉しみがある」とおっしゃったように難解さそれ自体に奇妙な魅力がありました。

しかしそれは日がたって俯瞰しての感想でして、精読しましたときは読み通すのが苦痛でした。全体の手がかりになるはずの要約がまったく要約になっておらず、本文の流れがどこに向かっているのかわたしにはわかりませんでした。ですので、他の選考委員の方が「評論としては(進藤さんの候補作より)こちらのほうが優れている」とおっしゃったときは非常に驚きました。確かに小説を通して現代を論じている点で評論である、と納得いたしましたが。とはいえ文章中に断定的な表現が多く、言及範囲が広すぎて読み通すのが困難であることから、推しませんでした。

進藤洋介さんの「「ジュラシック・パーク」のフラクタル」について。

映画『ジュラシック・パーク』三部作を中心に据えて、序盤はマイケル・クライトンの原作小説が映画化されるにあたって変更された点とその理由について。

中盤は、映画史におけるCG表現の位置づけの技術的変容。映画のCG表現が、ストーリーのためではなく、CG効果そのものを楽しみに映画館にくる観客を生んだことや、合成怪獣、パペット怪獣から、CG怪獣への変化など。

終盤は、映画三部作のなかで恐竜が人を襲うシーンの解説からテーマへと発展収束させたもの。

じつは進藤さんは前回も応募なさっておりまして、前回の最終候補作も選考委員として読ませていただきました。『おおかみこどもの雨と雪』の細田守監督作品における主題と表現を分析した内容でした。そのとき多用されておりましたのがフレームという言葉でした。細田守監督がスクリーンというフレームを越えて、客の側に飛びだしてくる、その表現構造によってみる側を取り込んでゆく仕掛けについて綿密に説明していたことが、印象に残っています。

今回の「「ジュラシック・パーク」のフラクタル」においても、フレームという言葉が多用されており、この評論でもっとも語りたかったのは恐竜がスクリーンから飛だしてくるフレームの超越であって、フラクタルではないのではないかと思いました。しかし、昨年の候補作より格段に進歩しており、面白く読めました。

語り口の平明さ、わかりやすさから強く推したのですが、ほかの選考委員のかたがたの同意を得られませんで、奨励賞ということになりました。

奨励賞に留まった理由として、クライトンの翻訳者である酒井昭伸氏の巻末解説に依るところが大きい(とくに序盤)という点を他の選考委員の方々に指摘され、納得せざるをえませんでした。他のクライトンのファンの方も読みたいのではないか、という気持ちがありましたので残念です。

傳田さん進藤さんともに、評論への情熱を強く持っておられることを文面から感じました。今後も書きつづけることを期待しております。

選評塩澤快浩(SFマガジン編集長)

二〇〇八年の第四回以来、久しぶりの選考に参加させていただきましたが、いささか残念な結果に終わりました。

傳田賢功氏の「蟠る論理――カート・ヴォネガット・ジュニア論」は、現在の政治・経済・社会・科学・宗教などのあらゆる諸相をヴォネガットの代表作『タイタンの妖女』『スローターハウス5』『猫のゆりかご』を通して論じるという野心的な試みでしたが、すいません、書かれている文章がどうにも頭に入ってこず、まったく理解できませんでした。例えば、こういうストーリーの『タイタンの妖女』のこの部分に着目して、現代アメリカ社会の宗教的状況をこのように分析した、という明確な構成がなく、それが極度に改行の少ない文章で記述されているせいだと思われます。

その点で進藤洋介氏の「「ジュラシック・パーク」のフラクタル」は、前半がクライトンの小説版、後半がスピルバーグの映画版をそれぞれ明快に論じており、そのわかりやすさは評価できるものでした。しかし、前半の小説論に目新しさはなく、後半の映画論へと続く構成の必然性もなかったため、評論賞としては高く評価できませんでした。しかし、恐竜映画史に『ジュラシック・パーク』を位置づけた読み物として後半を独立させて改稿すれば、商業誌への掲載に値すると考え、奨励賞の授与に賛成しました。

今回をもって日本SF評論賞はいったん休止となりますが、横道仁志氏の「『鳥姫伝』評論」(第一回)、宮野由梨香氏の「光瀬龍『百億の昼と千億の夜』小論」(第三回)という二作の正賞受賞作は文芸作品としても一級でしたし、藤田直哉氏や岡和田晃氏のようにその後評論の単著を出すまでに成長された方もおり、その他の受賞者の方々もSFマガジンでのレビュウや文庫解説などで活躍されています。協力させていただいた版元としては、本賞は大成功だったと考えています。


第34回日本SF大賞

酉島伝法『皆勤の徒』(東京創元社)

受賞の言葉

このたびは日本SF大賞という栄誉ある賞に『皆勤の徒』をお選びくださり、まことにありがとうございました。日本SF作家クラブと選考委員の皆様に、心よりお礼を申し上げます。この紙面をお借りしても名前を書ききれないほど多くの人にお世話になりました。

特に、東京創元社の編集者、小浜徹也さんの存在なくして、この本の出版はありませんでした。難儀な原稿に根気よくつきあい、意図を汲みつつ真摯に導いてくださりました。

そして、今回、大森望さんと宮内悠介さんとご一緒できたことは、感慨深く嬉しい出来事でした。

新人賞に投稿を始めてから、デビューまで十一年ほどかかったのですが、支えになったのは、大森さんが『文学賞メッタ斬り!』で、落選した応募作に触れてくださったことでした。それ以来、想定読者はいつも大森さんでした。

宮内さんとは、共に創元SF短編賞の出身です。私の方は遅筆で、なかなか作品を続けて出せず、焦燥に駆られることも多かったのですが、あるとき宮内さんからのメールに"いいライバルになれますことを。"という一文があり、非常に勇気づけられたのでした。

幼い頃から、それと意識せずSFに親しんできたわけですが、人とどんな本を読むのかという話題になった時に、「なんでも読みますよ、SF以外」という言葉を何度か耳にしたことがあり、ぼんやりした苛立ちとともに、心に引っかかるものがありました。

第2回創元SF短編賞に向けて表題作を書きながら、頭にあったのはその言葉です。SFではあたりまえの用語やお約束が、読み慣れない者にとっては特殊な世界のものに感じられてしまう。そういう壁を取っ払って、SFと意識させないままに、SFの面白さを伝えることができないだろうか。出来上がったものからは信じられないかもしれませんが、そういう縛りを自分に強いていました。翻訳黎明期のような発想で、既存の用語を、視覚的にイメージしやすい漢字で舞台美術的に再検討すること。また、どれだけ奇抜な舞台であろうと自明のものとして、創作物だと明示せざるをえない説明を排し、登場人物の認識の枠内のみで描写すること。目指したのは、架空世界の住人が書く普通小説でした。

のはずが、自然と内臓や虫などが溢れてしまい、誰に対しても特殊すぎるものになってしまったのではないか、と自分でも不安でしたが、予想を超えた多くの方に楽しんでいただけたばかりか、今回のような評価を頂けたことは、実に幸運なことでした。手にとってくださった全ての皆様に、心より感謝を申し上げます。

酉島伝法
酉島伝法とりしまでんぽう

1970年大阪府生まれ。フリーランスで文筆・デザイン・イラスト業。2011年、「皆勤の徒」で第2回創元SF短編賞を受賞してデビュー。2013年、初の作品集『皆勤の徒』を刊行。最新作は『S-Fマガジン』4月号収録の短編「環刑錮」。

第34回日本SF大賞 特別賞

大森(責任編集)『NOVA』全十巻(河出書房新社)

受賞の言葉

河出文庫『NOVA 書き下ろし日本SFコレクション』シリーズは、二〇〇九年十二月刊の『NOVA1』から二〇一三年七月刊の『NOVA』までの全十巻。六十六人の著者から、一〇一編(連載長編一編を含む)を寄稿していただいた。

この機会に『NOVA』誕生までの経緯をざっと振り返ると、そもそもの発端は二〇〇一年一月。前年十二月に出た日本SF作家クラブ編の『2001』を読んで、こういう企画を単発じゃなくて継続的にやれたらなあと思ったわけですね。ちょうどその頃、『SFが読みたい! 2001年度版』掲載の九〇年代SF座談会のために、山田正紀、鏡明両氏と最近のSFについて話をする機会があり、その場で、「これが日本SFの最先端だ!」と言えるような書き下ろしアンソロジーのシリーズをつくれないか、と大いに盛り上がった記憶がある。

その時もその後もいろいろ企画を練ったもののうまくまとまらず、紆余曲折を経てようやく具体化したのが二〇〇九年。背景としては、創元SF文庫で〇八年暮れにスタートした『年刊日本SF傑作選』シリーズが思いのほか好評で、日本SFの短編アンソロジーに一定の需要があると判明したことと、作品選びの過程で、単発のSF短編を載せる媒体が意外に少ないと実感したことが大きい。

継続的に出すなら文庫で、最低でも五巻――という企画に乗ってくれたのが、河出書房新社の伊藤靖氏。日本SF大賞候補にもなった中村融・山岸真編『世紀SF』全六巻や、翻訳短編SFブームを巻き起こした『奇想コレクション』シリーズを手がけたSF編集者である。

先行するシリーズとしてお手本にしたのは、大原まり子・岬兄悟編の『SFバカ本』と井上雅彦監修の『異形コレクション』(1~6巻で第十九回日本SF大賞特別賞を受賞)。ただし、内容に関しては、デーモン・ナイト編『オービット』やハーラン・エリスン編『危険なヴィジョン』を見習って、テーマも枚数も限定せず、それぞれの作家が「これがSFだ」と思うものを書いてほしいと依頼した。原稿料は印税のページ割なので、書く側にとってはおよそ引き合わない仕事なのに、SFを愛する奇特な方々がおおぜい寄稿してくれた。

企画が動き出して以降、ぼく個人は、いろんな人に原稿を頼み、送られてきた原稿(投稿含む)を読んで勝手な注文をつけたりボツにしたりしていただけ。すばらしい短編群の最初の読者になれる幸福を味わった上に、めんどくさい仕事はぜんぶ伊藤氏にやってもらったので、日本SF大賞特別賞の栄誉は、この割に合わない企画に協力してくれた寄稿者(ならびにデザイン担当の佐々木暁氏と、イラスト担当の西島大介氏)と河出書房新社のものであり、深く感謝したい。ありがとうございました。

なお、責任編集者としては、今回の受賞を叱咤激励と勝手に解釈して、年内にも新しい『NOVA』を立ち上げる予定。今後ともよろしくお願いします。

大森望
大森おおもりのぞみ

1961年生まれ。京都大学文学部英文科卒。出版社勤務を経て、翻訳家、評論家、アンソロジストとして活躍。訳書にバリントン・J・ベイリー『時間衝突』(創元SF文庫)、コニー・ウィリス『航路』『空襲警報』(ハヤカワ文庫SF)など、エッセイ・評論に『世紀SF1000』(ハヤカワ文庫JA)、『新編SF翻訳講座』(河出文庫)、『文学賞メッタ斬り!』シリーズ(豊崎由美と共著/PARCO出版)など、編纂するアンソロジーに〈NOVA〉のほか、〈不思議の扉〉シリーズ(角川文庫)、〈年刊日本SF傑作選〉シリーズ(日下三蔵と共編/創元SF文庫)など。

第34回日本SF大賞 特別賞

宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』(早川書房)

受賞の言葉

これまでかしこまった挨拶の類いが苦手だった。心のどこかで、そうした言葉には嘘があると感じているからだと思う。振り返ってみれば、いつも言うべき感謝を逸してきた。つまるところ、ぼくは嘘を言えなかった。けれども、それと同じくらい本当のことも言えなかったのだ。そんなことに、この期に及んで気づかされた。

だから――いま、言うべきこととはなんだろうか。自分が「受賞の言葉」として真に伝えたいと思うことは何か。まして、日本SF大賞がリニューアルをした、その新たな出発点でのこと。自分の偽りない思いをしっかりと探し出し、言葉の形にしたい。

そういえば、ぼくは第一回創元SF短編賞に応募して、選考委員特別賞(山田正紀賞)をもらってデビューに至った。正賞ではなかったため、受賞の言葉はなかった。もし、あのとき受賞の言葉があったなら、自分は何を書いただろうか。

小説は高校のころから書きはじめた。ワセダミステリクラブの出身で、これまで書いたものにはミステリが多い。新人賞への応募歴は十年ほどになる。十年も投稿をつづけると病んでくるもので、小説などくだらないと思いはじめていた。会社から帰って朝四時まで書くことを繰り返していたら、身体も壊した。

そんななか、同期の酒井貞道さんから『年刊日本SF傑作選』や『NOVA』を勧められた。

半信半疑で読みはじめ、気がつけば心を摑まれていた。こんなにも豊かな世界があったのかと思った。とりわけ、ぼくにとって『NOVA』が刺激的だった。

そこには北野勇作さんの「社員たち」があった。飛浩隆さんの「自生の夢」があった。

田中哲弥さんの「隣人」があった。

円城塔さんの「Beaver Weaver」があり、伊藤計劃さんの「屍者の帝国」があった。

この一撃で、どうせ小説などと高をくくりつつあったぼくの目は開かれた。もちろん面白い小説はいくらでもあって、こういうことは巡り合わせであると思う。しかし、どうあれこれらのアンソロジーは、小説というものは面白いという当たり前のことを、有無を言わさぬ豊かさをもってぼくに思い出させてくれたのだ。

『年刊日本SF傑作選』の末尾を見ると、創元SF短編賞の募集があった。この世界に自分をぶつけてみたいと思った。初心に戻り、もう一度すべてを賭けてみようと。

そしていま、ほかでもない『年刊日本SF傑作選』や『NOVA』の大森望さん、さらには同じ創元SF短編賞の出身である酉島伝法さんと、同時に受賞することができた。そのことを、本当に心から嬉しく思っている。自分の作品を通じて、次の世代の一人にでも、「こんなにも豊かな世界があったのか」と思ってもらえればとも思う。

この世界に感謝します。

宮内悠介
宮内悠介みやうちゆうすけ

1979年、東京都生まれ。92年までニューヨーク在住。早稲田大学第一文学部卒。在学中はワセダミステリクラブに所属。2010年、「盤上の夜」が第1回創元SF短編賞の山田正紀賞を受賞してデビュー。同作を表題とした第一作品集『盤上の夜』(東京創元社)および第二作品集『ヨハネスブルグの天使たち』が連続して直木賞候補となる。2012年に『盤上の夜』が第33回日本SF大賞を、2013年には著者自身が第6回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞を、それぞれ受賞。

「第34回日本SF大賞」選評

選評北野勇作

全候補作受賞、が冗談にならないような状況で、にも関わらず、ここから作品をひとつ選ぶのであれば、に関しては、最初の時点でほぼ全員の意見は一致していて、しかしそのことをさほど意外に思うこともなく、むしろ、やっぱり皆おなじように感じるのか、と納得するほどに『皆勤の徒』は、候補作の中で突出していた。だがその突出は、よく言われるように『皆勤の徒』がこれまで見たことがないようなワン・アンド・オンリーの特異な小説であるせい、ではないと思う。いや、ワン・アンド・オンリーには違いないが、おかしな奴がでたらめに振り回した棒にたまたまボールが当たってホームラン、というようなものではない。(もしそうだとしても、同じだけの価値があることは変わらないが。)

ここにあるのは、一見でたらめな妄想のように見えながらじつは、主人公が何を知っているか、主人公は世界をどう見ているか、そんな主人公なら世界をどう表現するか、という想像を正確に突き詰めた結果として出現した異形の世界であり、読者への「伝わりやすさ」よりもその正確さを優先する律儀さはハードSF的である。そういう意味でもこれは、従来のSFの流れの中にある方法論で書かれたストレートなSFだろう。加えて、選考会で〈筒井康隆の「トーチカ」を読んだときのような衝撃〉、という喩えが出されたとき、ああやっぱり、と思ったのは、私も同じ筒井康隆の『驚愕の曠野』を連想していたからだ。それは、筒井康隆から牧野修や田中啓文へと繋がるラインを思わせる。奇怪不快悪ふざけ過剰空気読まないラインである。

そう、内容のあまりの異様さに目を眩まされて気づかなかったりするのだが、これは駄洒落小説でもあるのだ。大真面目で深刻で憂鬱な顔をして、くだらない駄洒落を連発する。そういう種類の芸としても楽しめるし、実際、私は読んでいて何箇所も声を出して笑わされ、アホや、とつぶやかされた。そして、そのアホらしさは、この小説に描かれる世界においてじつにリアルで切実である。そんなアホらしさにしがみつくことで、主人公はかろうじて自分というものを維持している。

この『皆勤の徒』という作品は、突如として出現した異形というよりは、SFというものがその出発的から持っていた足場から、ある意志をもってさらに遠くを目指すものとして引かれた線上に位置するものだろう。

他の候補作と並べたとき、異形さにおいて突出しながらも同時に、多くの部分でシンクロしあうという点からも、これが切り離され孤立したものではなく、今と今を生きるヒトを描いた同時代のSFである、ということは明らかだろう。たとえば、一見正反対のタイプのように思える『ヨハネスブルグの天使たち』と並べてみても、それはよくわかる。そこに描かれる兵士たち、少年少女たち、そしてDX9たち、と『皆勤の徒』の語り手である従業者は驚くほどよく似ているし、「ハドラマウトの道化たち」の冒頭の「このごろアキトがよく見る夢」は、まるで従業者が仕事中に全てを諦めて見る夢のようだ。そしてもちろん、『ヨハネスブルグの天使たち』とだけではなく、今回のどの候補作とも、同じところを深く掘ったからであろうそんな共鳴が見出せる。是非、すべての候補作を読んでそのことを確かめて欲しいと思う。とにかく今回の候補作、どれも読んで損はない優れたSFだった。私としては、これだけのレベルでしかもそれぞれの読者を獲得している作品にあれこれ注文をつける気はない。好みではない部分はあってもそれは、そういう部分をサービスとして受け取る読者に向けて書かれているのだし、ようするに作者は自分のやりたいことをやりたいようにやれているのだ。この枚数ですべてに駆け足でコメントするのはなんだかお座なりの挨拶で通り過ぎるみたいだし、結局は私の好みを述べることにしかならないだろうから、どうせ好みを述べるのなら、これらの中から『皆勤の徒』を選んだ理由をきちんと述べたい、と思ってこうなりました。というか、こうなってしまいました。すみません。落とした作品とその作者とその作品のファンから恨まれるのはもう仕方がない。まあ私のことは恨んでも私の小説は恨まないでください。

みんな、描きたい方向に描きたい線を引けばいいし、唯一の正しい線などないし、賞は引かれた線を称えるためにあって、それ以外の線を否定するためのものではない。

いろんな方向を目指して描かれた線の中で、『皆勤の徒』がいちばん強くいちばん鋭くいちばん歪んだ線だと私には感じられた。ただそれだけのことです。

最後に、私も参加しているので言いにくかったりするのだが、発表の場が極端に少なかった短編SFの状況を大きく変え、新しい読者に短編SFを届けた『NOVA』にはなんらかの形で賞が与えられて当然だと思う。

選評篠田節子

初めて本賞の選考委員を引き受け、候補作の水準の高さに驚かされた。

中でも抜きん出た作品が酉島伝法氏の『皆勤の徒』だった。巻末で大森望氏が詳細な解説(あるいは解釈と鑑賞)を書いてくださっているが、私はこの作品を表題作に始まり、最終章によって経緯が明らかになる、クロニクル的な連作短篇というよりは、一本一本を独立した作品として読んだ。単語の語感と音から、視覚イメージを立ち上げた本作は、昨今まれにみる詩的な文学作品であると同時に、論理と叙情性を併せ持つ優れたSF小説に仕上がっていると思う。カバーの図柄からして、普通なら決して手に取らなかったであろう小説に、こうした形で引き合わせてもらったことを感謝している。

『ヨハネスブルグの天使たち』は降ってくる楽器ロボットを狂言回しに、文明が必然的に内包する暴力性や不条理、その中でささやかな希望を見出し、戦い続ける人々の姿を描く。人間って何だ、という根源的な問いを、個別の事象を越えて、極めて美しい物語世界の上に展開した傑作。

『NOVA』は、SFアンソロジーを編纂し出版するにあたってのその手法や、集まった作品の多様さを積極的に評価したい。「日本のSF作家が書いた小説」というよりは、「日本の作家が書いたSF的小説世界」が概観できるという点で、記念碑的なシリーズであろう。

『Gene Mapper -full build-』については、題材とテーマが面白く、ビジネス、技術系サスペンスとして、より広い大人の読者を獲得できる可能性のある作品だと感じた。ただ構成やメインストーリーの展開方法など、小説技法的な部分にやや難があった。

『BEATLESS』『know』については、いずれも意欲的なテーマを掲げた長編で、それぞれに魅力的な世界を作り上げていた。

『know』の圧倒的なリーダビリティーは、職人技というより、これまで触れてきた小説、映画、ゲーム等で培われた物語世界の集積と、作家的センスの賜だろう。テーマとして掲げられている極限知の存在もたいへんに興味深いが、スピード感を優先させたために、やや掘り下げが浅くなったことが惜しまれる。

『BEATLESS』の掲げる「心」、「信頼」といった青春、純愛テーマの裏側から透けて見えるのは、「人間の心ってなんだ」「問題にすべきは行動であり、抽象的な心なんてものはないのではないか」「ところで人間はどこまで機械なのだ」という、という古典心理学的な問いだ。いささか素朴すぎる少年の視点から、人を機械に寄り添わせていく発想は野心的で、作者の意気込みを感じる。

一方、「内容に比して長すぎる」というのが、委員に共通の感想で、私自身も読んでいて飽きる場面があった。戦いの最中に長々解説が入るのは、ありだが(メカや戦略を楽しみにしている読者もいる)、同じ説明、同種のエピソードの繰り返しは気になる。長期連載であれば、繰り返しは避けられないことであり、(月刊誌では読者が前号の細かな展開を忘れることもあるし、途中から読む人々もいるため)、単行本化にあたっては、ある程度の見直しの作業が必要だろう。

選評甲州

今回はじめてSF大賞の選考に加わった。候補作はいずれも傑作ぞろいで、実作者としては大きな刺激を受けた。これほど高水準な作品群の中から、受賞作を選定することなど不可能ではないか――一時はそんなことまで考えたが、蓋を開けてみると意外にあっさり結果が出た。落ちつくべきところに、落ちついたともいえる。

以下に各候補作について考えを書いていく。

『皆勤の徒』は、読みごたえのある小説だった。ただし、かなり手こずったことを白状しておく。冒頭から多彩な造語が頻出するものだから、容易に文意が読みとれなかったのだ。見慣れた単語であっても、通常とは違う意味で使われていることもあるから油断できない。最初は物語に入りこめず難儀したが、読みすすめるにつれて状況が変化した。はじめて眼にするはずの造語群が、生き物のように躍動しはじめたのだ。一度そうなると、理解が停滞することはなかった。造語でしか伝えられないイメージが、次から次へと押しよせてくる。あらたなページを開くたびに、世界が広がっていくような印象を受けた。

いつの間にか物語の深みに入りこんで、作者の構築した異様な世界を堪能していた。硬質な文章が、急に軟化したわけではない。作者と世界観を共有するまでに、通常以上の手順が必要だったというだけだ。そのせいか描かれている異形のものたちは、グロテスクでありながら妙に愛おしかった。ある意味で読み手の想像力が、ためされているともいえる。これまでの読書経験で、この作品を評価するのは困難ではないか。異質な世界について語るために、まず異質な言語を創造しているのだ。

相当に破天荒で独創的な小説だが、空前絶後とまではいえない。前例ともいうべき作品群は、間違いなく存在する。日本ではサブジャンルとして認識されている言語SFの、流れをくむものと考えられるからだ。その上で、細密な未来史をみせてくれた。第一印象は決してよくないが、時代をこえて読みつがれる作品になるのではないか。

『ヨハネスブルグの天使たち』は、臨場感が素晴らしい。無法地帯と化したヨハネスブルグのスラムや、内戦がつづくアフガニスタンの乾ききった大地が身近に感じられる。その一方で近未来の社会情勢も、過不足なく記載されていた。細部までリアルに描かれているものだから、SFとしての仕掛けが無理なく受けいれられた。普通に考えれば、突拍子もない出来事でしかない。日本製の少女型ロボットが、毎日おなじ時刻に大量落下するのだ。シュールとしか思えない光景だが、それまでの丹念な描写のせいで現実味をおびてくる。作者の術中にはまり込んだところで、メインストーリーが大きく動きだす。連作短編としてのまとまりも良好だった。他の条件を無視して評価すれば、これが受賞作であってもおかしくないと感じた。

ただし実際の受賞に際しては、クリアすべき点がある。他の候補作よりすぐれているのは当然としても、この作品にはもうひとつ越えなければならないハードルがある。おなじ作者による『盤上の夜』が昨年の受賞作であるから、これを上まわっている必要があるのだ。順序が逆になったが、あらためて『盤上の夜』を読みとおした。結果は微妙なものだった。一冊の本としてのまとまりは『ヨハネスブルグの天使たち』の方が上に思えるが、二冊の中からベスト作品を選ぶのであれば『盤上の夜』の表題作だと思った。異様な状況下で碁を打つ男女の、官能的な世界に圧倒された。無論『盤上の夜』に収録された他の短編に、不満があるわけではない。表題作が抜きんでていたというだけだ。つまり連作短編集としては『ヨハネスブルグの天使たち』の評価が高いものの、単一の作品なら表題作「盤上の夜」がベストとなる。今年度の受賞作に何を推すかが問題だが、これについては後述する。

『NOVA』をどう評価するのか、かなり悩んだ。全十冊のオリジナルアンソロジーを、独立した小説と比較できるのか。過去にアンソロジーが受賞した例はあるから(第十九回/特別賞『異形コレクション』)、それとの比較は可能かもしれない。もうひとつの評価基準は、おなじ時期に刊行された他のアンソロジーや雑誌にある。候補作である必要はない。『NOVA』を評価する際の比較材料がほしいのだ。

選考委員の一人が指摘していたことだが『NOVA』はアンソロジーでありながら雑誌に似た一面も持つ。不定期刊行物なのに、三年半で十冊もの実績を積みあげたのだ。季刊雑誌かと思うほどだが、期せずしてこれが『NOVA』の強みになった。アンソロジーなのに連作短編が掲載できたし、長篇の連載や分載も可能だった。雑誌ほどの総合力や速報性はないものの、コラムや特集などに紙面を割く必要がないから純然たる短編発表の場として機能する。おなじアンソロジーでも既存の作品を編んだ傑作選などと比較すると、書き下ろしが基本の『NOVA』が厚みに欠けるのは否定できない。それだけに、何が出てくるかわからない楽しみもある。収録されている作品は多彩で、思いがけない著者の寄稿に驚かされた。編者の能力の高さ(というより顔の広さ)には、感服せざるをえない。

ところがそう思う一方で、否定的な考えを捨てることができなかった。気になる点は、ふたつある。『NOVA』の実績を正しく評価するには、もう少し時間が必要ではないのか。少なくとも『NOVA』への収録がきっかけで、刊行された書籍が出そろわなければ判断は下せないように思う。理想的にはさらに長く、刊行後さらに数年の時間が必要と考えられる。全十巻の刊行が終了した時点で評価するのが、正しい選択なのかどうか。もうひとつの疑問点は、既存SF雑誌の存在だった。作品発表の場として評価するのであれば、先行する雑誌の存在を忘れることはできない。『NOVA』の評価にかわりはないが、その前にSF専門誌の顕彰が先ではないのか。そんなことを考えたものだから『NOVA』を受賞作として推すことには躊躇があった。

『know』『Gene Mapper -full build-』『BEATLESS』の三作は、いずれも現在より発達したネット環境が重要な舞台道具になっている。ここで描かれる近未来の日常風景は魅力的で、三者三様に構築された社会状況は充分に刺激的だった。ただ仔細にみていくと、気になる点も見受けられた。

『know』は、結末に物足りなさを感じた。そこにいたるまでの展開に、不満はない。未来描写は群を抜いているし、それがストーリー展開上の伏線にもなっている。ところが終盤ちかくになって、急にストーリーが失速気味になる。宇宙の真理を顕す曼陀羅や神話の域に踏みこんだ皇統の歴史など、壮大な道具立てを用意しておきながら禅問答を思わせる対話で物語を閉じているのだ。視点の人物は傍観者として問答をみているが、本質を理解しているとは思えない。だがSFとしての面白さを期待するからには、人類の進化や宇宙の構造といった途轍もない大風呂敷を広げてほしかった。成功すれば年間ベストどころではない、オールタイムベスト級の大傑作になっていた可能性がある。惜しい。

『Gene Mapper -full build-』では、序盤をすぎても危機の本質が伝わってこなかった。カンボジアの農場で何が起きつつあるのか、放置しておくとどのような問題が生じるのか、危機的な状況を回避するためには何が必要で、それはどこにあるのか、そしてタイムリミットは――といった点が曖昧なのだ。あえて定石をはずしているともいえるが、文章に勢いがあるから読まされてしまう。アイディアのみせ方も上手い。未来描写に加えて、ホーチミン市の状況が効果的に使われていた。情報通信の整備やメンテナンス態勢が不充分だから、失われたはずの情報資産が現在も残っているという設定は秀逸だ。さらに進化した遺伝子工学の記述も、地味ながら説得力があった。これで構成上の基本形に忠実なら鬼に金棒なのだが――という言い草は無責任かもしれない。不用意に修正すると、文章の勢いが削がれる可能性があるからだ。

『BEATLESS』を読みはじめて間もなく、違和感に気づいた。そのせいでストーリーにうまく入りこめず、読みすすめるのに時間がかかった。無論これは作者の責任ではない。主要な登場人物は十代後半の少年たちなのだから、六十をすぎた年寄りが容易に理解できるわけもなかった。あまり気にせず読みすすめれば、流れに乗れるだろうとそのときは考えた。ところが物語の中盤にさしかかっても、状況は好転しなかった。登場人物に感情移入ができず、違和感も消えることがない。作品に瑕疵はなさそうだ。候補作に選ばれただけあって、ストーリーテリングはしっかりしている。ことに中盤以降は豪快なアクションが連続して飽きさせない。その一方で、少年たちの繊細な心情も活写されている。

それにもかかわらず、物語に没入できなかった。おそらく世界観が違うせいだろう。冒頭で追撃を振りきったレイシアが、追われる身にもかかわらず人眼をひくモデルをしている。あるいは侵入したテロリストたちとの間で戦闘が発生しているのに、上の階では避難の動きもなく会議がつづいている。このような状況を受けいれてしまえば、もっとストーリーを楽しめたのかもしれない。だが長年ハードなSFや冒険小説を手がけてきたせいか、違和感ばかりが残ることになった。なんとか最後まで読みとおして選考会にのぞんだのだが、委員の一人に一笑された。この作品は雑誌掲載時にイラストがついていたらしい。それをみながら本文を読めば、間違いなく萌えるというのだ。

選考が終わったあと公式サイトで、イラストをみることができた。ようやくそれで、納得できた。やはり世界観が違っていたようだ。アニメやコミックではビジュアルが先行するから、少しくらい強引なストーリー展開でも受け入れてしまえる。イラストを切り離して本文だけを読み通しても、違和感が生じるはずだ。だからといって、この作品に対する評価が変化することはない。萌えたか否かは関係なく、選考作業は候補作であるハードカバーに対しておこなうしかないからだ。

受賞作には『皆勤の徒』のみを推した。『ヨハネスブルグの天使たち』については判断を保留していたが、議論の流れによっては『皆勤の徒』との同時受賞もありえた。ただし『ヨハネスブルグの天使たち』の単独受賞は、考えていなかった。それは『NOVA』の場合も同様だが、受賞作とする場合でも特別賞が相当との心づもりをしていた。蓋を開けてみると、全員が一致して『皆勤の徒』を推していた。

選評長山靖生

候補作はいずれも読み応えがあり、どれが大賞を取ってもおかしくない魅力を備えていた。傾向の異なる優れた作品の中から「SFの歴史に新たな側面を付け加えた作品」という基準で受賞作を選び出し、他作品には贈賞できないのが辛かった。しかし決めねばならぬ。以下申し述べることのなかには、その作品を強く推せない自分を納得させるための、言い訳めいた「ないものねだり」が含まれている。

『Gene Mapper -full build-』は豊富な知識に基づいて誠実に書かれた作品で、情報化や遺伝子操作がさらに発展した近未来世界を描き、風格漂うサスペンスとして完成させた手腕は、とても第一作とは思われない。候補作中、最も大人な渋い作品で、細部の説得力ある描写は読み応えがあった。ただ実力ある方なので、この精緻さに大風呂敷の図々しさも加えた作品を期待できるのではないかと考えた。これは無用の配慮かもしれないが、受賞作は後年になってもその作家の代表作と見做されることが多い。遠くないうちに、この方はさらなる代表作を成すだろう。

『know』は各場面が映像で浮ぶような魅力ある作品だった。設定の説得力、キャラ、スピード感ある展開とバトル、お色気など、エンターテイメント要素はバッチリ。ただそれだけに戸惑うほどの驚きはなかった。これはエンタメ系のジレンマで、読者を選ぶほどの新しさは込め難い。選考基準の「新しさ」をどう解釈するか、これも選考委員に課せられた難題となった。

『BEATLESS』もリーダビリティに優れた作品だった。モノであるはずの人型機械に人間が心を寄せる話は、リラダンの『未来のイヴ』以来、繰り返し書かれてきたが、モノとヒトの関係性を徹底的に追及したその迫力は見事だった。また人類未到産物という発想も面白かった。ただしこの点に関しては、既存の数式に従って機能するコンピュータに「まだ発見されていないもの」まで作り出せるのかという疑問がある。しかし作中の「人類未到産物」は、未知の論理ではなく未開発の品々であり、人間自身の未自覚な欲望を先取りした新製品開発と解すれば納得できる。説明や場面に重複が多い(連載時のまま単行本化したからではないかとの指摘があった)が、エンターテイメントとして優れており、十分、大賞に値する。しかし今回は別に強く推したい作品があったため、本作については他委員から推す声があがれば賛同するつもりで臨んだ。途中から「若ければすごく熱中した」「読者人口の少子化対策に」「うちの息子もこれくらいバカです」などと推薦の辞を述べたが、選考委員では私が若い方なのだった。

一方『皆勤の徒』には本当に驚かされた。幻想的なイメージの豊かさと、大胆にして緻密なハードSF的世界設定。そして何より、日本語特有の、漢字がもたらす視覚効果と読みからくる音のダブルイメージを駆使して、怪異にして可笑し味ある世界を書き切った点など、日本SFに新たな魅力を付け加えた作品であり、迷いなく推せた。この不気味な世界が、われわれの日常に通底していると感得させられるのも凄い。

扱いが難しかったのは特別賞に選ばれた二作品である。これらについても大賞に推す声があった。

『ヨハネスブルグの天使たち』は、切なく残酷な美しい物語で、特に落下のイメージには鳥肌が立った。作品の完成度の高さは疑いない。しかし前年度の受賞者であり、大賞というのは躊躇われた。日本SF大賞は再受賞を禁ずるものではないが、再受賞には「前作をはるかに凌ぐ」「他候補作に比べて突出している」という高いハードルが課せられてきた。大賞既受賞者の作品が候補に挙がるたびに問題になるのはこの点だ。

『NOVA』は特別賞になるといいな、というのが候補作決定時点での気持だった。選考会では発言順の関係で、大賞に強く推す意見が先に挙がり、何を贈るかで議論が深められた。私は『NOVA』を文庫版の画期的な個人編集雑誌として愛読してきた。またSFへの貢献度という点では、創元SF短編賞を創設して特異な作家を見出してきた眼の確かさに、何より驚嘆している。それらを勘案すれば大賞でも異存はないのだが、本賞は作品を対象としており、他の業績を併せて考えるのはルール違反になる。悩んだ末に、特別賞がいいのではないか、という当初の立場を取った。

大賞ならびに特別賞の選考については以上だが、私にとって衝撃だったのは「功績賞」の選考だった。今回から「当該年度やそれまでに、特に作家クラブに功績のあった会員の方」に対して、選考委員の合議によって功績賞をお贈りし、顕彰することができることになった。

実は選考委員をお受けしたのは「それならあの方やあの方に功績賞をお贈りできるかもしれない」と思ったのが大きな理由だった。

そして功績賞制定第一回となる今回は、日本SF作家クラブ五十周年の年度(二〇一三年度)に顕彰するに相応しい方お二人を、推薦させて頂いた。しかし他の選考委員の賛同を得ることが出来なかった。

ただし間違わないで欲しいのは、誰も両氏が功績賞に値しないと考えたわけではないということだ。諸氏の反対意見は「なぜ今年なのかという理由が明確でない」「受けてもらえるのか」「喜んで頂けるのか」「われわれが両先生に贈るなんて僭越ではないか」というものだった。僭越といわれると、私も声が小さくならざるを得ない。

しかし功績賞を設けたのに贈れないのでは意味がない。何とかならないものか。

なお、規定では功績賞は「SF作家クラブへの功績」が対象だそうだが、私は「SF界への貢献」を推薦理由と勘違いし、それを理由としてしまった(でも委員の皆様も、この点は問題ないと考えてくれた)。

功績賞については、賞の性格やありようについて、執行部で検討して頂くことになった。推薦の方法も含めて形を整え、納得の贈賞がはかれるようになればと思う。

選考後の場で、まず功績賞贈賞後も大賞候補となり、受賞するのに何の問題もないことが確認された。また、対象を「SF界への貢献」としたほうがいい、単なる表彰ではなく、心の籠った何らかの形を取るなどして、喜んで頂ける内容あるものにしたいなどの建設的な意見が次々と出たことも付記しておきたい。

選評眞司

候補作リストを見て「わあ!」と思った。日本SF大賞の長い歴史のなかでも、これほどハイレベルがひしめいた年は前代未聞だ。これまでぼくはヤジウマの立場で「いやいや、この作品が大賞候補ってそれはないわー」などと無責任に言っていたのだが、選考委員にあたった今年にかぎって「こんな傑作ぞろいのなかからどうやって選ぶんだよ」と腕組みをするはめになった。選考会場に向かいながら「もう、みんな受賞でイイよ」と思っていた。打ち明けていうと、大賞を決めるなんてことよりも、このそれぞれに素晴らしい作品についてほかの選考委員のひとたちと話ができるのが嬉しかった。

ぼくの好みで言うと『皆勤の徒』が図抜けている。異様生態系/異様語彙によって構成された世界と命。内臓や軟骨や粘膜といったグロテスクだが蠱惑的なリアリティが押しよせる一方で、テクストがざわざわぞわぞわ蠢きまわる。もう、のたうって読みました。あまり好きすぎてこの作品の価値を冷静に判断できているのか自信がない――というのが正直なところだ。選考会でみなさんの意見を聞いてもう一度考えようと思っていたが、蓋を開けてみると全員が高評価だった。

『ヨハネスブルグの天使たち』も凄い。連作に共通して登場するアンドロイドDX9は、流通の関係で「楽器」として出荷されているのだが、そこらへんの経緯のもっともらしさに唸る。それはストーリー上の興味だけではなく、テーマにも深く関わってくる。芸術(文化)は「楽器」か「武器」という議論があるが、DX9は「楽器」にして「武器」なのだ。そこには「楽器」「武器」の二分法が成立しない世界が広がっている。エピソードをまたがってDX9の落下というモチーフが繰りかえされ、そのイメージの鮮烈さはJ・G・バラードばりだ。選考会では「このひとはいずれ直木賞をとるだろう」との意見も出たが、そんなの待っていられませんよ。過去の日本SF大賞受賞者については「その受賞作品を圧倒的に上回っていなければ二度目の受賞に相当しない」という慣例(?)があるそうだが、それもじゅうぶんクリアしている。

『BEATLESS』にも驚いた。ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』以来、人造美女を扱った小説はあまたあるが、この作品はまったく新しい局面を切り拓いている。「哲学的ゾンビとの恋愛は可能か?」というテーマに正面から取りくみ、最後まで誤魔化しなく語りきっていて、それはレムの傑作『ソラリス』と対照しうるほどだ。また、映像的ケレンにも目を見張る。小説の叙述としてみると説明的なきらいもあるが、それは読者の脳内で間断なくイメージへ転換され息をのむ情景が立ちあがる。〈人類未到産物〉レイシアたちが躍動するさまを、ぜひ丁寧につくられたアニメーションで観たいところだ(その企画もあると聞く。楽しみ!)。そうしてできあがったアニメを観れば、この少女たちのバックグラウンドをもっと詳しく知りたくなる。設定資料集がゼッタイにほしくなる。じつは、それはすでに原作『BEATLESS』に同梱されているのだ。よく練られた設定のディテールに陶然とする。ボリュウムのある小説だが、ハマったファンにとってはこんなに楽しいことはない。

『Gene Mapper -full build-』は新人の第一作だが、すでに巨匠の風格をまとっていて舌を巻いた。あれだけ独創的なアイデアを持っていたら、もっとセンセーショナルに書きたくなりそうなものだが、それをサラリと流してしまう。その姿勢がカッコいい! 場面の面白さばかりを追って読んでも、知らず知らずに深い問題意識へと誘いこまれる。マイクル・クライトンをもっとSF寄りにして、世紀のアクチャルな現場感を盛りこんだと言えばよいか。テロリストが遺伝子兵器にRead meファイル(取扱説明書)をそのまま残しておくというあたりは、物語の展開としてはうっちゃりなのだが(絶妙のユーモアになっている!)、テーマ面(状況のなかでの最適戦略)にはしっかりスジが通っている。『BEATLESS』とはまた違う意味で、ディテールに魅力の詰まった作品だ。

『know』も上手い。物語の駆動を操る手さばきでは随一かもしれない。『BEATLESS』や『Gene Mapper -full build-』がキメ細かく作りこんだ作品なのに対し、『know』は設定をあまり表には出さず、むしろストーリーの加速度で勝負する。とくに後半はヒロインたちの演算速度のエスカレーションと相まって、めくるめく感覚がある。「死とは情報のブラックホール化なのだ」とか、ほとんど〈少年ジャンプ〉あたりの超次元スポーツ漫画のようなのだが、そうした無茶を平然と押し通す膂力に拍手喝采。

これら読み応えのある小説作品が並ぶなか、ぼくが大賞に推したのはアンソロジー『NOVA』だった。英米でも日本でもSFの発展にアンソロジーが果たした役割は大きいが、『NOVA』のインパクトは過去の名アンソロジーと伍する。新作アンソロジーであれだけの質の作品を揃え、しかも寄稿者の顔ぶれが多彩。継続的な刊行によってマーケットを広げ、《NOVAコレクション》という叢書まで派生させた。日本SF大賞の主旨である「SFの歴史に新たな側面を付け加えた作品」に、これほどふさわしいものはない。もっとも、小説作品とアンソロジー編纂とを同列に論じるのは難しく、それが選考会でもひとつの論点となった。

最後に「功績賞」について。こんかいから「特別賞」や「特別功労賞」で人物を顕彰するのをやめて「功績賞」が新設された。そういう性格の賞を選考委員だけで決めてよいものかという疑問もあるのだが、それよりなにより「日本SF作家クラブへの功績があった日本SF作家クラブ会員」を対象とするという規定がショボい(クラブなんて狭い界隈限定の功績って? また、会員じゃなくとも日本SFに貢献しているひとはいっぱいいるのに!)。「まずこれをどうにかしようよ」というのが、ぼくの主張だ。あと、ほんとうに「功績」に感謝をするなら、賞状なんかじゃなくてもっと心のこもった何かを考えるべきだとも思う。