第44回日本SF大賞 受賞のことば

第44回日本SF大賞

長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(早川書房)

受賞の言葉     長谷敏司

 記憶をたどれば、SFであることを意識して小説を書いたのは、ライトノベルの新人賞でデビューして三年目、二〇〇三年に『S−Fマガジン』に掲載いただいた短編「地には豊穣」がはじめでした。その後もSF色の強いライトノベルを書き続け、二〇〇九年の初のSF長編、『あなたのための物語』で、SF作家として認知していただくことができました。それからは短編をすこしずつ書いてゆき、それをまとめた初短編集『My Humanity』で、第三十五回日本SF大賞をいただきました。
 昔話からはじめさせていただいたのは、自分がキャリアの節目にSF作品がある作家だということを振り返りたかったためです。そして、その足跡につながっている、デビューからずっと本が出るたびに父に本を一冊、渡していた記憶を、蘇らせたかったからです。
 父は、感想を聞くと、毎回「おまえの書くものはむずかしい」という人でした。読んでくれていた様子でしたが、栞が真ん中より後ろに挟まれているのを見たことがありません。内容を褒められたのは、デビュー作のあとがきだけです。いつか面白いと言わせたいと、密かに心に期していたものでした。
 そんな父が亡くなって、部屋を片付けていたとき、いつも座っていた場所のすぐそばにある棚に、わたしの小説がほぼ揃っているのを見つけました。液体で汚れたしみが大きく広がった本でした。栞は半分より前にはさんであります。読み終わっていない小説は、そこにこめたたくらみも意図も、すべてを伝えることはできていません。それでも、途中までしかない語りでもコミュニケーションは成立するし、それにも価値があるのだと、世界がすこし広がった思いがしました。
 なにが言いたいかというと、書きあがって失敗作になっても構わないと割り切れたことで、この小説に着手することができました。父の介護をしていたときに考えたことや、感じた重さのようなものを、かたちにすることが、大きな目的である小説でした。読者よりまず自分を救いたい、エンタテインメントとしては落第の、邪念まみれの書き方をしました。元となる中編小説はあったのですが、テーマも結末もまるっきり変えた、ラストの締め方すら書いてみるまでわかっていない物語でした。
 完成したこの『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は、父に渡すことのできなかった本です。そうなると知っていたから迷いなく筆を動かせた、現実の家族のことに着想して描いた小説です。人生の片付けきれないものを、原稿用紙に体重をかけて押し込んだものです。潰れ、溢れ、漏れ出るものを、二十年ほど小説家を生業にして育てた腕力なり技術なりで、文章に詰めなおしてゆきました。
 それだけに、こもっているものの強かったこの小説で、二回目の日本SF大賞をいただいたことを、感慨深く思っています。選考委員の皆様に、心から感謝いたします。節目の作品だったから、ここからよりよい作品を届けてゆきたいと、心に決めることができました。いつかは、手にとってくださった読者さんが、あの作品を新刊でリアルタイムで読んでいたと、将来軽く自慢できるような作品を書ける作家になれればと思っています。つまりは、まだまだ道なかばどころか、ふもとにもたどり着けていないように思えます。
 これまで支えてくださった、読者の皆様。編集者さん、営業の皆様、書店の皆様、ほか、読者の手に届くまでのあらゆることに関わってくださった皆様。そして、助けていただいた、友人たち、そして家族に、感謝のことばを贈らせてください。今回、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』で、第四十四回日本SF大賞をいただきました。本当にありがとうございました。
 これからのほうが、よほど厳しい道程でしょう。皆様、なにとぞよろしくお願いします。

『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』 スタッフクレジット

著者:長谷敏司
発行者:早川浩
編集:塩澤快浩
装幀:山本浩貴+h(いぬのせなか座)
印刷所:精文堂印刷株式会社
製本所:大口製本印刷株式会社
発行所:株式会社早川書房

長谷敏司(はせ・さとし)

長谷敏司(はせ・さとし) 1974年生まれ。大阪府出身。2001年、『戦略拠点32098 楽園』で第6回スニーカー大賞金賞を受賞しデビュー。2009年に『あなたのための物語』が、2013年に『BEATLESS』が、それぞれ第30回・第34回日本SF大賞最終候補作となり、2014年の『My Humanity』で第35回日本SF大賞を受賞。2023年、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』で第54回星雲賞日本長編部門を受賞。他の作品に、『円環少女』(2005〜2011年)、『ストライクフォール』(2016〜)などがある。2014年に『BEATLESS』およびその関連作品の世界観と設定を創作に利用可能なリソースとして一般に解放する『アナログハック・オープンリソース』を開設、現在も運営中。
[プロフィール作成:渡邊利道]
[撮影:黒石あみ]

第四十四回日本SF大賞 最終候補作品(作品名五十音順)

結城充考『アブソルート・コールド』
(早川書房)

結城充考(ゆうき・みつたか)

1970年生まれ。香川県出身。2004年、『奇蹟の表現』で第11回電撃小説大賞の銀賞を受賞し翌年、同作が電撃文庫から刊行されデビュー。2008年、『プラ・バロック』で第12回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞、同作は翌年光文社から刊行され、主人公の名前を冠した〈クロハ・シリーズ〉として続刊が書き継がれ、2015年にはテレビ朝日制作でテレビドラマ化された。2009年に同社の雑誌『小説宝石』に掲載された同シリーズの「雨が降る頃」で第63回日本推理作家協会賞短編部門の候補となる(2011年の作品集『衛星を使い、私に』に収録)。他の作品に、長編SF『躯体上の翼』(2013年)、ハードボイルド・ミステリ『クロム・ジョウ』(2014年)、警察小説〈捜査一課殺人班イルマシリーズ〉(2015〜2019年)、時代小説『首斬りの妻』(2023年)がある。
[プロフィール作成:渡邊利道]

斜線堂有紀『回樹』(早川書房)

斜線堂有紀(しゃせんどう・ゆうき)

1993年生まれ。秋田県出身。上智大学文学部ドイツ文学科卒業。2016年、『キネマ探偵カレイドミステリー』で第23回電撃大賞・メディアワークス文庫賞を受賞し、翌年刊行された同作にてデビュー。以後、ミステリ、SF、恋愛小説とジャンルを横断する執筆活動を続け、2021年、『楽園とは探偵の不在なり』が第21回本格ミステリ大賞候補となった。2023年より日本SF大賞選考委員を務める。他の著作に、〈神神化身シリーズ〉(2021〜2022年)、『本の背骨が最後に残る』(2023年)などがあり、また漫画原作、ボイスドラマのシナリオ、朗読劇の脚本、ボードゲームのシナリオ・設定など活動は多岐にわたる。
[プロフィール作成:渡邊利道]

高野史緒『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』(早川書房)

高野史緒(たかの・ふみお)

1966年生まれ。茨城県出身。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。1994年、第6回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作となった『ムジカ・マキーナ』が翌年に新潮社から刊行されデビュー。1996年に『カント・アンジェリコ』が、2008年には『赤い星』が、2022年に『まぜるな危険』が、それぞれ第17回・第29回・第42回の日本SF大賞最終候補となる。2012年、『カラマーゾフの妹』で第58回江戸川乱歩賞を受賞。他の著作に『アイオーン』(2002年)、『大天使はミモザの香り』(2019年)などがある。またアンソロジー『時間はだれも待ってくれない 21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集』の編纂(2011年)や、ジョン・グリビン著『ビッグバンとインフレーション 世界一短い最新宇宙論入門』の翻訳(2016年)がある。
[プロフィール作成:渡邊利道]

久永実木彦 『わたしたちの怪獣』(東京創元社)

久永実木彦(ひさなが・みきひこ)

東京都出身。2017年、「七十四秒の旋律と孤独」で第8回創元SF短編賞を受賞し、同作が『行き先は特異点 年刊日本SF傑作選』に収録されデビュー。2020年に最初の著作となる作品集『七十四秒の旋律と孤独』を刊行し、第42回日本SF大賞最終候補作となった。また、2022年に東京創元社の雑誌『紙魚の手帖 vol.06 AUGUST 2022』に掲載された短編「わたしたちの怪獣」も第43回の同賞で最終候補作となる。他に雑誌やアンソロジー、ウェブなどに掲載した単行本未収録短編が多数ある。
[プロフィール作成:渡邊利道]

日本SF大賞功績賞

日本のSFシーンにおいて多大な業績を上げた方に対し、その功績を称える目的で贈られる。
従来「特別賞」の範疇において贈賞されてきたが、各賞の性質をより明確化するため、第三十四回から「特別賞」に加えて「功績賞」が新設された。

第四十四回日本SF大賞 功績賞

石川喬司(いしかわ・たかし)

一九三〇年生まれ。愛媛県出身。東京大学フランス文学科卒業。大学卒業後の一九五三年、毎日新聞社に入社し、新聞記者・『サンデー毎日』編集者のかたわら創作・評論活動をおこなう。ミステリ評論の領域で実績を重ねるいっぽう、日本SFの黎明期から勃興期にかけてはほぼ唯一のSF評論家として、広い読者層にSFの魅力を伝えるため力を尽くした。一九七八年に評論集『SFの時代 日本SFの胎動と展望』(奇想天外社、一九七七年)で、第三十一回日本推理作家協会賞評論その他の部門賞を受賞。そのほか、書籍としてまとまったミステリ・SF評論としては、『極楽の鬼 推理小説案内』(早川書房、一九六六年)、『SF・ミステリおもろ大百科』(早川書房、一九七七)、『IFの世界』(毎日新聞社、一九七八)がある。一九七九年には、東京大学で日本初のSF講義(文学と時間)をおこなった。日本SF大賞では、第二回から第十七回(一九八一~九六年)の選考委員を務める。また、二〇〇五年にはじまった日本SF評論賞では選考委員長を務める(第三回まで)など、後続のSF評論家の育成にも取り組んだ。小説家としては、日本SF第一世代における〝F派〟(文学派・ファンタジイ派)の旗手として知られ、『魔法つかいの夏』(早川書房、一九六八年)、『アリスの不思議な旅』(ハヤカワ文庫、一九七四年)、『世界から言葉を引けば』(河出書房新社、一九七八年)、『彗星伝説』(講談社、一九八二年)、『絵のない絵葉書』(毎日新聞社、一九八六年)といったSF短篇集を著した。そのほか、競馬小説を集めた『石川喬司競馬全集』(全三巻、ミデアム出版社、一九九二~九三年)など。編纂したアンソロジー多数。競馬評論家としても有名。二〇二三年七月九日に逝去。
[プロフィール作成:牧眞司]

受賞の言葉  飯島えりこ(故・石川喬司氏のご長女)

 父は、寝床でよく独り言を言っていました。偉そうな態度で、誰かと議論をしているようでした。SF仲間と交わした論争を寝床の中まで持ち込むものか、と呆れていましたが、晩年、存命中の相手ではなく、「アチラ」からのお誘いがかかる事が多くなりました。アチラでは「宇宙の謎がスラスラ解ける」のだそうです。私たちの顔を見てにっこり笑う家庭人だった一方、「宇宙の謎が解けるなら悪魔に魂を渡しても構わない」と言い切った父にとっては、断り難いお誘いだったのではないでしょうか。
 
 父の友人には夭折してしまった人が多くいました。私が夜中に電話の音で目が覚め起きて行くと、受話器を置いた父が蒼い顔で「○○君、死んじゃったよ」と言いざまに、机を横切り、扉を開けて縁側に出て行ったのを覚えています。自分の寝床に戻るのにも、トイレに引きこもるのにも、灯りのついた廊下を通っていけばいいのに、何故、わざわざ暗い縁側に出て行くのか不思議でした。「○○君」が誰だったのか、広瀬正、大伴昌司、福島正実、と続いた訃報は昼間にあったかもしれないのに、私の記憶の中ではいつも夜中の出来事で、父の姿は、その度に縁側の扉から消えていきました。もしかしたら、愛犬ハナの犬小屋前から「夜のバス」に乗り込み、アチラまで友人を訪ねて行ったのかもしれません。

 その縁側に通じる扉は、やがて開かなくなりました。増えた本が扉をふさいでしまったからです。同じ頃に開かなくなったのが、扉のそばに置かれた父の机の引き出しでした。上に積み重なる書籍類の重みのせいです。父が買って帰る本、送られて来る雑誌は、70年代、80年代、90年代、高さと量を増し続けて、ついには天井に届く勢いでした。父は、机に座って仕事することをあきらめ「実はあの引き出しの中にはヘソクリの聖徳太子の束が隠してあるんだ」とニヤニヤ笑っていました。

『絶景本棚』と言う写真集がありますが、父の机上に豪快に書籍類が堆積し、風化が加わった様はなかなか壮観で、そのまま放置しておけば、東の関脇位の番付が貰えたかもしれません。私は「日本SFの地層か」と思いにふけって見上げる事もありましたが、書籍類の層に、外れ馬券、アンパンの包み紙、空の猫缶まで混じっていては「貝塚」と呼んだ方が相応しかったかもしれません。母が「地震で崩れたら危ない」と心配するのをよそに、本人は、書籍流直撃の危険地帯であるテレビの前に居座って「本に埋もれて死ねば本望だ」と開き直っていました。
「なに、SFの弟子に言えば喜んで整理してくれる。日本初のSF図書館が出来るぞ」と豪語していたのに、とうとう父から後輩のみなさんに声を掛ける事はありませんでした。
 
 攻略不可能に見えた本の山、二度と開かないと思った机の引き出しでしたが、一昨年、本好きの兄夫婦の働きで切り崩され、机の表面が見えてきたと思ったら、数ヶ月後には、本来の机としての機能を回復していました。本棚は「石川喬司記念文庫」の体裁が整い、アチラの友人たちの著作も並びました。 あっけなく開いた引き出しの中からは、聖徳太子は見つからなかったそうです。開かずの扉も再び開け閉め出来るようになり、縁側への通行が再開されました。
 
 2023年7月9日、母、兄、私に看取られ、父は病院のベッドで息を引き取りました。「最終レースが終わる時間だな」時計を見て、兄がつぶやきました。
 誰もいないはずの石川家。主人をなくした机のある部屋に電話が鳴り響く。受話器を取り「やあ、とうとう僕が死んじゃったのか」とつぶやくのは父。整理された本棚を眺め、開かずの引き出しを開けて取り出すのは聖徳太子? いや、外れ馬券? と見えたのはアチラ行きの片道切符。もう一度あたりを見回し、「でかした。息子、嫁さん。あとは頼んだぞ」満足そうに頷くと、縁側への扉をすっと開け、目指すのは「ハナ犬小屋跡」停留所で待つ「夜のバス」。

豊田有恒(とよた・ありつね)

一九三八年生まれ。群馬県前橋市出身。武蔵大学経済学部卒業。在学中の一九六一年、第一回空想科学小説コンテストに投じた「時間砲」が佳作に入賞。それをきっかけとして、SF同人誌「宇宙塵」に参加し、活動的なメンバーとなった。一九六二年、第二回ハヤカワ・SFコンテスト(賞の名称が空想科学小説コンテストから変更)に、「火星で最後の……」が佳作入賞。この作品が「SFマガジン」一九六三年四月号に掲載されてプロデビュー、同誌の常連寄稿者となる。一九六六年には最初の著作となる短篇集『火星で最後の……』(早川書房)を、翌六七年には初長篇『モンゴルの残光』(早川書房)を上梓。そのほかの代表作として、『退魔戦記』(立風書房、一九六九年)、『火の国のヤマトタケル』(ハヤカワSF文庫、一九七一年)、『タイムスリップ大戦争』(角川書店、一九七五年)などがある。活字メディア以外では、一九六三年のアニメ『エイトマン』を皮切りとして、『鉄腕アトム』『スーパージェッター』『宇宙少年ソラン』などに脚本家として参加。『宇宙戦艦ヤマト』では原案・設定にかかわった。豊田有恒の日本SF界への貢献は、実作者の立場だけにとどまらない。一九七七年から「SFマガジン」で読者の創作投稿コーナー「リーダーズ・ストーリイ」の選者を務め(一九八一年まで)、多くのアマチュア作家を励ました。実際、このコーナーには山本弘や岬兄悟をはじめ後にプロデビューする作家が作品を寄せている。また、一九八三年から一九九一年にかけて下北沢でSFプロダクション「パラレル・クリエーション」を主宰し、何人ものクリエーターに活動の拠点を提供した。また、一九八六年から翌八七年にかけて日本SF作家クラブの会長(五代目)。日本SF大賞では、第一回から第九回(一九八〇~八八年)、および第三十回から第三十三回(二〇〇九~一二年)の選考委員を務める。二〇二三年十一月二十八日に逝去。
[プロフィール作成:牧眞司]

受賞の言葉  豊田久子(故・豊田有恒氏の奥様)

 この度、一般社団法人日本SF作家クラブ様より、第44回日本SF大賞功績賞を賜り、誠にありがとうございます。家族一同、大変光栄に思っております。きっと、有恒もあの世で照れ笑いを浮かべていることでしょう。
 1965年、星新一夫妻に仲人をお願いして結婚し、SF作家の妻となり、気付いたら59年。振り返ると、およそ普通の生活では味わえない、かけがえのない日々を過ごしてきました。
 創設間もない頃のSF作家クラブは少人数のアットホームな雰囲気で、仲良しクラブとも言われていました。結婚後、最初に住んだのは渋谷区富ヶ谷の3Kのアパートで、新宿の十二社(現在の西口公園界隈)にある台湾料理店「山珍居」での作家クラブの会合の後、作家仲間が我が家に流れてきて、二次会になるのが恒例になっていました。
 二次会のメインは麻雀です。四畳半を陣取るコタツのテーブルを裏返すと、即席の麻雀台に様変わりです。卓を囲めず余った人たちは隣の仕事場のソファや床に座り、それぞれが「今、何を書いている」とか「こんなアイデアはどうか?」など、談論風発、賑やかで豊富な話題が飛び交っていました。「あ、そのアイデア、いただき!」と手を挙げた方がいたかと思えば、卓を囲みながら星さんや筒井康隆さんのジョークに、皆が笑い転げる様子が、今も鮮明に思い浮かびます。
 そんな中、私は接待に大わらわです。当時は夫を含めて皆がヘビースモーカーで、小松左京さんを筆頭に、筒井さんはピースの両切り、夫はハイライトと、タバコの煙が充満する狭い部屋の中、あちこちに灰皿を置いたり、交換したりしたものです。そのうちに、飲み物やおつまみが足りなくなると、当時はコンビニなどない時代なので、夫と共に車で青山通りにある、当時は珍しかった深夜営業のスーパー「ユアーズ」へ調達に行くこともありました。そんな時、「チャコちゃん(私です)、これ!」とカンパしてくださったのは年長者の矢野徹さんでした。
 また、私たちより一年ほど前に、筒井さんご夫妻が小松さんの仲人で結婚されて、原宿のマンションに住んでおりました。東京オリンピックの選手村が、今の代々木公園に整備されたのが同じ頃で、代々木公園への散歩がてら二人で筒井さんのお宅にうかがったり、平井和正さんご夫妻らと熱海へ旅行に行ったのも、当時の忘れられない思い出です。他にも光瀬龍さん、半村良さん、広瀬正さん、伊藤典夫さんら、若き時代のSFのパワーが渦巻いていたと思います。
 夫は常々「物書きは一匹狼だ」と申しておりました。しかしながら作家仲間は、お互いに認め合い、さながら同志のような連帯感を持ち、SF作家クラブを介して、他では見られない強固な関係性を形作っておりました。そのかつての「仲良しクラブ」が今や一般社団法人となり、SFもまた多様性が叫ばれる現在、文学に留まらず、マンガ、アニメ、ゲーム、アート、音楽など、様々なジャンルに拡散して久しくあるかと思います。今後の日本SF界のさらなる発展を期待して止みません。
 昨年、10月6日で、私たち夫婦は結婚58周年を迎えましたが、残念ながら夫は既に入院中で祝うことは叶いませんでした。豊田有恒と共に歩んだ、半世紀以上の日々は、とても語り尽くせるものではなく、未だに蔵王の山小屋で、自由気ままに過ごしているような気持ちです。
 今、目の前にあるのは、SFを中心として、生涯を通じて多岐にわたる分野で遺した著書の数々です。これからも豊田有恒の仕事が多くの方々に触れる機会があることを切に願います。
 改めましてこの度は厚くお礼申し上げます。

聖悠紀(ひじり・ゆき)

一九四九年生まれ。新潟県新発田市出身。一九六六年からマンガ同人サークル「作画グループ」の主要メンバーの一人として活動。一九六七年、同グループの肉筆回覧誌に「超人ロック」の第一作を発表。現在は「ニンバスと負の世界」として知られるエピソードで、ここから五十年以上続く作品となっていく。一九七一年『別冊少女コミック』5月号に「うちの兄貴」を発表して商業誌デビュー。「超人ロック」のシリーズも前後して一九六九年『この宇宙に愛を』、一九七一年に『ジュナンの子』、一九七四年に『コズミックゲーム』を作画グループから発表していた。プロ活動としてはアニメ作品『超電磁マシーン ボルテスV』『闘将ダイモス』や特撮作品『忍者キャプター』のキャラクターデザインを担当、『闘将ダイモス』『大鉄人17』『宇宙戦艦ヤマト』のコミカライズも手がける。一九七七年に『月刊OUT』で『超人ロック』の特集が組まれたことで一気に人気が広まり、一九七九年から『週刊少年キング』で連載スタート。以後、発表媒体を変えながらシリーズは続くこととなり、『コミックフラッパー』連載の「憧憬」、『ヤングキングアワーズ』連載の「カオスブリンガー」を体調不良で休載するまでライフワークとして描き続けた。「超人ロック」以外でも一九七八年発表の『黄金の戦士』は異世界転移から始まるファンタジーの先駆けで、少年少女が正義の味方として活躍する『ファルコン50』やSFコメディ『くるくるパッX』など、SFをベースに置いた様々な作品を描いていった。プログレッシブ・ロックのファンとしても知られる。二〇二二年十月三十日に七十二歳で逝去。没後の二〇二三年四月十日、第52回日本漫画家協会賞として『超人ロック』に文部科学大臣賞が贈られた。理由は「肉筆同人誌で生まれて、商業誌に活動の場を広げ戦い続けた不死身の美少年ヒーローは、僕らその後のマンガ少年少女にとって大いなる憧れでした」
[プロフィール作成:タニグチリウイチ]

受賞の言葉  長谷川美絵(故・聖悠紀氏の奥様)

 聖悠紀は子供の頃から読書が好きで、書店に行って本を選ぶことを楽しみにしていました。特にSFが好きでした。今思えば、漫画を描き続けた50年以上の間、聖の傍らにはいつもSFがあって、活力の源となっていたのだと思います。
 自分が描く絵になかなか満足できず、お褒めの言葉をいただいてもまだまだだと言う人でしたが、『月刊ヤングキングアワーズ』2017年1月号の表紙を描いたときは、珍しく満足そうだったのでよく覚えています。その数か月後にパーキンソン病であるとの診断を受けました。代表作『超人ロック』が生誕50周年を迎え、これからもっと面白い漫画を描くのだと語っていた年に難病に罹り、自分が描きたいと思う線が描けなくなり、画力が衰えていったのです。本人は「なるようにしかならん」と言い、苦痛を訴えることはあっても病に罹ったことについて愚痴を言うことも嘆くこともありませんでしたが、心の中はどれほど辛かったか、想像もできません。
 そんな聖の晩年を支えてくれたのも、SFを読むことでした。ですから、この度、日本SF作家クラブの皆様から、歴史ある、大変名誉な賞をいただきましたことを、聖悠紀はとても喜んでいるに違いありません。故人に代わり、心から感謝を申し上げます。ありがとうございました。

松本零士(まつもと・れいじ)

一九三八年生まれ。福岡県久留米市出身。小倉で育ち、六歳の頃から絵を描き始め、九歳で手塚治虫の『新寶島』『月世界紳士』と出会い漫画を描くようになる。十五歳の時に『蜜蜂の冒険』が「漫画少年」の第一回漫画新人王で新人王を受賞、商業誌デビューを果たす。一九五七年に「少女」に掲載された『黒い花びら』が実質的な漫画家デビュー作で、この頃に上京も果たし、松本あきら名義で主に少女漫画誌で作品を発表する。その後、青年漫画誌にも作品を発表するようになり、一九六八年「漫画ゴラクdokuhon」に『セクサロイド』を発表。一九七一年から「週刊少年マガジン」に連載した『男おいどん』が出世作となり、一九七二年に第三回講談社出版文化賞児童漫画部門賞を受賞した。『セクサロイド』や一九六八年の『光速エスパー』などSF漫画も描いていたが、一九七四年にアニメ『宇宙戦艦ヤマト』の製作に関わり、以後、『宇宙海賊キャプテンハーロック』『銀河鉄道999』『1000年女王』といった宇宙が舞台のSF漫画を相次ぎ発表。SF的な感性を漫画やアニメで表現するクリエイターとして大きく注目を集め、これらのアニメ化作品ともども「松本零士ブーム」を巻き起こし、日本だけでなく世界に向けて、SFが持つ壮大なストーリーとスタイリッシュなデザインを浸透させていった。公人としては(公社)日本漫画家協会の常務理事(二〇〇〇~二〇一八年)として漫画家の地位向上等に取り組み、(公財)日本宇宙少年団の理事長(一九九四~二〇二一年)も長く務めて子どもたちに対する宇宙や科学の教育に力を尽くした。一九七八年に『銀河鉄道999』『戦場漫画シリーズ』で第23回小学館漫画賞を受賞し、一連のSFシリーズにて第7回日本漫画家協会特別賞も受賞。一九九〇年には『V2(ツイン)パンツァー』で星雲賞の受賞も果たした。二〇〇一年紫綬褒章、二〇一〇年旭日小綬章受章、二〇一二年フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。「漫画家は、刀をペンに持ち替えた永遠の浪人」を持論に漫画を描き続け、二〇一八年にも『銀河鉄道999』の最新作を発表した。二〇二三年二月十三日に八十五歳で逝去。
[プロフィール作成:タニグチリウイチ]

受賞の言葉  松本摩紀子(故・松本零士氏のご長女)

 この度は貴クラブより功績賞という名誉ある賞を賜り大変光栄に存じます。故人に代わりまして心より御礼申し上げます。
 松本におきましては、生涯を通して好きなことで仕事をし続けるという、まさに自分自身の夢の中に生きた、本当に幸せな一生を送ることが出来ました。これもひとえに皆様方のご支援とご理解あってのことと深く感謝申し上げます。
 娘としましては幼い頃、そんな父に淋しさを感じたことも多々ございました。話しかけても返事もしない、心ここに在らずといった時があり、パパは私のことなんかどうでもいいんだと隠れて泣いたこともありましたが、昨年、松本が他界しました後、遺された膨大な量の画稿を一枚一枚整理していくにつれ、いくら漫画を描くのが好きだったとはいえ、締切という限られた時間の中で、宇宙であったり戦場であったり、はたまた古びたアパートの四畳半であったりと、いくつもの違った世界や時代のストーリーを同時に考え、形にしていった苦労を実感し、それも無理なかったのだなとようやく理解することが出来ました。
 そんな松本の長年の努力をこのたび認めていただけましたことは娘としましても大変喜ばしく、すべてが報われたと感じております。
 二〇二七年には『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』の漫画連載が始まってからちょうど五十周年となります。関係者一同そこに向けて色々と頑張っておりますので、楽しみにお待ちいただけましたら幸甚に存じます。
 これからも松本の夢は続きます。その夢を継ぐ者として、功績賞の名に恥じぬよう努めてまいりますので、引き続きご支援のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。
 この度は本当にありがとうございました。