第43回日本SF大賞 選考経過 選評

第43回日本SF大賞選考経過報告

第43回日本SF大賞の選考会は、井上雅彦、草上仁、小谷真理、斜線堂有紀、立原透耶の全選考委員出席のもと、2023年2月19日にオンライン会議で行われました。
運営委員会からは司会として大澤博隆会長、オブザーバーとして揚羽はな事務局長、技術係として藤井太洋、記録係として朱野帰子、吉上亮が出席いたしました。

今回の最終候補作は以下の五作品です。

  • 『異常論文』樋口恭介(編)(早川書房)
  • 『SFする思考 荒巻義雄評論集成』荒巻義雄(小鳥遊書房)
  • 『残月記』小田雅久仁(双葉社)
  • 『地図と拳』小川哲(集英社)
  • 「わたしたちの怪獣」久永実木彦(東京創元社「紙魚の手帖 vol.6 AUGUST 2022」)

選考経緯

会長による開会の挨拶の後、選考委員各人が大賞に推したい作品を挙げ、その理由を述べていきました。最初の投票で『SFする思考 荒巻義雄評論集成』が3票、『残月記』が1票、『地図と拳』が1票となりました。その他の候補作についても言及され、慎重に各作品の議論を行いました。その結果、『異常論文』と「わたしたちの怪獣」が落選しました。『異常論文』については、企画として面白く特別賞に推す選考委員もいましたが、過去にオリジナルアンソロジーだから特別賞というケースが幾度かあり、あくまで大賞に相応しいかどうかを問いたい、などの意見が選考委員から出されました。「わたしたちの怪獣」は各選考委員から面白かったという意見がある一方、文芸誌からそのまま候補に上がったことが逆に不利になってしまったかもしれない、短編集になって改めて評価したい、などの意見が出され、惜しくも落選となりました。その結果、『SFする思考 荒巻義雄評論集集成』と『残月記』と『地図と拳』の三作からどれを大賞受賞作にするか、さらなる議論が行われました。

『異常論文』樋口恭介(編)(早川書房)

企画に上がってTwitterで選ばれて本作ができていく流れは面白かった。コンセプトは非常によかったが、収録作品にクオリティの差があり、最後まで読むとSFとしての飛躍が弱く思えた。収録作品をSFに寄せて精選してもよかったのではないか。論文の体をなしてないものもあり、また異常にしようとして真面目になりすぎてしまい、面白くなくなってしまったものもあった。小説書きの宣言とも受け取った。言葉というものの限界は知っているが、言葉で書く小説の枠組みを受け入れ、不可能なところまでチャレンジしている。誤読はしてもらっていいが読者を置き去りにはしない。そんな真面目な小説が連なっている。限界に挑戦したメタ小説である。ただ、メタ小説の集合体に大賞が適切かというとそうではないのではないか、などの意見が出されました。

『SFする思考 荒巻義雄評論集成』荒巻義雄(小鳥遊書房)

これが最もSF的作品であると感じた。エンタメ性では(他作品に)負ける。だが、ひとりのSF作家として考えたことが、個人の枠を超え、当時のSFの論議・状態などを取りこみ、長大な思考として拡がっていくのが非常によくわかった。後世の我々が学ぶところがたくさんあった。後世に伝えるべきもの。各章の古い論考も、今の著者の手が入っており、古びている感じを受けない。ジャンル論の部分、雑記帳の部分。詳しくない読者にも優しく書かれている。ミステリー談義、シュレディンガーの猫を人にしたらどうするか。仮想の思考実験として面白かった。非常に長い本ではあるが、こういうものに陽が当たり、知らない読者が手に取るキッカケになってほしい。どうやって小説を書いていいかわからないという人たちに創作のイロハを教えているところなど一般性もある。創作だけでなく営業のイロハも惜しげもなく書いてる。理論的にすべてをカバーしてすごい。このひとはブレがない。SFが好きで、それが一番の骨子になっている「術(クンスト)」のSF論は、若い頃に書いているが、本人のなかにある理論の構図は変わっていない。これを裏付けることをし続け、今になって完成させている。著者の書いた他の小説を参照すると、すべてが「術(クンスト)」の小説論で決まっている。生涯かけてここまで完成させたのはすごいこと。最終的な完成に向かっていくプロセスをすべて残している。ある書き手の集大成のようなもの。推薦者のコメントでもみんな「面白い」と書いている。ただ、この厚みでいろんなことがいろんなふうに書かれていることで、纏まりがないとまでは言わないが、読み手によって刺さりどころが違う気がする。SFに馴染みのない一般の読者に「面白いから読んでみて」と勧めるにはちょっと厳しいとも思った。大賞として相応しいかどうか悩んだ、特別賞が相応しいのではないか、などの意見が出されました。

『残月記』小田雅久仁(双葉社)

完成度の高さがものすごい。解決の仕方が二十一世紀的で、コミュニケーションのとり方が現代的である。二十一世紀の幻想として相応しい。表題作にして第三作「残月記」に関しては全ての設定がSF的であった。架空の感染症という設定、それが月に伴うというのが幻想的。ディストピアな未来というのも、ものすごく現実的に描かれている。歴史改変がなされている節が見られ、SF本来のワクワク感もある。アクションとか、武闘小説とか、そういう面もあるが、芸術や創作の意味を問いかけているのが印象に残った。SF界から見ても新しい作品のように思える。第一作「そして月がふりかえる」は現実から幻想に渡る。第二作「月景石」は並行する現実と幻想を行き来している。第三作「残月記」は完全な幻想で現実はなくハイファンタジーになっている。幻想世界の3パターンで三作が出来ている。残酷な話であるにも関わらず読んでいて不思議と癒される。気持ちいい。どれも面白い。奇想のギミックもそうだが文章が美しい。この一文を書けたら作家冥利に尽きると思える文章がたくさんある、などの意見がありました。一方、しつこめの表現の反復があった、オノマトペがちょっと読みにくかった、といった意見も出されました。収録された各作品については、表題作「残月記」が特に素晴らしいが、短編集として纏めたとき、他二つとのクオリティに差がある。それぞれがそれぞれの色を持っているので、並べて連作するのがもったいなかった。それぞれ別の長編として読みたかった。ガジェットの組み方がディストピア作品としては典型で新鮮ではない。結末に意外性は感じなかった。SFのガジェットでも何か発展があるとよかった。「そして月がふりかえる」はショッキングな結末だがジャンルとして見ると類例がある。「月景石」は魅力的な設定を思いついたが拡げた風呂敷が畳めずオチが典型的になってしまった印象を受けた、などの意見がありました。また、「月景石」はイメージの組み上げ方が新鮮だと述べる意見もありました。

『地図と拳』小川哲(集英社)

ページターナーとして文句なし。抜群のエンタテイメント性。活き活きとしたキャラクター描写。伏線回収の気持ちよさ。ダイナミックな歴史解釈。登場人物の出てくる長さや濃さに違いはあるが、それぞれがそれぞれの立場で世界に参画している。見事な小説になっている。文章力が高く読みやすかった。様々なボキャブラリーを尽くして同じ表現にならないように工夫されている。近現代の史実に照らし合わせ、ここからアイデアを引っ張ってくるのかという驚きがあった。主要な登場人物が建築家。建築とは時間、モニュメントなんだというコンセプト。建築を通じて世界をよくしようというのが出ていた。タイトルや帯の惹句から孫悟空が超常的活躍をする話を想像したが、作中に登場する孫悟空の能力は歴史のなかで生まれる土地と人の結びつきによるもので、彼だけが超能力者ではなかった。世界を計測する人物と世界を測量する人物二人が、観測したり測量することで世界が変わってしまうことが描かれるさまは量子力学的な概念が入っているように見え、最後の実物大の地図はSFとしてのイメージ要件を満たしている。満州を地図に描かれた架空の島である青龍島と同じように架空のユートピアとして幻想化し、異世界ファンタジーのように突き詰めて架空の都市が出てくる。あくまで現実に沿ったかたちで架空の国になった満州に目をつけたのは、著者のユートピア探求思考に合っている。歴史の間を埋めていく面白さという点で満州を題材にしたいくつかの先行作と共通する。現実を超えた逸脱性を構造的に引っ張ってくるわけではなく、従来の満州論を引っ張ってきて建築する点で本作は堅実に作られており、SF的な逸脱性はなかったように感じられた。作中で掲げられていた大きな謎に対して最後に出てくるのが模造紙の地図。本作は現実を見ており、リアリズム小説のほうに向かっている、などの意見が出されました。本作の結末に触れる選考委員も複数おり、この小説らしさのカタルシスがもう一段欲しかった。クラシニコフ神父が残した地図を引くことで何か起きると思った。廃墟になった公園に地図を広げる場面はアニメチックなロマンさがあるが、もう1ラウンドあってもよかった。ここまでいってボーイミーツガールで終わってしまうのか。結末の時代設定が1955年であるため、SF的な飛躍の描写を導入するにはテクノロジー的な制限があったのではないか。誰が何のために地図に島を書き込んだ、という真相もカタルシスはあるといえばあるが、SFを期待して読むと弱く感じられてしまう。ヒロインとなる孫悟空の娘の人生にも決着が欲しかった。中国に暮らす普通の人として描かれているが、もっとスーパーヒロインであってほしかった、などの意見が出されました。また物語とは別の部分で、文章中の中国語の発音表記に間違いが多く気になってしまった、などの指摘も出されました。

「わたしたちの怪獣」久永実木彦(東京創元社「紙魚の手帖 vol.6 AUGUST2022)

ホラーでは一番面白かった。最後のオチはやられたと思った。死んだ父親の死体を怪獣の死体に混ぜちゃおう、という発想は面白かった。異常事態と家族の危機とが連動し、それが終わった後に家族の絆は復活するのかを描くのはアメリカンホラーの約束事だが、非常にうまく使っている。一番身近な問題である家族の問題は、心理にゆさぶりをかけてくる。怪獣の異常事態とDVの話と連動するかたちで危機がダブルで来る。日常の異常と非日常の異常を被せてきたのはうまい。お母さんはもうちょっと活躍して欲しかった。最後に仲良くなってるがそれでよかったのか。(お母さんは)最も渦中の人であるはずなのに役どころが与えられていなかった、などの意見が出されました。一般投票(エントリー)で本作を推すコメントが多かったと言及する選考委員もおり、近年の怪獣作品と比べてやってないことをやっている、と書いてるエントリーコメントもあった。ウルトラシリーズなど、むしろ昔の怪獣作品には、本作のような家族の危機をとりあげる作風が多かったのではないか。文芸誌掲載からそのままで上がってしまったことが逆に不利になってしまったかもしれない。短編集になってからのほうがよかったのではないか。昨年の選考では本作の著者による作品を推したが、この作品ではないと思った。また別の作品に期待したい、などの意見が出されました。

最終投票

五作とも本当に面白く一回読んだだけでは決められなかった、今回は最終候補作に残った時点ですでに何らかの文学賞に相当する、などの意見が挙がりました。どの候補作も優れた作品であることはすべての選考委員の同意するところであり、さらなる議論が重ねられ、候補作が絞られていきました。

その結果、前述の通り、『異常論文』と「わたしたちの怪獣」が惜しくも落選しました。『地図と拳』については、本作が見事な小説であることは間違いないが、SFとして見るとSF的な逸脱性よりも現実に即した堅実な造りを選択し、最終的にリアリズムに向かっているのではないか、とする選考委員もおり、本作について白熱した議論が深められました。結果、『地図と拳』も惜しくも受賞には至らず落選となりました。

そして、『SFする思考 荒巻義雄評論集成』と『残月記』のどちらを大賞にするかで、最後の議論が行われました。『SFする思考 荒巻義雄評論集成』については著者の長年の集大成といえる作品でもあり、今年の業績として見るべきなのか、特別賞が相応しいのではないか、という意見が出る一方、大賞について発表年代にこだわると選考が難しくなる、少なくとも出版年次でまずいところはなく、あくまで大賞に相応しいかどうかで評価としたい、といった意見も出されました。特別賞の定義についても議論されました。特別賞は、過去を振り返るとSF大賞の枠に完全に容れられないようなものが選ばれてきた、という選考委員の意見もありました。そして、二作品どちらを大賞とするか、あるいは大賞と特別賞とするか、さらなる議論が慎重に行われました。SF大賞が果たすべき役割についても議論が及んだすえ、最終的にどちらか一作を大賞とするのではなく、二作品を大賞とすることも可能であると会長から提案が出され、全選考員による投票が行われました。その結果、全会一致で両作品ともに大賞を受賞するに相応しいとする結論に至り、大賞は、荒巻義雄『SFする思考 荒巻義雄評論集成』と小田雅久仁『残月記』の二作が受賞することが決まりました。

特別賞は本年は該当なし。功績賞は、惜しくも亡くなられた鹿野司さん、津原泰水さん、八杉将司さんに贈ることを会長が提案し、選考委員からも異論はなく、お三方への功績賞を贈ることが全会一致で了承されました。

(記録・文章:吉上亮、朱野帰子)

第43回日本SF大賞 選評

選評 井上雅彦

五つの候補作は、ヴァラエティに富んでいる。

長編小説。中編・短編を含む作品集。評論集。文芸誌初出の短編。オリジナルアンソロジー。

あまりにも形態が異なった五本である。選考そのものが難しいのではないかと思ったが、見つけ出すべきものは決まっている。現代のSFシーンを更新するような作品。その作品が存在するのとしないのとでは、今後のSFの展望にとって、状況が変わってしまいかねない作品。

自分の中では、明確に決まった。

大賞に推薦したいのは、二作。選考会でも、この二作のそれぞれに大賞を推す声があがり、検討の結果、この二作が大賞と決まった。

●小田雅久仁『残月記』(双葉社)

〈月〉を共通のモチーフとして、二つの短編と一つの中編が収められた作品集。その最初の短編「そして月がふりかえる」を読んだ時の衝撃が忘れられない。いわば《ミステリーゾーン》的、あるいは、《異色作家短編》的な短編であり、日常に入り込んだ不条理な現象が主人公を恐怖に突き落とすモダン・ホラーと呼んでもいい物語なのだが、その叙述が極めて斬新。三人称だが一人称的に主人公の内面を描写する叙述が濃厚で、臨場感と感情移入力が、群を抜いている。近年では、ともすれば〈世界線〉とひとまとめにされかねない設定を、これでもかとばかり主人公を追いつめることで、新しい文学へと掘り下げるものになっている。さらに、結末は、SNS時代の現代ならではの幽かな希望へと繋がっていく。この短編のみで、現代幻想文学の到達点のひとつとして評価できるように思われた。二番目の「月景石」は、夢の世界で死者と再会するファンタジー小説。これも近年のサブジャンル化された〈転生〉ものとは様相を異にし、古典的な空想の力を回帰させる作品。そして、三番目の中編、表題作「残月記」が濃密なSFだった。月の満ち欠けに精神も肉体も影響される超現実的な〈架空の感染症〉「月昂」を軸に、南海トラフ地震後の独裁政権という〈ディストピア〉を舞台として、グラディエイター的奴隷戦士にされてしまうひとりの芸術家の人生と恋愛を、さらに未来の時間から描く〈伝記小説〉。SF的には〈歴史改変〉まで用意されており、SFの醍醐味を強く感じさせる。

レベルの高い文章の表現力(美的であるのみならず、読者の生理・感性とのコミュニケーションを重視していると思われる)も、全作品に共通していて、選考作品中、群を抜いていると思われた。

現代──二十一世紀ならではの幻想を描いた本書は、SF大賞に相応しいと私には思われた。

●小川哲『地図と拳』(集英社)

骨太のテーマ。癖も魅力もある登場人物。「異界」と言ってしまいたくなる臨場感のある舞台。

候補作唯一の長編小説は、エンタテインメントとしての一級品だった。

ただ、この小説の面白さは、「歴史小説」の面白さそのものだと思われる。

近年、SFのみならず、幻想小説、ホラーなど、広い意味での空想文学の分野に身を置いているいわば「プロパー」が、自分のジャンルから少しスライドして、新たな歴史小説に挑む潮流が見られる。たとえば、上田早夕里『ヘーゼルの密書』、朝松健『血と炎の京 私本・応仁の乱』など。なかには、皆川博子『U』のように、幻想への浸蝕が強く見られる作品もあるのだが、本作は、現実に踏み留まることで小説の力を発揮しようと試みている。

作者は、SFを知り尽くし、SF的手法を熟知したSF作家だが、本作は、SFで培われた想像力・構成力・異世界描写力・幻視のヴィジョンを尽くして、歴史小説の分野を更新したのであって、本作は、SFを更新する作品とは呼べないのではないか、と思われてならなかった。

選考会でも、本作のSF性について議題となり、他の選考委員から、SFとの決定的差異が披露された。

作者がこの作品を通過点として、さらなるSFの深みに挑まれるのを待ちたいと思う。

●樋口恭介(編)『異常論文』(早川書房)

自分にとっての、アンソロジーの評価軸は、アンソロジストの目線ではなく、小説家の目線でということになる。その良し悪しは、読み終わってから、収録作のような作品を書きたくなるアンソロジーであるか否か──という、いつもの観点から読ませて戴いた。

本作は、論文形式のSFのみを集めた個性の光るオリジナル・アンソロジー。論文形式の小説といえば、実はこれまでも、第一回星新一賞グランプリの遠藤慎一作品や、架空の文芸評論や美術評論といった様式の内外のポストモダン系作品、架空の論文や論考を内包した長編や短編(「残月記」も実はこの様式だと思われる)などの成功例があり、内容的に、どうしても、それらと比べてしまうことになる。

なかには、柴田勝家作品のようにかなり伸び伸びと書かれた傑作もあり、柴田氏の別の作例から〈異常論文〉なるコンセプトが生まれたという成り立ちを考えれば秀逸さもよく理解できた。それ以外にも、論文や批評などの裏に「物語」を感じさせる作品もあり、そうした作品については、面白く読むことができた。

個々の内容よりも、出版に至るまでのプロセスや企画性で「特別賞」という意見もあったが、オリジナル・アンソロジーの企画性に「特別賞」が与えられたのは、もう四半世紀も前のこと。そろそろ、すべての内容を踏まえて「大賞」こそが相応しいというアンソロジーが出てきて欲しいと切に思う。

個人的には、本作は、昨年の高野史緒『まぜるな危険』に引き続き、「概念に対するベストネーミング賞」として、記憶に深く刻まれる一冊となった。

●久永実木彦「わたしたちの怪獣」(東京創元社「紙魚の手帖 vol.6 AUGUST 2022」)

選考会では、言及された分量が最も少なかったと記憶するが、私としては、かなり、好みの作品。街を破壊する大怪獣が描かれているが、幻想小説としての手法が活かされていて、その部分が自分のツボに嵌まった。(掲載誌の「紙魚の手帖 vol.6」は、ホラー作品特集号。同誌に掲載された小田雅久仁の怪奇幻想作品よりも、私には面白く感じられた)

しかし、本作は、これまでSF大賞をとってきた「怪獣SF」「怪獣フィクション」と比べ、それらを凌駕するものとしては、弱さが感じられた。たとえば、『シン・ゴジラ』を強く意識し、それに依存した表現も見受けられる。『シン・ゴジラ』には描かれていない「家族」や「個人」のテーマが中心となっているという指摘もあるが、かつての怪獣ドラマ(TVの『ウルトラQ』など)にはこうしたテーマが据えられているものが多く存在しており、その意味でも、これまでの「怪獣フィクション」を更新する斬新さとは言い切れないと思われた。

なお、本作は、唯一、書籍ではなく、文芸誌掲載の「初出」短編からのノミネート。

多くの関係者の手間と時間を込めて作られた「書籍」(多くの作品を収録した短編集も含む)と選考を争うことになるわけで、この段階のノミネートは、作者にとって、かなり損をしていると思われる。

●荒巻義雄『SFする思考 荒巻義雄評論集成』(小鳥遊書房)

SF作家・荒巻義雄が、まさに実作し続ける「SF作家」として、文学史・世界史・日本SF史・作家論・芸術論・文化論・作家論、そして、自分史を語りながら、SFの本質を問い続けてきた思考の蓄積。これは、まさにSFの財産そのものといってもよく、SF大賞に相応しいと私には思われた。

実は、選考委員としての自分を振り返った時、かねてより、荒巻義雄の評論──特に、幻想小説とSFとの差異を検証・探究していく氏の論考を反芻してきた自分が、本作を純粋に「選考対象」として読むことができるのかどうか、疑問もあった。「大賞」の枠を超えた作品であり、ある意味で「特別賞」のレベルとも考えたほどだったのだが──だからこそ、自分は本書を「大賞」に推すべきではないかと考えるに至った次第である。

本作は、半世紀前の日本SF黎明期の時代から、第一世代SF作家の荒巻義雄がリアルタイムで論考し続けた思考の記録であり、しかも、それぞれ過去の批評に、現在の荒巻義雄がリンクして、さらなる論考を続けている。つまり、現在進行形のまさに「SFする思考」であり、SF界を牽引する「大賞」に相応しいものと思われた。

今回、大賞は二作に与えられたが、ノミネートされた他三作も二〇二二年のSFシーンにとって強い光芒を放つ作品だった。毎回、この日本SF大賞はノミネートされた時点で、SF者の記憶に残る「賞」に相当する価値を有していると個人的には思われることも、つけくわえておきたい。

また、三名への功労賞について、それぞれへの忘れ難い想い出とともに、あらためてSFへの貢献に対する深い感謝を捧げたい。

選評 草上仁

異常論文

新しいジャンルを評価することになるのだろうか、と考えて読み始めた。読んでわかったが、異常論文はジャンルなどではなかった。アシモフのチオチモリンが、わが国でどこまで進化したのか知りたいとも思った。しかし、異常論文は、アシモフのチオチモリン論文の延長でもなかった。

では、異常論文とは、一種のムーブメントなのだろうか。

それも少し違う。統一的なムーブメントというより、作者それぞれによって提出される私的な宣言のようなものだ。もちろん、作者によって言っていることは異なる。しかし評者は、「言語や言葉という制約を意識しつつ、自由に世界を構築し、読者と共有する」という宣言主旨は共通しているように思った。制約を意識することと、制約に屈服することは異なる。読者と共有することと、誤読や過読は矛盾しない。

われわれは、おそれずに、果敢に限界に挑戦する。一方で、当事者である読者が、作品の完成に参加していることを知っている、そういう宣言と読み取れた。

きっと、異常論文という名称にも意味がないのだ。異常とは、正常という二分法的価値観が存在することを前提とした言葉だ。論文には、定められた形式規範がある。しかし、異常論文は二分法も規範も否定する(ように読める)。となると、ヴィアンの北京の秋と同じく、実体は異常にも論文にも関わりがないのだろう。

作者たちは、宣言するだけではなく、それぞれが見事に挑戦をやりおおせている。本書は紛れもなく傑作小説集なのだ。となると、異常論文は小説のサブジャンルなどではなく、メタ小説、おためごかしの約束事や体裁を剥ぎ取った小説そのものを意味する。

読んで凄いと思った。ここまでやれるのかと可能性を感じた。評者も数知れぬ誤読を繰り返したと思うが、それは企まれたことでもあるだろう。とにかく、本候補作の衝撃力にはこの上ないものがあった。但し、バラエティに富みすぎていた。誤読も含め、衝撃の度合いは読者によって異なるし、どの作品が『刺さる』かも違って来るだろう。総体として評価することは難しく、大賞には選ばれなかった。

SFする思考

実作者としての覚悟を問われて、頭をどやしつけられた気分だ。

本作は歴史であり、世界観であり、文字通りの意味で集大成だ。第一世代の凄みを感じる。評者はどこかの穴倉に逃げ込んでのんべんだらりと過ごしたこれまでの作家生活四十年を猛省したいと思った。一人の作家の仕事として、底知れぬ恐ろしさすら感じた。

本書は、「SFって面白いよ。ほら、この受賞作を読んでごらん」という誘い文句を拒絶している。いや、そうした下世話なレベルとは関係なく屹立していると思った。実はそこが気になった。

評者の解釈では、無辜の一般人?に向かって「SFって面白いよ。ほら、読んでごらん」と差し出すための仕組み、嫌な言い方をすれば戦術がSF大賞でもあるのだ。受賞作は幸福な読書体験――ビギナーズラックのきっかけにしたい。

一方で才能に恵まれたSF作家が渾身の努力をした場合、例え新人であっても受賞できる賞であって欲しいとも思っている。

だから、読者に覚悟と熟考を強いる集大成を差し出したくはなかったし、年月を重ねて実績を積んだ、精神の巨人の軌跡を推すことにもためらいがあった。しかし、選考会を通じて、少し考えが変わった。選考委員の評価は総じて高く、しかし委員によって評価するポイントが少しずつ異なっていたからだ。

どうやら評者の考えは、偏狭な杞憂であったらしい。本作は読者に響くのだ。きっと無辜の一般人?にも。だったら熟考を強いる集大成でもいいではないか。そう思い直して授賞に賛成した。

不明を恥じつつ、強く推薦する。

残月記

ほぼ全委員が推した受賞作であり、それにふさわしい。そう断った上で、講評と言うより感想を述べる。

困ったことに、評者は『そして月がふりかえる』が気に入ってしまった。いや別に困ることはないのだが、三部作?のうちの冒頭の一編に、タイトル作の『残月記』より心惹かれたので、ちょっと戸惑っているのだ。アイデンティティの喪失を経験し、妻や子供を相手に復元のためにジタバタする男の話は、古くは安部公房にもあるし、たぶんその作品に影響を受けた拙作もある。だから、『懐かしい』と言ってしまっても侮辱にはあたらないだろう。

だが、『そして月がふりかえる』は、懐かしいだけではなく文句なく新鮮でもある。月が振り返って裏側を見せるというイメージが美しく、作品に詩的な美しさを与えている。たぶん、詩的な美しさという面では、二編目の『月景石』が白眉だろう。ふりかえる月のように、いずれが裏でいずれが表かわからない二つの世界が、静謐かつ豊富なイメージで描かれる。

選考会では、構成の適否や三作の優劣については意見が割れた。しかし、評者にはこの本は、月を軸にしてそれぞれに完成した三つの世界を配置したことで損をしているように思えた。

『残月記』は、ダイナミックな構成で文句なく読ませる。人物描写も月鯨の造形も素晴らしい。しかし、先に『そして月がふりかえる』と『月景石』を読んでしまったせいで、世界からはみ出した月昂者の悲哀にも、どちらが裏でどちらが表かわからない二つの世界の往来にも、既読感がつきまとった。

もちろん、物語を重ねることで、奥行きが出て味わいが深まった面もある。しかし、意外性、新奇性の面で損な構成であると評者には感じられた。懐かしさが充分に強みを発揮しなかったようだ。

SFファンには『火の鳥』でお馴染みの我王(円空)や、主人公たちの境遇である剣闘士と勲婦の関係、疫病と隔離といった設定が陳腐であると言っているのではない。一党独裁によるディストピアという道具立てに手垢がついていると言うのでもない。

どんな物語も先人の仕事を引き継いでいるものだし、そもそも物語のバリエーションは限られている。本来、懐かしさは作品の否定要素ではなくて強みなのだ。

だが、評者は本書の構成に乗り切れないものを感じてしまった。

評者は、省略なく書き込まれた『残月記』を、必然のようでもあり、謎めいているようでもある『月景石』の世界を、『そして月はふりかえる』の主人公の生活と葛藤を、もっと読みたいのだ。

それぞれ単独で。じっくりと。私的な感想になったこと、伏してお詫びする。

地図と拳

文句なしの大作である。ページターナーと呼ぶにふさわしい抜群のエンターテインメント性。生き生きとした人物造形、張り巡らされた伏線が見事に収斂していく謎解きの快感。ダイナミックでありながら個人の顔を埋没させない歴史解釈。偶然と必然、善意と悪意、そして知恵と無知の絶妙な配分からくる圧倒的な納得感。評者は一番に推した。

まさにこの物語は建築であり、モニュメントであり、時間であると思った。

論点があるとすれば、本作は『SF』として評価できるかどうか、ということだろう。

正直に言えば、タイトルと『山田風太郎賞受賞』という帯の惹句から、孫悟空あたりが超人的な活躍をするのではないかと半ば期待した。その期待は、いい意味で裏切られた。確かに石炭の熱は孫悟空に力を与える。しかしその力は、移り行く歴史の中である時期必然的に生まれる『人』と『土地』の結びつきによるものであり、孫悟空だけが特別なのではない。時間にかかわる建築と、世界観である地図は、人の理想、あるいは夢を体現するという意味で等価であり、全ての登場人物が、それぞれの立場で世界に参画している。諸葛亮孔明に憧れ、不条理な暴力によって抹殺される一人の少年に至るまで。

千里眼を得ようとした孫悟空、未来を透視した細川、歴史の謎に挑む須田、環境を数値的に捉えることに執着する明男。自らの出生に係わる根源的な不正を正そうと巨大な敵と奮闘する丞琳。悲しみと諦念を抱えながら二度にわたって銃後を守り、子供を育てる慶子。

人々に地平線の先を示すために測量し、神の言葉を伝え、また地図に戻るクラスニコフ。彼ら彼女らはそれぞれが超人的に活躍する。いや彼ら彼女らだけではない。大東亜共栄圏の妄想に殉死する安井や、共産主義からの転向と裏切りによってストイックな生き方を選ばざるを得ない中川や石本、功利の視点から時代を動かそうとする横山、自らの臆病さを認める勇気を持ちながら戦死する髙木、みな懸命に、したたかに生きている。超人的と言えるほど。

登場人物が超人的な活躍をするからSFであると言いたいわけではない。評者のかねてからの自論はこうだ。『SFは文学のサブジャンルなのではない。文学がSFのサブジャンルなのだ』。もっと穏健な言い方に直せば、最も自由な思考法であるSFは、本質的にジャンル分けとは相いれない。

「これは、(SFではなく)歴史小説ではないか」という意見もあり得るとは思う。しかし評者には、どなたかがSF大賞候補作として本作を推したという事実だけで十分に思えた。壮大な構想と迫力あるストーリー、繊細で知的な筋道、人間と人間のぶつかり合いを心ゆくまで堪能した後で、ジャンルの定義を云々する必要があるだろうか。

世界を、歴史を、つまり構造と時間を人間の視点から描き、『地図と拳』に収斂させた作者の力業に、評者は紛れもないSFを感じる。

クラスニコフが描き続けた未完の『実物大の地図』は、少なくとも評者にとってはSFそのものだ。測量し、計測することが世界を変えるという量子力学の視点も組み込まれていると言えばうがちすぎだろうか。

しかし、書き込まれているだけに、もっと破天荒な展開を期待したという他の委員の見解にも、SF屋として首肯せざるを得なかった。自分の本音の中にも同じ期待を見つけてしまったから。

わたしたちの怪獣

『晒し』をきっかけに零落してDVを振るうようになった父親の殺害と言う現実的な非日常と、怪獣の出現と住民の避難、自衛隊出動という非現実的な日常を重ねたところが非常に面白かった。

報告書やラジオ放送といった情報の断片と、よく書き込まれた主人公の心情とが違和感なく組み合わせられていて効果を上げている。こうした構成はある意味危険な綱渡りであって、やりすぎると技巧をひけらかすだけに終わることもあるのだが、ストーリーを紡ぐための手法として活きている。作者の力量に疑問の余地はない。

自家用車の車種などの日常要素の細密な描写も、ストーリーテリングのための目的を持っていて、納得感を高めている。

などとテクニックの話にかまけているのは、評者がこの作品を気に入っていないからだろうか。

そうではない。非常に気に入った。

二重の異常事態にいきなり読者を投げ込んで、しかもその二つの異常を繋げて見せるという離れ業は、センス・オブ・ワンダーに満ちている。評者は大喜びでページをめくった。

ただ。作品のインパクトが、衝撃の大きさと納得感が、十分ではなかった。何も鬼面人を驚かせるガジェットを求めているわけではない。心境や人間関係のインパクトでもいいと思う。本作で言えば、例えば何となく存在感の薄い主人公の母親への、ストーリーの中での役割の与え方などでも。

正直に言う。今年は推さなかった。昨年評者は、この作者に嫉妬を感じると言った。身勝手な期待が大きすぎるだけなのかも知れないが、もっと度肝を抜かれるようなすごい作品を読みたい、その作品を大賞に推したい、という気持ちである。

選評 小谷真理

ああ、ジャンルSFは栄えてるなぁ! と安堵する傑作ばかりだったので、私は覚悟を決めた。例によって選考会に備え、滝に打たれたり、座禅組んだり、指輪を捨てたり(比喩です)の日々。そうでなければ、まともな議論もできそうにない。

久永実木彦「わたしたちの怪獣」は、ホラーの約束事を踏襲し非日常的な事件を扱った作品で、超自然現象と家庭の崩壊が連動する。その解決として、ポーの「盗まれた手紙」や笠井潔『群衆の悪魔』のような盲点原理を応用し、死体を隠すのに大災害現場へ赴くのだ。昨年の選考会でも話題になった『ゴジラS.P』のシナリオに目を開かれた特撮系を、上手に取り込んでいたところには好感を持った。ただその原因となったDV問題を扱うにあたって、主人公の少女だけではなく、一番被害にあったであろう母親の不在が少々気になった。昨年ノミネートされた『七十四秒の旋律と孤独』があまりにもきっちりと精密な内容だったので、まだこの先に深い何かが隠れているのではと思われた。

樋口恭介『異常論文』は、バカバカしさと真面目さを無理やり混ぜ合わせるSFならではの遊び心に満ちたアンソロジー。表題のアイディアを思いついた時点ですでに勝利は決まったも同然で、それを確信しているかのような監修者の前口上には、不遜な中にもどこか繊細な知性が見え隠れして、その洞察にワクワクした。収録二十三編は詰め込みすぎではと思うほど各々工夫があり読み応え充分。その一方で「異常」と「論文」の要素に合わせようとするあまり、かなり無理したんじゃないかと心配になる箇所も散見された。パロディとしては小川哲「SF作家の倒し方」が他の作品を引き離した絶品で、これ一本で決まりとすら思われたが、よくよく見ると、同じ作者の超ド級小説『地図と拳』もノミネートされているではないか。そこで、最新刊『君のクイズ』を含む三者を読み比べたところ、やはり「倒し方」がSF的に頭抜けていた。それでは『地図と拳』はどうなのか。

架空の島が書き込まれた古い地図の登場するこの話は、まさに今は架空の国家のように語られる満洲の架空の街を舞台に、一八九九年から一九五五年までの歴史を複数の視点人物を配置しながら描いている。その文章の素晴らしさと言ったら! 敗戦後の日本にとって語り得ないユートピア/ディストピアであった満洲は、第一長編からユートピアに拘泥してきた作者にとって必然的な主題だろう。そしてハンパない量の資料を駆使して浮き彫りにした架空の街のリアリティ。ただし、先行する満洲論の域をはみ出す突飛な印象は薄い。太平洋戦争を扱った架空戦記や昨年刊行されたデイヴ・ハッチンソン『ヨーロッパ・イン・オータム』のように、リアリスティックに歴史を扱いながらも、SF以外の何ものでもない仕掛けがあるわけでもない。最終地点に向かって、地面が割れて異次元が覗くような妙なことは起こらず、謎の人物・細川の正体が幻想的に暴かれることもない。むしろユートピアも幻想も押しつぶされ、苦い現実へと覚醒する。浮世離れした夢にロマンを求める気持ちと厳しい現実そのものにロマンを見る姿勢とのせめぎ合いのなかで、鋭角的な筆致は、奔放な想像力には禁欲的で、だからこそ、一般性を獲得でき、直木賞受賞に至ったのではないか。そしてそのあたりに、これが真性のSFなのかどうか、必ずしも判定し得ない理由が潜む。

さて厚さ四十五ミリ全六三八頁の重量感を誇る『地図と拳』に比して、厚さ五十二ミリ全八三一頁の荒巻義雄『SFする思考』は、エントリーでも『SFが読みたい!』「ベストSF国内篇」でも得票数の多かった人気の作品である。ふりかえってみると、二人の作家は第三十八回日本SF大賞で一度対戦した。だから今回は宿命の対決に見えた。作家だったら誰でも夢見るベテラン作家の端正なメタSF全集は、若き知性の『ゲームの王国』と争い、後者に軍杯が上がった。これが記憶に残っているのは、当時多くの後進に全集という夢を与えた編集の極致には特別賞も与えられず、訝しく感じたからだ。しかし巨匠(とあえていうが)はその後凹むことなく新たな長編小説『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』を上梓して、これもノミネートされたから、今度で三度目なのだ。長年にわたって培われた根強い人気や八十九歳というご高齢にもかかわらずまだまだ矍鑠とした筆力には恐れ入るしかない。ゆえに襟を正して精読したら、これが本当に驚くべき書物であった。「評論集」と副題に謳ってあるので、てっきりそのつもりで読んだら肩透かしを喰らわされたのだ。エッセイ、書評、論考に加え、実験小説や自伝も入っている。既存の評論書スタイルを完全に逸脱し、一切のカテゴライズをあらかじめバシッと拒否した大冊なのだ。

話題も評論だけではなく、ファンダム論、人生論、SF界裏話、新人のための創作技法から、今流行りの「SFプロトタイピング」にも通じるビジネスのマーケット論も入っている。一番驚いたのは、長く日本SF界のトラウマになっていた一九六九年のSFM覆面座談会事件をスパッと三行で撫で斬りにして見せたこと。それも単に感情論ではない。現代思想の視点から「印象批評にすぎなかった」と一刀両断にしたのである。

とはいえイントロの思想書読解はかなり大雑把。だが、SF者がいかに情報を使うかという現場報告として興味深い。感心したのは今まで書いたものを単に寄せ集めたのではなく、この本のコンセプトに合わせてかなり書き直している点だ。この作家はあちこち本をむさぼり齧りながら、若きアマチュアの時代に構想したSF論である「術の小説論」を半世紀の長きにわたって粘り強く検証しながら完成させたのである。その文体は本書で数回述べられているように、総刷り部数八百十九万一〇〇〇部を記録した作家でなければ不可能な、軽快で読みやすいものだった。何よりジャンルSFには不可欠と思われるポジティヴな姿勢が貫かれていた。それがこの作家を若く溌剌に見せている。現代ならばアンディ・ウィアーに通じる、好奇心に満ちた姿勢と度外れた創意工夫力の賜物なのだろう。そしてこれが時代を先取りしてきた秘密なのだろう。余談になるが昨年一九六〇年生まれの前掲ハッチンソンが二〇一四年に発表した『ヨーロッパ・イン・オータム』を読んでいて仰天した。かの作品は、一九八八年に刊行された荒巻義雄『聖シュテファン寺院の鐘の音は』と完全に通底していたのだ。時代を遥かに先取りする荒巻氏のオリジナリティを、八十年代に、一体誰が想像できたというのか。

評論家として言えば、「術の小説論」はすごく使えるSF論だった。恐ろしいことに、今回ノミネートされた作品全てを分析するのにも重宝するテクノロジーである。そう。それらすべてが「術の小説論」の構図にハマる。げんに『地図と拳』の中には、この「術の小説論」のコンセプトを登場人物の中川に語らせ吟味している部分がある(p.407, p.414)。当時の満洲の酷い状況の中でこのコンセプトを見失っていく様子が描かれるのだ。SF的な想像力の芽が摘まれ、満洲というユートピアが潰れていく様子は感慨深かった。読みようによってはリアリズムに押し潰される場面であり、大人の世界の苦さを知る一般読者には共感を呼ぶだろう。一方荒巻氏は、全く逆に、破天荒でも逸脱しても、あくまで強くSF的な技術を創意工夫した小説を書き、理論を探究し、ひたすら夢の構築力を探求しようとするし、本書で書かれているように、それを啓蒙しようとする。どちらが良いという話ではないが、現代を生きていくために『SFする思考』は必要だと私は考える。

と、流石にヘビーにして濃厚な読書の連続で、少々くたびれていた心に、小田雅久仁『残月記』は実に沁みた。収められた作品は、ローファンタジーとハイファンタジーとその狭間を行き交うお話と、幻想性の位置の異なる三作が並ぶ。特徴的なのは、とにかく潤いがあること。物語に癒されるとはまさにこういうことだと、しみじみ感動した。とはいえ、これは奇妙な体験でもある。なぜなら収録された話では、いずれも酷い運命ばかりが描かれていたからだ。特に第一話はあまりにも残酷で、あんな立場に立たされたらレゾンデートルを破壊されてしまいそうだ。そこに救いは全くないが、ただどこかそれを見つめる視点に優しさがあった。残酷なエピソードは全て清冽な暗く冷たい月の光に照らされているように描かれている。月の光は情景のおぞましさをいったんは覆い隠し、何か別の言葉で表現されるものに変えてしまう。そんな展開に慰められながら、自分は日常に疲れていたんだなと気がつく。こういう作品が書けるというのは、まさにSFが愛される理由を知っているからだと悟った次第である。

というわけで、選考会では、SF的な思考でリアリズムを超える可能性を探求した『SFする思考』と、心をいやす『残月記』の二作品を大賞に押した。

なお、鹿野司、津原泰水、八杉将司のお三方は、いずれも親しいSF仲間で、その才能が失われたことをまだ咀嚼できていない。功績賞を捧げながら、いずれ私も参加するであろうあの世のSF大会で、ジェンダー論争の続きをやりたいものだ。

最後に、今年の受賞者の皆さん、おめでとうございます。お見守りいただいた皆さんも、お疲れ様でした。

選評 斜線堂有紀

私の評価基準は自分の「面白い」に拠ることを先に申し上げておきます。今回の候補作はどれも面白く、選考がとても楽しかったです。選考に携われたことに感謝致します。

荒巻義雄『SFする思考 荒巻義雄評論集成』はまず大賞に推した作品でした。

正直なところ、ジャンル論や作家論は私自身がまだSFに対して造詣が深いとは言えないことと、取り上げられている作家を語れるほど知見があるわけではないことから、それらの部分での正確な評価は出来ていないと思います。ですが、それを抜きにしてもエッセイ部分がとても面白かったです。これはSFジャンルに明るくない私のような人間でも楽しめるものだと確信しました。特に有名なシュレディンガーの猫についての議論を発展させたものや、書斎論から未来を語るものなどが個人的に面白いと感じました。また、先程正確な評価が出来ないと申し上げたジャンル論や作家論に関しましても、読み物としての面白さについては深く理解することが出来ました。この本は沢山の要素が詰まっている一冊であり、どこを捲っても面白い名著なのです。

読み手を選ばない面白さを感じる一方で、その価格と厚さから、恐らくこの作品は手に取られる機会が少ない本なのではないかと思いました。正直なところを申し上げると、候補作として挙げられなければ、私も手に取ることはなかったでしょう。だからこそ、日本SF大賞を獲ることでこの本が脚光を浴びるきっかけになってほしいと考えた側面があります。

ある意味では後続の 『残月記』があったからこそ大賞に推挙出来た一作でした。この一冊のみが「小説」の枠からややはみ出ている為、同時受賞が叶うなら、と考えたのです。

先述の通り、小田雅久仁『残月記』もまた大賞に推した作品です。収録されている三編にはクオリティーのばらつきがありましたが、三編目の「残月記」が素晴らしく、また全編にわたって文章が極めて美しかったことから大賞に推しました。

表題作である「残月記」は月昂と呼ばれる不思議な病と、密やかに行われる剣闘士達の戦い、そして褒賞として与えられる女達を巡る物語です。一人の娼婦に惚れ込み、彼女への愛を胸に戦う剣闘士という、ある意味でとてもベタな筋立てですが、それを独特の作品世界と美しい文章によって唯一無二のものへと昇華していると感じました。

小説家は誰しも「この文章が書けたら死んでもいい」と思うような一文に焦がれるものだと思うのですが、この本にはそんな文章がいくつも立ち現れ息を呑みました。ずっと磨かれてきた言葉への感性が、月という幻想的なモチーフと結びついたことで生まれた傑作だと思っています。

小説家の目指すところというのはその作家にしか書けない世界を創造することだと考えているのですが、小田先生と同じ世界は誰にも書けないでしょう。

『異常論文』は、企画からとても大好きな作品です。SFアンソロジーの好きなところに、この祭りのような狂騒、筆一本で乗り込む大喜利感があります。面白いことを思いついたからみんなで遊ぼう! という提案にSF作家達が意気揚々と乗っていく様は、なんだか痛快さすら感じられました。そのムーブメントに対し、大賞を獲ってほしい気持ちがありました。もしこのムーブメントがSF大賞という形で評価されれば、同じような企画──祭りが活性化し、SF作家達の群雄割拠が見られるのではないかと期待したのです。多分、そういった場は負けず嫌いの作家達を奮い立たせ、傑作を生み出す土壌になるでしょう。何なら、その流れを期待する意味合いで大賞に推すことも考えました。

ですが、その企画の性質上(多数の作家が参加している関係上)提出された作品のクオリティーのバラつきは目立っている印象です。とても優れた作品とそうではない作品が混ざっている状態のものを、ムーブメントの熱のみで推すことは出来ないと考え、大賞には推しませんでした。

小川哲『地図と拳』は、候補作の中で一番のめり込んで読んだ一作でした。かなりのボリュームがありながら、一息で読ませるリーダビリティの高さとエンターテインメント性の高さは随一です。登場人物の魅力も高く、あれだけの人数が登場しながら全ての人がすんなり把握出来ることも筆力の高さの証明だと感じました。

一方で、これは日本SF大賞として強く推すべき作品なのだろうかと疑問を抱いたのも確かです。「ジャンルSFを評価する」というのが、私の考える日本SF大賞の賞としての意義と特色であるので、その点で『地図と拳』は日本SF大賞として評価する作品ではないと思いました。勿論、地図を通じた一種の未来予知や孫悟空が用いる不思議な力など、この作品がSFとされた理由は理解した上での判断です。しかし、この小説の完成度の高さは、それらの評価基準を超えたものであるとも感じられたので、最後まで悩みましたが、強く大賞には推しませんでした。

余談ですが「満州小説」においては、他にも優れた作品が存在しています。特に前年に刊行された伊吹亜門『幻月と探偵』もこの作品に引けを取らない優れた満州小説であったことを、ここに明記しておきます。

久永実木彦「わたしたちの怪獣」は、まずそのアイデアが好きでした。父親の死体を怪獣の現れた東京に持って行ってうやむやにしてしまおうとする、というあらすじだけで読者を引き込む魅力があります。スケールの大きな奇想と、その条件下で実現可能な死体遺棄の生々しい現実感がとても面白いと感じました。これは久永先生にしか書けない作品であると思います。この作品を含む短篇集が刊行されたら、きっと更に話題になるだろう──もしかすると、ベストセラーになるかもしれないと感じました。

奇想に惹かれた一方で、この物語における「罪」の処理には釈然としないものがありました。この物語では最後に「怪獣に喰われた父親が実は生きていたのではないか」という描写を入れることで、妹から殺人の罪を除いてしまいます。「怪獣の元へ死体を捨てに行く」というプロットを成立させる為に登場人物に殺人と死体遺棄という重い罪を背負わせつつ、最後はその罪を除いて締めるというのは、あまり好みの結末ではありませんでした。しかも、その罪を除くという手順に対し「本当のところはどちらかわからない」とつかさに敢えて言わせ、確信を持たせないことで、メタ的に二重の罪を除いているように感じられてしまいました。人間の強い意志によって動いた魅力的な物語だからこそ、結末でもはっきりとつかさとあゆむの『背負う』意思を見せてもらいたかったというのが私の感想です。

選評は以上になります。素晴らしい候補作に触れ、身が引き締まる思いでした。実作者としては、どうにかして私も日本SF大賞が欲しいものです。

選評 立原透耶

以下、著者名あいうえお順で記したい。

荒巻義雄『SFする思考 荒巻義雄評論集成』(小鳥遊書房)

まさにSFをどのように考えてきたか、何を持ってSFとするのか、といった思索的なものから、実践的な書評や創作まで「なんでもあり」の一冊である。本書は後世に伝えるべきものであり、特に若い人々に読んでもらいたいと強く感じた。長大な本ではあるがさまざまな要素がふくまれているため、どこかの章で誰かに刺さるのだろうと思う。個人的には、本来は過去二回の最終候補になった時に、SF大賞を贈賞すべきだったのではないか。本書での受賞は遅すぎたきらいがある。

審査員の評価も概ね大賞に推すものが多く、安定しての受賞である。九十歳での受賞は、我々多くの人間に夢と希望を与えたといえよう。今後ますますのご活躍をお祈りする次第である。

小川哲『地図と拳』(集英社)

個人的には二番目に推していた作品である。中国のことに興味のある人間ならば夢中になるであろう。計算され尽くされた構成、伏線、どれをとっても見事である。地図が科学なら、拳は人間である。これはSFとして読むことができると感じた。しかしやや残念なことに、ふりがなのピンインに間違いがあったり(例えば「水滸伝」はシュイフーチュワンが正しいが、なぜかシュイシューチュワンになっていた。)、中国語のセリフに不自然さが感じられたりした点が気になってしまった。できればネイティブチェックを受けて欲しかったと思う。またラストがとことん現実寄りに収束しており、その点でこの小説は「SFに偏ったものではない」ということが伝わってきて、SF大賞に推していいのか戸惑ったのも事実である。

小田雅久仁『残月記』(双葉社)

非常に美しい文章で大変読み応えがあった。SFと言えるのはタイトル作品であるが、残りの二作品も魅力的だった。「残月記」は完全なSFで、皮肉も効きながら、切なく美しい展開が魅力的で、二作目のファンタジーも素晴らしく幻想的で魅せられた。とにかく表現が美しく、幻想であれSFであれ、情景が目の前に浮かんでくるほど、言霊の力に溢れていた。審査員のほとんどが大賞に推しており、納得できる結果となった。

樋口恭介『異常論文』(早川書房)

コンセプトは大変興味深く、高く評価する審査員もいた。非常に面白い作品から、どこが論文なの? という論文としての体裁を保っていない作品や、どこが異常なの? という作品など、まさに玉石混交であると感じた。論文なのに引用が全くないとか、まずは「論文」としての体裁を整えるべきではなかったか。もしくは小説としてみるならば、論文の看板は外したほうが良かったのではないか……などと思い悩んだ。中にはとてつもなく素晴らしい作品もあり、これらを個別に評価できれば! とさえ思った。審査員からは割と好意的な意見もあったが、「論文ではない」というある審査員の断言により、最終的な票が決まったように思う

久永実木彦「わたしたちの怪獣」(「紙魚の手帖」東京創元社)

短編での候補作品ということで大変期待して読ませていただいた。読みやすく、また長女の心理描写、怪獣の地に父親の死骸を捨てに行くというアイデア、どれをとってもよく描かれていた。しかし母親が不在なのである。子供達を置いていった理由もなく、なんら解決せずになし崩し的に子供達と暮らしを再開するところに、この母親のアイデンティティはどこにいったのかと、何度か読み直してしまった。

非常にコンパクトにまとまっており、全体としては質が高い。しかしこうなるとわがままな希望がむくむくと頭をもたげてくる。ぜひ短編集、もしくは長編で読みたい、それで賞候補になって再度まみえたいと思ってしまうのは、選者としての勝手な期待なのかもしれない。しかし近いうちにきっとこの期待をはるかに超える作品を提げてきてくれるものと信じている。他の選評委員も「次に期待」というのが圧倒的に多かった作品である。