パネル発表「世界内戦と現代文学―創作と批評の交錯―」(日本近代文学会・2014年度秋季大会)
終了しました 2014年10月19日(日) | 広島大学 東広島キャンパス
日本近代文学の専門家らと、SFの最前線で活躍する作家たちが対話を重ねます。
読書の秋に、現代文学についての思索も深めませんか?
広島大学・東広島キャンパスにて日本近代文学会・2014年度秋季大会が開催されます。10月19日には、岡和田晃会員、樺山三英会員が登壇するパネル発表がありますので、どうぞお運び下さいませ。
イベント詳細
- 名称:パネル発表「世界内戦と現代文学―創作と批評の交錯―」
- 日時:2014年10月19日(日) 午後2時~4時半
- 登壇者:柳瀬善治・岡和田晃・仁木稔・樺山三英・押野武志
- 会場:広島大学 東広島キャンパス 法学部・経済学部棟 第3会場 B157教室[会場までの地図:PDF]
- 参加費:無料
当日、学会受付までお越しください。学会員でない方でも聴講自由です。 - 主催者:日本近代文学会
- 関連リンク:日本近代文学会 2014年度秋季大会・日程(http://amjls.web.fc2.com/gakkai.html#2014-10)
日本近代文学会・運営委員会・事務局
〒101-0032 東京都千代田区岩本町1-1-6 井上ビル6F B号室kindaiiin2014[[at]]gmail.com
イベント概要
本パネルは、「世界内戦と現代文学」と題し、「世界内戦」の問題が現代の批評と創作の双方の現場でどのように考察また表象されているのかを議論していく。「世界内戦」とは、カール・シュミットの著作に由来する用語で、「内戦」=「組織化された単位内部の武装闘争」(『政治的なものの概念』)が全世界化したものと定義されるが、笠井潔は「世界内戦」をベンヤミンの神的暴力―「自然状態=戦争状態の始原的暴力」(『例外社会』)と接続したうえで、二〇世紀以降を世界のあらゆる地点で「始原的暴力」が恒常化した状況としてとらえ、文化・社会領域全般の問題へと拡張した。
湾岸戦争以降の様々な「戦争」のありかたが、90年代以降の日本文学においてどのように表象がなされてきたかについては、すでに文芸評論家の陣野俊史の一連の検討(『戦争へ、文学へ』)があり、また、夭折したSF作家伊藤計劃と彼の死後に若きSF作家によって描かれた様々な「世界内戦」についても、岡和田晃が『「世界内戦」とわずかな希望』で詳細に分析を行っている。
この「世界内戦」という問いの重要性は柳瀬善治も三島由紀夫研究の中で提起してきたが、二〇一四年現在、この問いはより批評の現場でも創作の現場でもリアルなものとして浮上してきたと言える。
まず、柳瀬善治が自身の三島研究および原爆文学研究をふまえ、「三島以後」の文学状況をも概観しながら、問題提起と理論的整理を行う。具体的に述べれば、それは「世界を徹底的にフラット化していく高度情報化社会と高度資本主義下での小説の(不)可能性」が「世界内戦」の表象とどのように接続するのかという問い、および、(核がもたらす)人間の認識能力を超えた巨大な時間を、そして放射能や薬物テロといった「表象不可能な」題材をどのように表象するのかという問いである。これらの問題を「世界内戦」を主題とした作品がどのように処理しているのかを検討する。
SF評論家である岡和田晃は、自著の議論を受け、伊藤計劃の仕事と彼と問いを共有する書き手に焦点を当てて報告を行う。それは、柳瀬の報告とも共通するが、グローバリゼーションとネオリベラリズムに席捲された二十一世紀において、いかにして文学のアクチュアリティを確保できるのかという切実な問題の共有といってよい。伊藤は、それに加え、激変する情報環境および生政治の変容についてのヴィジョンを作品内で明確に提示し、世界で多発するテロや紛争と現代の離人症的な精神性を結びつけ、現在の世界の相=「世界内戦」に応答するための方法を提示してみせた作家である。この伊藤の問いを共有する二人の書き手、批評的なアプローチを導入することで世界文学をラディカルに問いなおす樺山三英と、東洋史学とラテンアメリカ文学の蓄積を縦横に用い、認知科学や文化人類学などの知見も取り込んで未来史構築を行なう仁木稔、彼らの作品がいかなるパースペクティヴに置かれているのかを長谷敏司、岡田剛、八杉将司といった作家の仕事とも絡めて問い直す。
仁木稔は、『グアルディア』から一貫して、「時代を経ても変わらない人間性、暴力や愚行を為す人間の心性の根源」を描いてきたが、本報告では、SFの持つ「ユートピア(ディストピア)表象」の機能、つまり「現実を(捩れをはらんで)映し出す」機能に着目し、それをより根源的な人間の本質の投影にまで拡張する可能性を探る。それは、「世界で暴力、愚行がなぜ行われるのか」という根源的な原因を探るため、いいかえれば恒常化した「始原的暴力」をどのように表象しうるのかを問うためである。
樺山三英は、九〇年代以降の日本文学が扱ってきた「世界内戦」の主題を中心に報告する。具体的にはSFや伝奇小説、架空戦記といったジャンルフィクションと主流文学の技法が結合した例として、『石の来歴』『五分後の世界』『あじゃぱん』『戦争の法』『インディヴィジュアル・プロジェクション』『ねじまき鳥クロニクル』といった作品を扱う。そこでこれらの作品が、歴史改変の問題を扱っているのと同時に、「世界内戦」を表象することが語り手の自己意識の分裂(それは「世界内戦」を記述する「私」とは何かという人称への問いをも誘発する)を呼び寄せることに着目する。さらに九〇年代の問いを継承したものとしてゼロ年代前半の「セカイ系」的想像力を位置づけ、そこから自身の作品をも含むゼロ年代後半の「世界内戦」を描いた作品への系譜をたどる。
最終的に浮かび上がるのは、「いつ果てることもない悲惨、それはある種平衡状態であり、クライマックスもカタルシスもない」(仁木稔『ミカイールの階梯』)「世界内戦」の中で、「生き延びていく個のありよう」(樺山)「わずかな希望」(岡和田)とは何かという問いである。
全体へのコメントは押野武志が担当する。