第37回日本SF大賞 選考経過 選評

2017年5月10日公開 | 2017年4月21日・贈賞式会場にて配布された冊子より

第37回日本SF大賞選考経過

渡邊利道

第37回日本SF大賞の選考会は、日下三蔵、高野史緒、飛浩隆、長谷敏司、牧眞司の全選考委員出席のもと、2017年2月25日に行われた。運営委員会からは司会として藤井太洋会長、オブザーバーとしてYOUCHAN事務局長、記録係として渡邊利道の三名が出席した。

まず選考委員それぞれに大賞に推したい作品を推してもらったところ、『WOMBS』が二人、『君の名は。』が一人、『ドン・キホーテの消息』が一人と評価がわかれるかたちになった。また「積極的に推すわけではないが受賞に反対しない」作品として、三人が『シン・ゴジラ』を、二人が『WOMBS』と『大きな鳥にさらわれないよう』を、一人が『君の名は。』をあげた。また『シン・ゴジラ』に特別賞を、という選考委員もいた。
 評価が別れたことで個別の作品についての議論は非常に白熱した。

『〈物語る脳〉の世界』に関しては、荒巻作品の紹介や、「スキゾ分析」という理論の紹介は非常に面白いが、肝腎の作品の分析にいまひとつ力が足りないとする意見が多かった。

『君の名は。』では現実部分でのリアリティの構築に問題があったのではないかという批判と、作品としてそれは問題にしなくてもいい構造になっている、という応答があったが、批判者を推薦者が説得することは難しかった。

『ドン・キホーテの消息』は、寓話的メタフィクションとして、既存の類似する作品を圧倒するまでの強度には達していないのではないか、著者のポテンシャルが最高に発揮された作品ではないのではないか、という批判に対し、推薦者はとくに後者について認めざるをえないとした。

『大きな鳥にさらわれないよう』でも、ラストの数章でそれまでの寓話的世界をハードSF的に解明する「種明かし」のような構成に難がある、表現が淡白で「母」という類似したテーマを扱っている『WOMBS』と比較して物足りなさを感じる、という批判に対し、推薦者が同意する部分があると認めた。

『WOMBS』については、漫画表現として技術的に未熟な部分が目立つのではないか、という批判があったが、戦場や妊婦などの作品のテーマにかんがみて、技術的な未熟はむしろリアリティや迫力を与えている、という意見に批判者が理解を示し、結果、全員一致でSF大賞受賞が決定した。

『シン・ゴジラ』は、後半の物語の展開がやや御都合主義なのではないか、また作品のカタルシスをもたらしているのが、戦後の日本社会のトラウマに支えられた内向きの情念なのではないか、という批判があった。しかし、映画としての絵的な魅力が圧倒的であるということは批判者も認めるところであり、長い議論の末、特別賞に決定した。

第37回日本SF大賞 選評

選評日下三蔵

今年の最終候補作が出そろった後で、少なからぬ人に「小説、マンガ、評論、映画を同じ土俵で評価するのは大変ではないですか?」、あるいはもっとハッキリ「無理ではないですか?」と訊かれた。
 しかし、例えメディアがちがっていても、「物語(フィクション)」である以上、アイデアの独創性、叙述上の技巧や工夫、最終的な完成度、作品に込められた熱気、などを総合的に判断することに変わりはない。その点での不安は感じなかった。
 その意味ではフィクションではない評論だけが毛色がちがうと言えば言えるが、「アイデアの独創性」を「対象となる人物や作品に対するアプローチの独創性」と言い換えれば、あとはフィクションと同じ基準で評価ができるはずだ。
 全候補作を通読、観覧しての感想は、「面白い作品ばかりだなあ」であった。巧まずして候補作の間にテーマや雰囲気が通底するものがあったのも興味深かった。だから「面白い作品である」ことは前提としたうえで、「SFとして」どう評価するか、に軸を絞って検討を続けた。
 その結果、A(=積極的に受賞に賛成する)、B(=他の委員の評価が高ければ受賞に反対しない)、C(=受賞に賛成しない)の三群に二作ずつを分類して選考会に臨んだ。評価の高い順に、A『ドン・キホーテの消息』『WOMBS』、B『大きな鳥にさらわれないよう』『シン・ゴジラ』、C『君の名は。』『〈物語る脳〉の世界―ドゥルーズ/ガタリのスキゾ分析から荒巻義雄を読む』である。

樺山三英は現代のSF作家の中でも、もっとも重要な一人だと思うが、いかんせん寡作である。もちろん、書き飛ばさないからこそ質の高い作品を産み出せているわけでもあるので、今後も自分のペースは崩さないで欲しいのだが、選考委員としては数少ない授賞の機会を逃したくないと思った。
 私見では樺山作品の表のベストは『ゴースト・オブ・ユートピア』、裏のベストは『ハムレット・シンドローム』だと思う。『ドン・キホーテの消息』は『ハムレット・シンドローム』と同じく探偵小説の枠組みを援用しながら、「騎士」と「群衆」を対比させる形で現代社会の問題点をも取り込み、特異な幻想SFとして軽やかに成立している。面白いことは前述したように当然として、何より読みやすい。
 日本SF大賞は神林長平『言壺』のように、SFとしては高度で濃密なアイデアが詰まっているが、小説としてはそうとう難解な作品に授賞した例がある。SF大賞の主旨からすると、それはまったく正しいのだが、受賞作からSFの世界に入ってくる読者がいることを考えると、読みやすくて面白いのに越したことはない。
 その点、『ドン・キホーテの消息』はうってつけの作品であろうと思い、第一位に推したが、他の委員から『ゴースト・オブ・ユートピア』の方が作品としては上だった、といわれて、それ以上は抗弁することができなかった。こればかりはめぐり合わせとしか言いようがないが、樺山さんのレベルで作品を書き続けていれば、そう遠くない将来の受賞は充分に有り得ると思っている。

白井弓子『WOMBS』は、今回、初めて読んだ。大森望さんと編纂している創元SF文庫の〈年刊日本SF傑作選〉シリーズに短篇「成人式」をいただいたことがあり、骨太かつ繊細なSFマンガの描き手であることは承知していたし、「月刊IKKI」で新連載を始めたことも認識していたのだが、完結してから単行本で読もうと思っていたのだ。
 そのため、連載が打ち切られ、描き下ろし単行本として続きが刊行され、昨年完結していたことにも気が付かなかった。アンテナの感度が鈍ったことを恥じるとともに、エントリーでこの作品を推薦してくださった方々に感謝したい。
 ある惑星への第一次移民と第二次移民との戦争、という枠組みだけならば、それほどの独創性は感じなかったと思うが、空間転移できる現住生物の細胞を子宮で育てることでその能力を使えるようになった女性たちの部隊が戦う、というメイン・アイデアには度肝を抜かれた。
 こういう能力があったら戦闘のあり方はどうなるか、社会のあり方はどうなるか、微に入り細を穿って設定が考えられている。しかも、作者はその設定を慌てて説明しようとはせず、緊迫感と閉塞感に満ちたドラマの中で、自然に読者に伝わるように描いている。これは凄いことだ。
 妊娠とは胎内で「異物」を育てることなんだ、という普段なかなか意識しない事実を起爆剤としてノンストップで疾走した物語は、ファーストコンタクトテーマすら内包し、戦闘の終結までを描いてキレイに閉じる。この一作に込められたアイデアの量と物語が孕む熱量の両面から、日本SF大賞を贈るにふさわしい作品であると考えます。

川上弘美は芥川賞をはじめとして数多くの文学賞を受賞しているし、世間的には純文学作家とみなされているだろう。少なくともエンターテインメント作家とは思われていないはずだ。
 だが、その原点は「季刊NW-SF」であり、SFサイドからは常に気になる存在であった。
 前述の〈年刊日本SF傑作選〉に短篇「神様2011」をいただいたこともあるくらいで、決してSFを捨てて純文学に転身した作家という訳ではない。そういうジャンルの区分にあまり意味はないし、そもそも、SFと純文学は別に対立する概念ではないのだ。
 そんな川上さんの『大きな鳥にさらわれないよう』は、抜群のテクニックを駆使して紡がれた本格SFであった。技巧という点で見れば、今回の候補作の中でのトップは、この作品だろう。
 人間が工場で作られるようになった未来で、新しく出来た子供を育てる「母」は、どういう役割を担うのか。そして、どうしてこういう世界ができたのか、という謎が、短いエピソードをいくつも積み重ねて解き明かされていく。
 ほとんどショート・ショートに近いような上質の短篇による連作であること、提示される未来史が非常に長いスパンであることから、この作品の帯に推薦文を寄せている筒井康隆の『旅のラゴス』を連想した。「母」とは何か、が主要テーマになっているのは『WOMBS』とも共鳴しているし、未来社会における親と子の関係性を描いた作品として、新井素子『チグリスとユーフラテス』を想起する人もいるかもしれない。
 冒頭のエピソードを読むと、この作品自体がひとつの未来史を「神話」として描いていることが分かる。作中でSF的な設定が説明されてしまうのが興ざめ、という委員もいたが、逆に現実社会と接続されることで、いっそう神話性が強調されているように思う。

『シン・ゴジラ』については、公開後に巻き起こった数々の社会現象まで含めて評価すべきだ、という意見もあった。なるほど、あの反応はたしかに興味深いものではあったが、とりあえずは作品自体の内容を評価したい。
 まず、誰もが指摘するように、〈ゴジラ〉シリーズを久しぶりにリメイクするに当ってこの映画が取った方法は、「ゴジラのいない世界」を舞台にすること、であった。六十年以上にわたって二十八作品が作られてきた「ゴジラ」は、いまや国民的なキャラクターになっているが、それをいったん白紙にもどすというのは、極めて独創的なアイデアである。コロンブスの卵的なシンプルな発想ではあるが、大英断と言っていい。
 結果として観客は、圧倒的な力を持つ未知の怪物に日本が蹂躙される様子を見ることになる。
 これは一九五四年に最初の『ゴジラ』が公開された時の観客が感じた恐怖を追体験することであり、真の意味でのリメイクが、ここになされた。
 五四年の観客が感じた核の恐怖が原水爆のものだったのに対して、『シン・ゴジラ』の観客は、東日本大震災に伴う原発事故を思い出すことになる。「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)。」というキャッチコピーに偽りなしの、見事な対応のさせ方である。
 作中でゴジラが暴れ出してからの展開は、怪獣映画の定石をきちんと踏まえており、特撮ファンでよかったと何度も思わされた。ゴジラをめぐって日本が核攻撃の危機に晒される、という終盤の構図もいい。新作の怪獣映画としては、文句のつけようがない作品であった。
 SF作品としてみた場合、ゴジラがいったん活動を停止する際の設定が、人間がゴジラを倒すために逆算して作られたように見えるのが気になった。とは言え瑕瑾(かきん)とも言えないような僅かな粗であり、受賞に反対するつもりはなかった。
 選考会では授賞はするとして、正賞か特別賞かで意見が別れた。私は正賞でいいと思ったが、最初に述べた「公開後に起こった現象」まで含めて評価するとなると、特別賞とすることにも異存はなかった。

『君の名は。』は、二〇一七年三月現在の時点で歴代邦画の第二位という興行成績を叩き出しているミラクル・ヒット作品である。第一作『ほしのこえ』以来、新海誠監督が繰り返し描いてきた「時間的・空間的な距離に隔てられた男女の物語」というモチーフが洗練されて、ついに世界的に評価される作品が産み出されたことは感慨深い。
 男女の入れ替わりテーマ、大きな災害に立ち向かうディザスターテーマ、並行世界テーマなど、個々の要素はSFとしては、むしろありふれたものばかりだが、それらを巧みに組み合わせ、ジュブナイルもののテイストでまとめ上げることで、多くの観客の心に届く青春映画になっている。
 『シン・ゴジラ』もそうだが、『君の名は。』も画面やセリフの情報量が多く、そのことが劇場に何度も足を運ぶリピーターを増やしたと思われる。そして、おそらく『君の名は。』を熱心に観た人の多くは、この作品がSFであるということなど、考えてもいないのではないだろうか。それは、いわゆる「SFの浸透と拡散」が極限まで達成された証でもある。
 この作品はある一点を境に、これまで見えていた世界が様相を一変させる。つまり、前半と後半の二部構成のようなストーリーになっているのだ。当初、SFとしては後半部分の複雑な並行世界の処理に、何らかの誤魔化しがあるように思い、人物のチャートを作って検証してみた。広瀬正「『時の門』を開く」ほど複雑ではないにせよ、決して単純とはいえないストーリーは、ひとつの時間線が消えているのを除けば、かなり際どくすべてが繋がることが分かった。
 そのチャートは作中で印象的に登場する組紐のようでもあり、細部まで考え抜かれた作品であることは間違いない。そうなると惜しいのは、前半部分の「映像による叙述トリック」を成立させるために、重要な情報を作中から意図的に排除している点だ。この部分がフェアに処理されていたら、ためらわずに大賞に推せていたと思う。もちろんひとつの作品としてSFなりミステリといったジャンルの文法に縛られる必要はまったく無いので、これが無いものねだりであることは充分に承知しています。

藤元登四郎『〈物語る脳〉の世界―ドゥルーズ/ガタリのスキゾ分析から荒巻義雄を読む』も、ある意味で二部構成を取った本と言っていい。つまり各章ごとに、対象となる荒巻作品の概要が簡潔に語られ、しかる後にタイトルにもある「スキゾ分析」によって作品が論じられていく。
 この前段の内容紹介部分は、とても面白い。単にあらすじを述べるだけでなく、作者の経歴や発表当時のSF界の状況にも目配りされており、上質な作家ガイド、ブックガイドになっている。これだけ分かりやすく解説できるということは、藤元さんが荒巻作品を読み込んで、よく咀嚼している証拠である。
 私は優れたブックガイドは同時に優れた作家論になるはずだと思っているので、その意味でこの本に価値があることは認める。しかし、評論書としてはメインであるはずの後段、肝心の「スキゾ分析」の部分になると、途端に精彩を欠くのには参った。
 文芸評論の価値をどこに置くかは人それぞれだと思うが、私は「普通の読者が思ってもみなかった意外な読み方」あるいは「知りようがなかった意外な事実」を提示すること、に重点を置きたい。評論自体が分かりやすく、面白く書かれていればなお良い。この条件を満たす理想の評論は、例えばミステリにおいては瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』であり、SFにおいては横田順彌『日本SFこてん古典』である。
 過去に日本SF大賞を受賞した評論書を振り返ってみると、少なくとも「意外な読み方」「意外な事実」の提示については、どの作品も楽々とクリアしていることが分かる。
 今回、『〈物語る脳〉の世界―ドゥルーズ/ガタリのスキゾ分析から荒巻義雄を読む』で示されたのが藤元さんによる荒巻作品の「読み方」であることは間違いないが、「意外性を感じさせるほどの説得力」を持つ域には、達していないと言わざるをえない。もっともこれは当たり前で、藤元さん自身が本書の分析は、自分が「自由に行った」ものであり、「謎解きのような解釈」をするものではない、と断っているのだ。であるならば、これは藤元さんの読み方に共鳴できるかどうかという「感性」の領域になってくるだろう。

日本SF大賞は「受賞した作品の価値」を顕彰するものであって、「受賞しなかった作品の価値」を否定するものではない。文学賞は時間が経てば受賞作だけが残り、候補作は忘れられていくのが通例だが、少なくともSFに関心のある読者は単に受賞作のみではなく、その他の候補作、さらにはエントリーされた多くの作品にも、ぜひ目を向けていただきたいと思っている。

選評高野史緒

今回は票が割れて有力作品が候補に残らない等の番狂わせがあったと聞くが、SF大賞には候補作非公開の時代から何度か煮え湯を飲まされた身としては、それもまた「評価」として甘んじるべしとしか言いようがない。いずれにせよ蓋を開けてみれば、他にどんな候補があっても大賞たるべき作品を選ぶことができたのではないかと思っている。
 私は選考会には『WOMBS』一択、次点で『シン・ゴジラ』という姿勢で挑んだ。個人的好みだけでいえば、『シン・ゴジラ』がダントツで好きだ。個人のドラマを極力排したことによって、まさしく「現実 対 虚構。」という「事態」を主役に据えている。アートワークや音楽、レトロ怪獣映画のテイスト、皆で分かち合えるネタやツッコミ所等、小説でも漫画でもなくまさに映画ならではの面白さ、SFならではのシーンやアイディアに満ち満ちている。ただしSFとしての評価どころはすでにファースト・ゴジラや既存の庵野作品の中にあるので、これを『WOMBS』と同列に大賞として評価するか否かについては保留をつけた。
 映画としては『君の名は。』も幾度か見に行くほど楽しんだ。誰もが持つ「いつも何かを探している感じ」に美しい映像や若々しいロマンスという形で寄り添った名作である。タイムパラドックス等フィクション部分のことは問題にはならないが、移動時間のおかしさや入れ替わっている時に何故時間軸のずれに気づかないのか等、フィクションを支えるべき現実部分のご都合主義は看過しがたい。作品世界に対する作り手の裏切りである。そこを克服してこそSFはSFとして起(た)つのだ。次回作以降に期待したい。
『大きな鳥にさらわれないよう』も、作品として楽しんだが大賞には推し難かった。一気読みして人と議論するタイプの小説ではなく、一章ずつ日にちをかけて一人で味わいたい作品だ。そうであるだけに、最後の二章で急にハードSF展開を突っ込んできたのは残念だった。全てを知る存在の一人称語りという最も安易な形で一気に種明かしをするなど、まるで打ち切り漫画である。伏線も回収しきれているとは言えない。この著者の筆力を以てすれば、このような事態は避けられたはずだ。何故力を使ってあげなかったのか。ここにも作者による作品への裏切りがある。無念極まりない。
『ドン・キホーテの消息』は、冷静で静謐な文体とワイドスクリーン・バロックの展開、教養志向が互いを生かし合っていない。これが中編で濃密に成し遂げられていたら私は称賛しただろう。しかし今回、著者は己れの語り口に淫し、余分なページを重ねてしまった。我慢しきれず自分から「不在の騎士」だの「メタフィクション」だのと口走ったり、注釈で種明かしするような弱さはぜひ克服してほしい。最終的には、入門書レベルの教養の浅瀬でうろうろするのをやめてドン・キホーテよろしく知の深淵に突っ込んでいってほしい。最終章の「わたし」は本編とは別個の生命を持った傑作。
『〈物語る脳〉の世界―ドゥルーズ/ガタリのスキゾ分析から荒巻義雄を読む』はまだ発表の段階ではない。何らかの結論どころか、未だ知のマッピングにも到達していない。古典的心理学を論敵としつつもユングの最もオカルト的な論を無批判で論拠としている点ももっと納得させてほしいし、評伝部分のセンテンスの大半が「だった」「た」で止められ稚拙な印象を与えるところも推敲不足を感じさせる。著者が優れた知識人であるだけに、この段階での公開は大変に残念である。
 今回大賞として推した『WOMBS』は、マンガとしては難点も多いとは思うが、それを差し引いても傑作である。戦場と妊婦という対極のものとして語られる両者を結び付ける衝撃的なアイディア、SFならではの設定も綿密、徹底して女の感覚と生理の側から描かれているにも関わらずフェミニズム臭くないのも、男たちが「男の沽券(こけん)」を失っていない人物造形もいい。
 発表に当たっては様々な困難があったと聞くが(読後に知ったことなので、感想に影響はない)、それでも当初の設計を最後まで全うした点も評価したい。萌えにもキャラ立ちにも頼らない人間ドラマは商業的には苦戦するかもしれないが、これからも「SFを読む楽しみ」を追求していってほしい。

選評浩隆

『WOMBS』『シン・ゴジラ』『君の名は。』が横一線、僅差で『大きな鳥にさらわれないよう』、同じく『ドン・キホーテの消息』、この五作のどれが大賞でも反対しない、正賞は一作に絞りたい、というところまで意見を固めて選考会に臨んだ。結果、希望が叶い安堵している。
 藤元登四郎『〈物語る脳〉の世界』は、ドゥルーズ/ガタリのタームをつかい荒巻義雄作品を縦横に読むというもの。文章は平明、論述は平易で妥当。意欲と愉悦に満ちた大作だが、その上で次の点を指摘したい。著者は第一部第一章で、荒巻とドゥルーズ/ガタリが「同じ地層に生活した」と述べる。巻末で解説者が補強するとおり、実は藤元も同じ地層に属す。そして第二部第三章、著者は「この地層のなかにあると言葉や物はその地層と一体化しているので、物事を一つの方向からしか見ることができない」「周縁にあるものや別な地層にあるものを見ることができない」と記す。なんのことはない。本書は自らの限界を書中で明らかにしている。ひとつの地層に安住するならば、どれだけ連想の根茎をのばそうが「スキゾ」とは名乗れまい。私には、著者の身を切り裂くような覚悟(それは他の五作がそなえているものだ)が最後まで読み取れなかった。表紙にあしらわれた両手は藤元自身の右手と左手に過ぎず、それはこの大著を支配する退屈のまことにみごとな表徴となりえている。
 樺山三英『ドン・キホーテの消息』は、「現代の騎士」たる私立探偵が語る章と、虚空から甦った騎士を語る章を交互に配置し、わくわくするようなミステリ風の物語として始まりながら、やがて不穏と暴力がとめどなく拡大し、ついには戦慄的で啓示的なビジョンに達する。ドン・キホーテを出発点として現代の様々な問題系に触れぬきつつ、文学的冒険とリーダビリティの間にある細い回路を見事に渡り切った。古典を題に採った世界文学の多彩な成果と比べてどこまで突出できたか、この面白さはSFというより主流文学のそれではないか、などの留保が付き受賞とはならなかったが、べらぼうに面白いことは請け合う。作者のポテンシャルを熱烈に支持する委員が多数いたことも言い添えておきたい。
 技術的に(超絶的に)卓越していたのは、川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』。数千年あるいはそれ以上の年月に及ぶ事象を扱いながら、読んでいる間は広い世界のあちこちで同時に起こっている出来事であるように思われてくる。この無時間の感覚は、円熟の極みのような文体とともに、本書の中核をなすSFアイディアとその巧緻な活用(何千年にもわたって代を重ねるクローンが同じ名を名乗る、など)にも依っている点で、SFの洗練をきわめたものと感じた。無時間の感覚は、最高レベルの破滅SF特有のものだが、この感覚を念頭に最後の二段落を読むときの異様な感動は本作だけが達しえたものではないか。ただ、『WOMBS』と主題に共通する部分があり、あちらの物狂おしいほどの迫力と並べたときこちらの印象が薄まることは否定できない。
 『君の名は。』は、人が性的成熟への道を歩き出す直前に訪れる、一生に二度とない、瞬間であり永遠でもあるようなひとときをスナップショットとしてとらえ得た作品。それって実はSFがその奥底にかくしている最高の極意、秘術の一部なのであり、私はそこにこの作品の「SFとしての真のねうち」があると考えている。筋運びの抜群の切れ味、過剰すれすれの映像美をもたれさせないダイアログとカッティングの妙、観客を作中の情感に引きずり込む手腕、どれをとっても文句の付けようがない。RADWIMPSの曲の使い方に不満を示す委員もいたが、私はあれを日本の舞台芸能――たとえば人形浄瑠璃における太夫と三味線――の系譜に連なるもの、作者の声を躊躇なく大向こうに届ける妙手だったと信じている。
 白井弓子『WOMBS』。未来の異星における人類間の非対称戦争において、戦力の差を埋めるために本来もっとも保護されるべき者たちが駆り出される様を描くコミック。中核をなすアイディアは徹底的に考察され演繹されて、その産物は全五巻のコミック全編にわたり目もくらむほどの密度で敷き詰められているのだが、作者はその厖大な細部を一糸みだれず統率して、物語を広く、深く、高く、遠く押し広げていく。最終的に獲得された領土の肥沃さはたとえようもなく、巻末まで読み終えて最初のページに戻るとき構想の堅固さとそれを実現する膂力(そして執念)には呆然とするばかりだ。あまりにほめるのも癪なのでひとこと言い添えておくと、絵を絶賛する委員は実はひとりもいなかった。しかしこの絵であればこそ、このお話が真に「生きた」という点でも意見が一致したのである。そう、読めばだれでも「まこと、作者はこの作品を生き抜いた」とため息をつくだろう。中絶の危機を克服して本作を完結に導いた作者、編集者、そして支えた読者の全員にこの賞を捧げたい。
 2016年を代表するSF作品として『シン・ゴジラ』は屹立している。これだけの成果であればこそ選考ではさまざまな疑問や反対意見が付されたが、にもかかわらず正賞授与の可能性が(反対者もくわわって!)最後の一秒まで模索されたというのもこの映画の徳の高さを物語る。初代ゴジラが担った怨念に加え、自然災害、原子力事故、武力攻撃事態、戦後の映画史などなどをごっそりと呑み込み、一瞬ごとに別の相貌を見せながら首都の核心に突き進むこのゴジラは、まさしく多頭の怪物=八岐大蛇である。選考委員が各々の信念と判断と理由に立ちつつ「特別賞」で結論の一致を見たというのも、多頭の怪物ぶりにふさわしいと言えるだろう。
 紙幅もなくなった。最後に一つだけ。最終候補六点を読み終えたときの感想は「こいつら全体で一個の作品なんじゃない?」というものだった。それほどまでに主題、モティーフ、問題意識、技法などの点で、たがいに興趣を深めあう関係にある。『大きな鳥』と『WOMBS』、『〈物語る脳〉』と『君の名は。』、『シン・ゴジラ』と『ドン・キホーテ』など、好みの組み合わせで極上のマリアージュを堪能でき、作品の真価に改めて気づき目をみはることになるだろう。候補作を幅広くお楽しみいただけるよう願っている。

選評長谷敏司

今年のノミネートも、素晴らしい作品揃いでした。ただ、票の食い合いなどもありこの年の収穫と言うべきSF小説が何作かノミネート外になってしまったのは、少し残念でした。とはいえ、この選考を機に触れた作品もよいものでしたので、ここは仕方のないところでもあります。
 樺山三英『ドン・キホーテの消息』は、著者らしく達者な小説でした。やりたいことがコンパクトにまとまっていて、リーダビリティにも優れています。
〝みんな〟という、気持ちの悪いものであり、わたし自身でもあるものの遍歴を描き、それが最終章につながってゆく過程は巧みです。われわれは何者かという問いに、今の時代ならではのビジョンが提示されています。主人公が探偵という真実を求めるもののクラシックなかたちをとるのは、本を通して何かの実像に迫ろうということも今やクラシックだからでしょう。
 ただ、情報量が整理されているからこそ、前作『ゴースト・オブ・ユートピア』で見せたような豊穣な世界は感じられませんでした。たどり着く最終章は素晴らしいものの、ここに至るまでの助走に紙面を使いすぎているように思えました。
 圧倒的なビジョンだったり、驚きだったり、あえてもう一押し押せる何かが欲しかったところです。豊かな樺山さんと、今回のリーダビリティの高い樺山さんが、うまく一つにまとまる日がくればと、期待しております。
 藤元登四郎『〈物語る脳〉の世界―ドゥルーズ/ガタリのスキゾ分析から荒巻義雄を読む』は、今回唯一の評論書でした。スキゾ分析という手法を使って、スキゾ分析でなければとらえるのが不可能であったろうかたちで、荒巻義雄氏の初期作を分析しています。
ビジョンで展開してゆく物語がどう作られているかを理性で追うのは、非常に難しいものです。これに、手がかりを与えてくれる、作家にとっては引き出しを増やすチャンスになるありがたい本であるとも感じました。
 ただ、スキゾ分析によって作品がその価値を解放されるような、体系だった評論が、どれほどSFに存在したかというと、評価に迷います。解き放つべき対象となるような価値体系が築かれていたわけでなければ、ただ一冊の本としてどれほどの読者に接続するのかを考えることになります。そうなると、著者と荒巻作品の関係というテーマが限定されすぎている、狭いフォーカスが気になりました。ノミネート作を比較した時、SF大賞が選ぶべきはこの作品なのかと考えると、いま一歩とせざるを得ませんでした。
 川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』は、素晴らしくも、自分にとって読み返すたびわからなくなる本でした。意味を見いだそうとしては、失敗して、母ということばが何度も浮かび上がる体験をしました。そして、母ということばから連想し、意味を見いだそうとするその思考のフレームこそを、物語が攻撃し拒絶しているように思えるようになりました。
 母とは理屈や道理ではなく、ただこうだという、身もふたもない事実がありました。原初的なおそれを抱きました。けれど、それは家父長的な道徳から解き放たれた「母」の姿であるのかもしれません。
 思えば、本作では、母という言葉は何度も出るのに、家庭や家族はほとんど重く描かれていません。脱出する対象だったり、機械的なつながりだったり、薄いつながりだったりします。そういう「家」から解放された、家父長制の外から、語り直した神話であるように読めました。
 小説作品としては、今回、この作品が一番よかったと思います。AIに関するギミックも面白いので、SFファンの皆様にぜひ読んでいただきたい一作です。
 新海誠監督作品、『君の名は。』を、自分は推していました。
 シンプルな、君の名前が思い出せないという問いで進めてゆく力強さも、美しいビジョンも、切なく広く感情移入できるドラマも、飽きさせることのないテンポも素晴らしいものでした。ビジョンとテンポとドラマを並列させるのは本当に難しいのですが、見事な手並みでした。
 戦略的に、過剰なほど軽く作られていることも考えさせられました。本作では、本来ならもっと時間をかけていい展開や情感を、どんどん展開させて埋もれさせてしまいます。そのおかげで、見ているあいだ情感が刺激されたり感情移入したりした体験が、不思議なほど映画館を出るとその細部が消え落ちてしまいます。
 これは、作中で主人公たちが体験する「大事なことがあるはずなのに思い出せない」感覚を、鑑賞者も情報の氾濫で大事なことを見失うことで追体験しているといえます。明らかに企みがあってテーマの主軸と表現が一致しているのだから、独自のスタイルを備えているわけです。
 このため、何度も見にゆくリピーターが出たのでしょうし、この感覚の普遍性が広く観客の心をとらえたのではないでしょうか。エンタテインメントとして奔流のように見所を浴びせるというかたちだったからこそ、前提知識を必要とせず中高生や若い層にしっかり届くほど間口が広がったと思えるのです。実際、この体験は気づいてみると上質なものでした。
 小説でこれほど万全に備わっているものが現れたら、百パーセント押すので、減点法で評価しづらかったこともあります。
 オールタイムベストがレイ・ブラッドベリの自分にとっては、これほどの美しいイメージと情感が広がって、確かな物語が詩情豊かに息づいていれば、細かい瑕疵は問題にならないと考えていたのです。力及ばず、残念。
『シン・ゴジラ』(庵野秀明:総監督/樋口真嗣:監督/尾上克郎:准監督)は、素晴らしい迫力で怪獣を描いたエンタテインメントでした。
 一九五四年のオリジナルの『ゴジラ』を強く意識した作品で、そのために戦後七十年間で変わったものごとが色濃く浮き出ています。破壊される東京の街や、怪獣という異物に対する人々の反応に、それは顕著です。
 真っ向から歴史的名作と勝負するような、物語の力が脈々と受け継がれたことを感じさせる力作です。一九五四年版では科学の力で乗り越えられたものが、本作では日本という共同体の力で乗り越えられています。原発事故や震災を経て、科学への信頼が揺らいでも、官僚や政治家、そして社会が巨大なものから日本を守るという、この国の歩みを感じさせる、日本人観客の胸を熱くさせるビジョンがあります。
 このビジョンは、日本人のトラウマに深く結びついています。津波を想起させる災害の風景、アメリカが圧力をかけて来ること、中国やロシアがあっさり日本を見捨てること、助けてくれるのは日米安保があるアメリカと遠いフランスであり世界の大半から孤立している感覚、そして、もちろん原爆の風景です。
 そして、本作の強く感情を動かす部分は、このトラウマに結びついています。トラウマなので、製作者の心象風景であり、公平性などは保証されません。物語とはそういうものであるにしても、この作品を大賞に推して良いのか自信を持てませんでした。
 というのも、本作では、クライマックスで、ゴジラが一時動きを止めて、国連によって東京が核攻撃を受けることに、物語を進行させる要因がバトンタッチします。世界から日本が核攻撃を受けるということに、無理なくドラマの流れが繋がっていると感じました。そうフィルムが作られているからですが、見返すと思い悩むようになってきました。これは、自然災害や科学を扱う人類の課題といったゴジラに象徴されるものと、世界から日本が核攻撃を受けることが、物語の中で等価なせいで機能するのではないか。物語の要所をつなぐ〝にかわ〟として、偏見やトラウマの共有が働いているのではないかと疑ったのです。
 戦後七十年経ってなお日本がこうも孤立していることは、作品に特殊な事情ではなく、現実と同じ説明不要の前提として与えられています。これを観客が受け取れるものとして組み立てられています。けれど、作品のモチーフのひとつである東日本大震災のときの海外の様子を思い返すに、このありようは、さすがに偏見だと思います。
 偏見とロマンチシズムの結合は、甘美であるからこそ諸手を挙げて評価しがたいものがありました。本作では、怪獣に翻弄される個人の情感ではなく、日本社会が力を合わせて大怪獣と対抗する姿が描かれています。だからこそ、この結合が気にかかりました。二十一世紀にゴジラを語り直すとき、日本人の怨念じみたものが継承されることは納得できます。ですが、それはこの形でよかったのかと思うと、大賞とするにはどうしても引っかかりました。
 それでも、作り上げられたビジョンは圧倒的でした。細かい悩みを突破するパワーがありました。ゆえに、正賞ではなく、特別賞での顕彰が適切であると考えます。
 白井弓子『WOMBS』は、文句なく評価できる素晴らしいSF作品でした。清新なイマジネーションを、正しく構成して、丹念に考察し、熱を込めて描ききった、強い作品です。
 人間らしく生きようとする主人公たちが、自らを人間らしく扱わないものと戦う展開には、力強い納得感があります。妊婦という問答無用のものが画面に出てくる説得力はすさまじいというよりありません。妊婦が兵士として殺人ロボットと戦闘しているのだから、もうこれは人間らしく生きるものが戦っているに違いないのです。しかも、熾烈な戦場に飛び込むにあたって、母子として二人の人物を描くとぶれたであろう展開が妊婦であるため一つにまとまるという、離れ業です。
 選考でも、他の選考委員から、この異種生物を子宮に入れた妊婦の兵士というコアアイデアは、小説でもおそらく面白いものになったという話が出ました。まさにその通りで、ゲームでも、小説でも、映画でも、このアイデアはぎょっとさせて人目を惹きつけたでしょう。それは、アイデアが純粋に優れているということです。そんなコアアイデアを中心に、物語が絞り込まれていることで、全体の完成度も底からせりあがるように高まっています。
 よくできているということを、選考の場で受賞理由とするのは難しいことです。ノミネートのどの作品もよくできているのは当たり前だからです。けれど、本作の場合は、コアアイデアの卓抜した優秀さゆえに、シンプルに背骨が通って書き切っていることにそれ以上の価値がありました。
 申し分のない大賞作品でした。おめでとうございます。

選評眞司

選考委員の任期は原則3年だが、ぼくは1年だけ余計に務めることになった。日本SF作家クラブが自前で賞を運営するようになって以降、選考委員の交代はこんかいがはじめてなので、ひとりくらい直前回の選考会の雰囲気や段取りを知った委員がいたほうがよいとの事情らしい。前回選考員のなかでいちばんヒマで気楽なあなたがやりなさいとのお達しだ。そういわれた場合、いったんは遠慮してみせるのが世の流儀だろう。しかし、ご存知のとおりのぶしつけ者。新しい選考委員の顔ぶれを聞き、「ぜひやらしてください!」と、ぼくのほうから頭を下げていた。飛さん、高野さん、日下さん、長谷さん。このひとたちと大好きなSFの話ができるのだ。
 とはいえ、候補作が発表されたときは、だいぶ戸惑った。ぼくの事前予想では、こんかいの日本SF大賞は北野勇作『カメリ』と宮内悠介『スペース金融道』の一騎打ち、そこに円城塔『エピローグ』や小林泰三『失われた過去と未来の犯罪』などのツワモノが絡んでくるガチンコ勝負だった。それらがひとつも候補に入っていないとは! あとで聞けば、票は集まったものの、あと一歩で届かなかったとのこと。びっくりだ。
 そんなことで、微妙なモチベーションで選考会に臨むはめとなった。
 ちなみに、ぼくが会員投票の段階で票を投じた――一般のみなさんからエントリーいただいた作品のなかから、日本SF作家クラブ員は五作品以内の推薦ができる――うちで最終候補に残ったのは、『大きな鳥にさらわれないよう』だけだった。この作品は、婚姻や生殖のかたちがまったく異なったものになった未来の寓話だが、計画された人類進化というロジックが背景にあることがわかってくる。人類進化といってもクラークや小松左京のように上昇する感覚ではなく、ずっと穏やかで、ちょっとシマック『都市』を思いだした。ただし、登場人物どうしの関係や感情を一歩引いて描く調子は、この作者ならではのものだ。これが大きな魅力だとはわかる。ただし、ぼくはちょっとだけ苦手なのだ。もちろん、小説としての水準はきわめて高い。選考会に際しては、とりあえず、この作品を大賞に推す方針を立てた。ただし、過去3年間とは異なり、なにがなんでもこの作品を大賞にというほど強い覚悟があったわけではない。
 いっぽう、候補作が出た時点で唯一未読だったのが『WOMBS』である。読んで驚いた。これほどの凝った状況設定、練りあげられたアイデアの作品があったとは! 設定・アイデアが凄いというだけではなく、そこから惹起される母性やアイデンティティ、種と個人の生存をめぐるテーマの迫真性が素晴らしい。マンガの表現と文章のそれは異なっており、かならずしもコンバートできないのだが、この作品に関していえばこのまま小説にしても魅力が微塵も損なわれることはなかろう。それだけ緊密に物語がつくられている。思考実験の強度、ハードコアなSFのイマジネーションの点では、こんかいの候補作のなかで随一だ。ただし、マンガの表現に限っていえば(とくに描画力)、まだまだ向上の余地があるとも感じた。まあ、過去の日本SF大賞を受賞したマンガといえば、大友克洋『童夢』と萩尾望都『バルバラ異界』だ。さすがに、あのクラスに比べるのは、いくらなんでも酷という気もするけれど。また、『WOMBS』は雑誌連載が中断となり、描き下ろしへ移行したせいか、構成がやや未整理で、伏線がじゅうぶんに活きていないところがある気もした。そのあたり、ほかの選考委員のみなさんの意見をうかがいたいと思い、この作品には大きく「要検討」の印をつけておいた。
 『シン・ゴジラ』は劇場で最初に観たときから、「特別な作品だ!」と思っていた。面白さでいえば、こんかいの候補作のなかでも飛びぬけている。たんじゅんに「好き」というなら、これがいちばんだ。しかし、会員投票のときには、ぼくはこれに票は入れていない。なぜかといえば、『シン・ゴジラ』は理想的な怪獣映画ではあるけど、SFとしての評価は別だからだ。
 誤解のないようにとくに強調しておくが、『シン・ゴジラ』がSFかどうかと問われれば、ぼくは躊躇なくSFだと答える。ただ、なんというか、『シン・ゴジラ』の良さはSFという枠に収めきらないのだ。そういう〝SFをハミ出している〟タイプの傑作の例としては、ほかに夢野久作『ドグラ・マグラ』、水木しげる『悪魔くん』、スティーヴン・ミルハウザー『マーティン・ドレスラーの夢』などがある。SFであるかどうかよりも、それ自体でひとつのジャンルをなしてしまう特異性。さて、『シン・ゴジラ』は『WOMBS』と対照的で、あの醍醐味を小説に移すことはできない。実写特撮映画だからこそのケレンだ。極論をするなら、テーマや物語なんてどうでもいい。解釈なんてあとづけでいくらでも言いたてられるけれど、呑川を遡行してくる第二形態の量感を目の当たりにすれば、もう沈黙するしかない。あのスペクタクルさえ損なわなければ、人間ドラマなんて勝手にやってください――だ(かつての多くの怪獣映画の失敗はそこにある)。それでもあえて物語レベルで気になったことをいうなら、ゴジラの謎はあらかじめ牧悟郎というひとりの研究者によって解かれており、巨大不明生物特設災害対策本部は牧博士がしかけた暗号を解くことに躍起になる点がいただけない。まるで陳腐なミステリみたいだ。その点だけは最初の『ゴジラ』に負けている。しかし、そんなことはしょせん僅瑕だ。『シン・ゴジラ』サイコー! 先述したように、これは「特別な作品」であり、日本SF大賞でなにが大賞になろうと――よしんば大賞が受賞作なしであっても――『シン・ゴジラ』だけは特別賞だと、心に決めていた。
 もうひとつ候補にあがった映像作品が『君の名は。』である。『シン・ゴジラ』と正反対で、こちらは〝SFに収まっている〟作品だ。リゴリスティックに整合性を求めるむきはSFじゃなくてファンタジイだというかもしれないが、あの程度の緩さは過去のジャンルSFではいくらでもあるし、観る側のほうである程度は補える(それをしないで、作品を突きまわすのは怠慢もしくは意地悪だ)。設定やアイデア面に着目すると、人格の入れ替わりを組み合わせたところは工夫である。しかし、タイムトラヴェル・ロマンスの骨格じたいはとくに新鮮味はない。
 主人公たちの関係も行動も、ほとんど定型的なラブストーリーである。ただし、この作品が傑出しているのは、「もう思いだせないが大切なものがあった」という、あてどもない喪失感である。それを目覚めたとたんに消えていく夢の感触に重ねあわせて描いているところが素晴らしい。いちばん印象的なシーンは、糸守町を救ってから時間が経過した物語終盤、主人公の瀧が奥寺先輩と再会し、同級生の司を含めて三人で飛騨へ旅行したときの記憶を語るくだりだ。
 瀧はもう旅行の目的も、自分がどうやって帰ってきたかも覚えていない。しかし、かつて奥寺に抱いていた憧憬とともに、淡く薄れた、しかし絶対に忘れることのない小さな追想。あの情感だけを残せないものか。正直にいえば、瀧と三葉が糸守町を救おうと活躍する物語の山場、RADWIMPSの曲が大きく鳴ると、いかにも「ここは盛りあがる場面ですよ」と見えすいた合図のようで、どうにも乗りそびれてしまうのだ。まあ、ラブストーリーとしてはああした演出は正解なのだろう。そこに注文をつけるのはスジ違いかもしれない。さて、ストーリーや演出を別にして純粋に画像表現を観るならば、『君の名は。』は、非常に美しい。これはいくら強調しても強調しすぎることはなかろう。
『ドン・キホーテの消息』は、『大きな鳥にさらわれないよう』以上に寓話性の強い作品である。過去の文学作品を明示しながら新しい作品を展開するのは、現代文学に特徴的なメソッドだ。ほかならぬセルバンテスの『ドン・キホーテ』が当時流行していた騎士道物語を諧謔的に反復するかたちで書かれていた。それを考えあわせれば、『ドン・キホーテの消息』はメタフィクションの二重重ねであり、ここで前景化されるのは物語の内容ではなく物語る行為そのものだ。物語は依頼を受けた探偵(主人公)が、行方不明になった老齢の権力者(ドン)を探すところからはじまる。依頼主であるドンの姪は言う。「知っているでしょう? 探偵はつねに犯罪の後にしか現れないって。だからいつでも、事件に出し抜かれる運命にある。でもあなたは動物の探偵だから(略)事件を追い抜くことができるんじゃないかと」。こういうくすぐりが要所要所にあるので、ひねた小説好きにとってはたまらない。しかし、樺山三英が日本SF界にとって重要な作家だということは重々承知のうえでいうが、ことこの作品に関してはSFの賞ではなく、広く文芸の領域で評価されるべきではないか。
『〈物語る脳〉の世界―ドゥルーズ/ガタリのスキゾ分析から荒巻義雄を読む』は、荒巻ファンである著者の熱意が伝わってくる好ましい一冊。ただし、読み物もしくは読書ガイドとしてはよいけれど、この本の眼目である「スキゾ分析」がどうにもむずかしい。ドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』が画期的だったのは、西欧的な知の諸領域でコンストラクティヴに捉えられていた対象を、完結しない連鎖や運動性として扱ってみせたところだ。つまり、あらゆるものはスキゾ的に語りうる。どこへでもくっつく膏薬みたいなものだし、当然、論は恣意的なものになる。ドゥルーズ/ガタリがプルーストやカフカを取りあげたときには、それ以前の意味や全体性を見いだす文芸評論に対するカウンターとして有効だったかもしれない。しかし、いかにもアマルガム的、パッチワーク的な荒巻作品をことさらスキゾと言挙げするのは、あまり新鮮味はない。また、「SF機械」というとそれっぽいが、けっきょくは荒巻義雄という主体(全体性)へ還っている印象を受けた。そういう意味で、この本は荒巻ファンによる盛大な頌歌である。しかし、それはぼくがSF評論に求めるものではないし、日本SF大賞にふさわしいとも思えない。

   *   *

さて、以上が、選考会がはじまる前にぼくが考えていたことだ。
 選考経過は、いずれ記録係の渡邊利道さんがまとめてくださるが、ぼくの立場からいえば、ほかの選考委員の方々と話しあいたいのは次の3点だった。

(1) 自分がとりあえずの一番推薦とした『大きな鳥にさらわれないよう』について、ほかの候補作と比べて優れている点はどこか。逆に、もし足りない点があるとしたらなにか。
(2)『WOMBS』の描画力と構成について、やや弱いとみるか、問題はない(あるいはむしろ優れている)とみるか。
(3)『シン・ゴジラ』を特別賞に推すことについて、自分が考える理由に正当性はあるか。

 選考会では『大きな鳥にさらわれないよう』と『WOMBS』が対照的に論じられることが多く、そのなかで(1)と(2)とが同時に並列的に決着した。つまり、『WOMBS』は荒削りなところもあるが、それは瑕疵ではなく、むしろ作品のテーマと相まって読者に強いインパクトとして伝わってくる。その点が、端正に書かれた『大きな鳥にさらわれないよう』とは異なる、大きな魅力だ。
 いっぽう、(3)についてはぼくが自分の考えをうまく整理できずにもたついたが、最終的にはほかの選考委員からも、ある程度の納得をいただけた。もちろん、そんなに評価するならいっそ大賞でよいではないかという意見もあった。しかし、『WOMBS』を高く評価する意見が『シン・ゴジラ』を推す勢いを上回っていたこともあって、大賞二作ではなく、大賞と特別賞とに分けることで落着した。
 選考会は、ぼくにとってたんに受賞作を決める手続きではない。ほかの選考委員と論議をすることで、作品の新しい魅力を発見したり、いままでと違った角度で読み直す素晴らしい機会だ。選考会が終わったあと、二次会や三次会に移っても、ぼくたちは作品について話をつづけていた。これをお読みになっているみなさんも、受賞作だけではなく、候補にあがった作品、そして、とくにこんかいは候補から漏れた傑作(この文章の前のほうで作品名をあげている諸作)も含めて、ぜひ注目していただきたい。