第44回日本SF大賞 選考経過 選評
第44回日本SF大賞選考経過報告
第 44 回日本 SF 大賞の選考会は、池澤春菜、井上雅彦、草上仁、立原透耶の四名の選考委員が出席し、2023 年 2 月 23 日にオンライン会議にて開催されました。また、自作が候補となった斜線堂有紀は選考会には参加せず、書面にて各作品の講評を発表しました。運営委員会からは司会として大澤博隆会長、オブザーバーとして揚羽はな事務局長、技術係として藤井太洋、記録係として小川哲、十三不塔が出席いたしました。
今回の最終候補作は以下の五作品です。
- 結城充考『アブソルート・コールド』(早川書房)
- 斜線堂有紀 『回樹』(早川書房)
- 高野史緒 『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』(早川書房)
- 長谷敏司 『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(早川書房)
- 久永実木彦 『わたしたちの怪獣』(東京創元社)
選考経緯
司会の大澤会長の挨拶の後、各選考委員が受賞作として支持したい作品を発表する形で選考会が始まりました。その結果、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を推す委員が三人、『アブソルート・コールド』を推す委員が一人、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』と『わたしたちの怪獣』の二つを推す委員が一人いました。
最初の投票を終えた後、各選考委員が順番に、それぞれの候補作に対して講評をしていきました。(書面参加となった斜線堂有紀委員の講評は、大澤会長が代読しました)どの作品が受賞作でも構わない、という選考委員も多く、例年よりハイレベルな候補作が揃ったという意見もありました。
選考委員司会の大澤会長が、もっとも投票の集まった『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を受賞作とすることに反対意見がないかを各委員に聞きました。
その結果、最初の投票で『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』に投票しなかった委員も受賞作とすることに納得しました。その他に投票のあった『わたしたちの怪獣』と『アブソルート・コールド』について、同時受賞とするか議論が交わされましたが、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』と比較すると、「新しさ」という点などで足りない部分がある、という意見で一致しました。
その後も選考委員により議論が尽くされた結果、第44回日本SF大賞の受賞作として『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を選出することが全会一致で決まりました。
結城充考『アブソルート・コールド』(早川書房)
『アブソルート・コールド』については、人間関係の切実さが描かれており、恋愛小説としての側面もあるが、レッテルを貼らない方がいい作品であるという意見がありました。
また、場面をキャラクターごとに区切っていく描き方が読みやすいという声がある一方で、場面展開の多さのせいで、躓いてしまうところもあったという意見もありました。この作品は未来と現実のつながりを描いていて、登場人物の「意志の力」を感じたという評価や、物語としてもっとも楽しめた作品であるという感想も出ました。
油の匂いがせず、サイバーパンクではないのではないか、という意見に対しては、「情報量を重ねて酩酊感を作る」というサイバーパンクとしての魅力があったという反対もありました。全体として、人間性や科学を、もう少し突き詰めることができたのではないかという意見もあり、エンターテインメントとして優れた本作を SFとしてどう評価するか、という部分が焦点となりました。
斜線堂有紀 『回樹』(早川書房)
『回樹』については、アイデアが素晴らしいという意見が複数の選考委員から集まりました。「どうやったらこんなことを思いつけるのだろう」と感心したという選考委員や、二番目に推したという選考委員もいました。この作品集はわかりやすいわけではないが、どの作品にも実はカタルシスがある、と魅力が語られました。「骨刻」のアイデアが素晴らしいという意見や、「奈辺」が一番好き、という意見もありました。
その一方で、「科学を描く」という側面で他の候補作に比べて弱かったという声や、「作品の描き方が、設定に対してベストか、と聞かれると疑問が残った」という意見もあり、本作が「SFとして優れているかどうか」という点で、作品に登場する不思議なものの仕組みを明らかにしない点に弱さがある、と講評する選考委員もいました。全体として、アイデアが世界にどのように影響を与えるのか、SFとしてもっと深掘りできたのではないか、という観点から、作品の素晴らしさを認めつつ、大賞には推しきれないという意見もありました。
高野史緒 『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』(早川書房)
『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』については、「生理」という極めて生々しい事象が最も重要な箇所であったのだと気づかされた時に、筆者の思惑にまんまとかかる気持ちよさを味わった、という意見がありました。作品の中で起こっていることよりも、さまざまな世の中への見方が披露されるところが面白い、という評価もありました。
もともと中編として描かれていたものがとても好きだった、という委員もいました。生理や自慰の描写が衝撃的だった一方で、生々しい身体性を描く中で、納得のいかない部分があった、という意見もありました。また、中編から長編になった過程で、うまくいっている部分もあったが、広がったテーマをうまく活かせてない部分もあった、と感じた委員もいました。それ以外にも、恋愛以外の関係性や、人間としての苦悩をもう少し描いて欲しかった、などと議論が交わされました。
作品の素晴らしさを認めつつ、結末に不満がある委員や、後半が端折ったような印象があった委員がおり、受賞作とすることは見送られる結果になりました。
長谷敏司 『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(早川書房)
『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』については、ダンスの描写に惹きこまれ、最後まで本を置くことができなかったという意見や、言葉にするのが難しい「ダンス」という題材を描く筆力が素晴らしい、という評がありました。並々ならぬ筆力によりコンテンポラリーダンスの魅力を紙上に再現するという偉業を成し遂げている、という賛辞もありました。
また、科学と人間の関係がしっかりと描かれていることや、この作品以降、AIの描き方が変わるのではないか、という意見もありました。自分の境遇と重ね合わせた委員もおり、重いテーマを頭で理解しようとしている点、書くことで決着させようとしている点は、この作者だけが持つ強さなのではないか、と述べた委員もいました。
作品の中で描かれる人間関係の描き方が良い、という声があった一方で、そこがぼやけているという意見の両方が出ました。また、作品に没入した結果、あまりにも辛くて読み進めるのに時間がかかってしまったという意見や、主人公がダンスに対して没頭する動機が、最後までわからず、その動機が、人工知能の調査へとすり替えられてしまっている印象があった、という反対意見もありました。
久永実木彦 『わたしたちの怪獣』(東京創元社)
『わたしたちの怪獣』については、奇想とエンターテインメント性を併せ持った独自性の高いものであり、ページを捲る手が止まらなかった、という意見がありました。この作品は「モンスター小説集」であり、社会の残酷さに対して、自己の内側にあるモンスターを描いている作品なのではないか、という意見もありました。「ぴぴぴ・ぴっぴぴ」のアイデアが素晴らしかったという意見や、「キラートマト」が一番良かったという意見、「夜の安らぎ」が良かったという意見など、各選考委員によって、好みの作品が異なることも特徴的でした。
その一方で、冒頭の短編である「わたしたちの怪獣」が過去に本賞の候補になっており、議論を尽くしたものをもう一度議論する難しさを感じた、という意見や、一冊の短編集として最初から議論したかった、など、変則的な形で二度目の候補となってしまったことが本作にとって本当に良かったのかを問いかける委員もいました。また、サイエンス・フィクションというよりも、不思議な読み口が魅力の作品で、SF大賞として推しきれなかった、という所感や、既存のアイデアを現代風に作り直した作風で、その点は作品としての長所でありつつ、大賞には推しきれなかった、という意見も出ました。また、短編集という形式を、長編の熱量と比較する難しさがあった、という、作品の形式についての議論にも発展しました。
最終投票
選考委員ごとに各作品への講評をした後に、それぞれの講評への疑問点や、候補作を読んだ全体的な感想などについて話し合いがされました。投票の集まった『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』について、「プロトコル」は人間の関係性の中でしか描けないものなのではないか、という意見や、ジュール・ヴェルヌと比較する委員もいました。
また、サイエンス・フィクションにおける「科学」とは何か、という話になり、『回樹』は「科学をどう使ってもいいんだ」という読み方ができ、そういう意味できちんと科学的な作品である、という評価がなされました。
候補作を全体的に読んだ結果、「懐かしさ」を感じる作品が多く、「懐かしさ」から「新しさ」まで昇華できているものがなかった、という意見が出ました。その意見に対して、『わたしたちの怪獣』は七十年代から八十年代の映画をオマージュしており、『アブソルート・コールド』の中にも、エディー・ウィルソンという架空のミュージシャンが出てくるシーンがあり、これも八十年代の小説、映画が元ネタになっていることなどが指摘されました。
こうしてノスタルジックなものを懐かしむ作品がなぜ今になって発表されているのか、という点を考えてみたい、と議論は膨らみました。
それ以外にも、「痛み」がテーマになっている作品が揃ったことが印象的だった、という意見や、候補者にライトノベル出身者が三人揃っていることが面白かった、という意見もありました。
どの作品も受賞に値する、という声も多くありながら、もっとも投票の集まった『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を受賞作とすることが提案され、反対する委員が一人もいなかったことから、第44回日本SF大賞の受賞作として『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を選出することが全会一致で決まりました。
功績賞については、日本SFの発展に多大な寄与があった、故・石川喬司氏(作家・評論家)、故・豊田有恒氏(作家・脚本家・翻訳家)、故・聖悠紀氏(漫画家)、故・松本零士氏(漫画家)に贈られることが会長より提案され、選考委員に異論はなく、すみやかに決定致しました。
(記録・文章:小川哲、十三不塔)
選評 井上雅彦
今年の5つの候補作は、すべてが小説。長編小説が三冊。短篇集が二冊。
5冊とも、あまりに面白かった。
面白さの質も、それぞれが異なった。
選考会では、私が最も異質で個性的だと感じた作品を推す声が圧倒的で、この作品の大賞が決定するのにさほど時間がかからなかった。しかし、他の4冊が、その読書体験が与えるセンス・オブ・ワンダーにおいて劣っているとは、私には思えなかった。
それだけ、今回は質の高いSF小説が候補に挙がった。
2023年のSF小説シーンの豊かさ、多様さ、質の高さが、それだけでも覗える。この意義はとても大きいと思う。
●『回樹』
短篇集である。「SF短篇集」として上梓した作品集としては、著者初めての一冊。
いずれも奇妙な設定、不可思議な現象の出現した世界を、極めて人間的な動機を抱えた登場人物の行動を通して描いていく作品であり、この様々な「設定」が一筋縄ではくくれない、実に個性的な「奇想」の産物である。たとえば、表題作の「回樹」は、巨大な人間の姿のように見える森が出現し、そこに死者の遺体を吸収させると、その人への想い・感情が、森に転移するというもの。その奇妙な現象が、個人的なものではなく、社会的に認知されているという点がSF的であり、こうした世界の描き方が、どこか星新一氏の作品群を思わせるところもある。この物語の展開は、こうした現象に関わる登場人物の心理を描くものであり、作品集全体としては、《異色作家短篇集》を思わせる。
私はこの作品集を最初の一篇「回樹」から読み始めたのだが、この短篇は、いかにも〈回樹〉現象を描く物語のプロローグ的な一篇に相応しい作品のように思われた。すなわち、この段階で、私は、この一冊がすべて〈回樹〉現象の「連作短篇集」であるかのように錯覚してしまったのだが、〈回樹もの〉については、ラストの「回祭」一作のみ。それ以外の作品はすべて別の〈現象〉が描かれている。つまり、さまざまな奇想の設定を、惜しげも無く一作限定で描いている。このことじたいは、独立型の短篇を偏愛する私のような読者にとっては極めて有難い短篇集なのであるが──同時に、不思議な物足りなさも感じてしまった。〈回樹〉のようなあまりにも異様な設定を読まされてしまうと、さらなる二作目、三作目で〈回樹〉の本質に迫っていくものが書かれていると期待してしまうからかもしれない。
独立型の短篇においては、その設定に対しての最適解(もしくは最悪解)を与える物語と登場人物の組み合わせが理想的なのだが、〈回樹〉ものの二作や、本書の他の短篇は必ずしもそうではなく、特殊な設定に対する、様々なアナザー・ストーリーの一篇と思われるものが少なくないように感じられた。
この作者は、実はすでにみごとな独立系短篇をSFやホラーの分野でも書いており、どうしてもその水準と比べてしまうため、この『回樹』に対して(贅沢にも)物足りなさを感じてしまったのかもしれない。
とはいえ、《異色作家短篇集》としての『回樹』は、実に銘品だ。一作だけを選ぶなら「奈辺」。この素晴らしさは、これ一作だけでも長篇の名作映画に匹敵する面白さだと思う。
●『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』
長篇作品。かつて放映されていたNHK少年ドラマシリーズを思わせるような、あるいは、聖地巡礼が人気となるアニメ映画のような地方都市の青春SF。その語り口、叙述の方法が周到に練られており、文章の巧さも効果をあげて、今回の候補作の中では、最も読みやすく感じられた。
茨城県土浦を舞台に、女性の視点と男性の視点で交互にストーリーが語られているが、それぞれの歴史が異なっていることがわかる。そして、二人は意外な方法でコミュニケーションを果たしていく。
本作は、〈歴史改変〉〈量子論〉といったSF的モチーフが物語に緊張感を与えるが、それ以上に、物語内で起こる〈不思議な出来事〉を巡っての、現代最新科学の知見、宗教哲学の知見、世界を捉まえるための様々な考え方、視点、認識の方法などが披露されていくところが魅力だろう。
ただ、この物語、第8章以降が駆け足になり、さまざまな事象が、男性主人公(登志夫)の「直感」で説明され、女性主人公(夏紀)の心情描写が希薄になっていくのが、もったいなく思われた。せめて、夏紀の「決意」に至るまで、もう一章分のボリュームが欲しかった──。
もちろん、そう思わせるだけの、魅力的な世界観が展開されていたからこその読後感である。
科学を語りながら、そこに盛り込む魔法の匙加減は、本作が最も大胆だったと思う。
●『わたしたちの怪獣』
昨年、表題作が単独で候補となったが、今回は短篇集として、ようやく、その全貌が明らかになった。全篇モンスター作品集ともいうべきモチーフで、巨大怪獣、タイムリープ・ボンバー、ヴァンパイア、ゾンビの蔓延……とそれぞれ人間世界を侵食するような存在がモチーフとされているが、それに関わる主人公(一人称)たちがすでに社会から疎外され、モンスターの側に限りなく近づいている。本書には〈kaiju Within〉という英語のタイトルが記されているが、これは表題作の英訳というよりも、四作品に共通するテーマともいえ、〈Monster Within〉──「(わたしたちの)内側にいる怪物」とすれば、よりわかりやすいのかもしれない。ラストを飾る「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」が自明的に示しているように、この作品集は、ホラー・フィクションの先行作品の持つモチーフを踏襲すると同時に、「批評的」「引用的」もしくは「パロディ的」に描くことによって、よりテーマを深めていく手法が使われている。その手法の効果や魅力は、単独作品のみよりもこうした短篇集にまとめることによって明確になり、増幅していくものと思われる。だから、昨年、表題作が、一篇だけでSF大賞候補になってしまったことは不利でもあったし、さらには、今回の選考評価をも限定的なものにしてしまったようで、ずいぶんと損をしたと思う。
なお、「(わたしたちの)内側にいる怪物」のテーマが最も端的に描かれたのが、吸血鬼になりたがる少女を描いた「夜の安らぎ」で、これはやはり吸血鬼に憧れる少年を描いたリチャード・マシスンの「血の末裔」よりもさらに切実な吸血鬼願望への動機と、現代社会の疎外感を描いている。この一作だけでも、現代の吸血鬼小説に大きな一歩を与えたものとして高く評価できると思う。
●『アブソルート・コールド』
私には、この作品が、候補作の中で最も面白く感じられた。
長篇小説。異形の未来都市を舞台に、事件に巻き込まれた少女、死者の心象を探る特殊捜査官、特命を受けた私立探偵、改造人間の女性などが生き残りをかけて行動するスリラー。令和の〈サイバーパンク〉というキャッチフレーズだが、むしろ先鋭的な〈ゴシック・ロマン〉であり、〈ポストヒューマン〉テーマのSFであり、映画『ブレードランナー』的な空気感を、さらにゴシックなムードに構築した霧深い未来都市を舞台に展開する。
生と死、死後をテーマにしているからゴシックロマン的な筆致(ゴシック・リヴァイヴァルとでもいうべきか)を敢えて選んでいると思われ、この文体のある種の「読みにくさ」もまた、計算して選択されたスタイリッシュな基調と思われる。濃密な描写を読み返すたびに、細部にSF的な発見があるのだ。
主要人物の視点ごとに章が替わり、同時並列的に描かれるが、いずれもスリリングなところで章(視点)が変わるストーリーテリングで、じっくりと物語が進行する。
最も物語をリードする主人公の少女コチは、さまざまな危機を乗り越えるごとに自分の味方を増やしていく。最高性能のAI(その端末である「小猿」などは愛されキャラだ)に「親鳥」のように懐かれたり、機械だけの生産部門たちと取引し役員に任命されて巨万の富を得るなど、SFならではの経済サクセス小説めいた展開もあり、物語の面白さが詰まっている。
この小猿「ヒャク」もそうだが、魅力的なキャラクターの造形力は素晴らしい。敵対する人物を「悪人」のように描きながら、その人間性を逆転させる語りも効果的に使われている。(選考会では、同性愛男性同士のドラマについて、女性選考員たちが熱く盛りあがっていたのであるが……)
最も驚かされたのは、主人公の一人の男性が生物学的に「死」んでしまうシーン。しかし、その後、脳を製造して「脳死」の段階まで戻し、さらに「甦らせる」というプロセス──これを「科学的」「技術的」に納得させてしまう文章は、魔術的に思われた。「生」への情熱の裏返しとしてのゴシック・ロマンスについても考えさせられた。
好みということもあるのだろうが、私はこの作品を大賞に推していた。
●『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』
この作品は、特別だ。
将来を嘱望される天性のコンテンポラリー・ダンサーが事故で右足を喪失。AI義肢を提供してくれた研究家、技術者とともに、人間とロボットが共演する舞台に、ダンサーとしての活路を見いだしていく。
文章が、まず端正だ。そして、一行に深みがある。
均整のとれた主人公の肉体と演技を思わせる文章。三人称の視点は主人公の内面を照らす距離。
舞台は2050年代──すなわち四半世紀以上先の未来──だが、読んでいるうちに、その意識がなくなる。事実上、現代(英訳すればコンテンポラリーか)の物語として読んでしまう。この約二十五年後の未来(本当の「近」未来である。本の帯にかかれた「卑近」という言葉にはいささか抵抗があるので、「至近未来」とでもいうべきか)という設定が、本作を格別なものにしている。
主人公の性格にも境遇にも感情移入したためか、非常に興味深く読んだ。
だが、同時に──私には、苦痛を与えられる読書体験でもあった。
まず、科学SFとしても大きなテーマなのであろう──人間とロボットとの舞台をめざす研究者や技術者の会話が、私とあまりにも相性が悪かった。これまで、遠未来や宇宙空間で話される科学者たちの会話にはわくわくとした魅力を感じる自分なのに、「至近未来」の──あるいはすでに現実のものとなっている科学者・技術者の会話をここまでつらく退屈に感じるのは、作品のせいではなく、私の素質の問題だろうとも思われ、本作のSF性を評価するのは、私は読者として不適格ではないかとも思われた。(私はけっして、テクノフォビアではないと思ってきたが、いささか自信を失った。)
科学技術の会話のみならず、カンパニーを作ろうとする研究者たちの姿勢があまりにもトンチンカンなものに思われたことも、苦痛のひとつだった。当初、そこに過度に適応していく主人公の姿勢まで、信用を失いながら読んでいた。最終的には、主人公は、自身のダンス経験や父の言葉の真意からカンパニーの問題点を言語化することに成功し、それがAI開発の命題をも解決することにもつながるのだが──こちらからすれば、この問題点は物語の早いうちから認識できてしまっていたため、カタルシスを感じる一方、なんでここまで気づかないのか、と異様な徒労感まで覚えたほどだ。(考えてみれば、私も、科学者たちを批判する「父親」と同じ目線だったのかも知れない。主人公は、昭和生まれの父のネガティヴな面を指摘していたが、この「父親」は作者より一歳若い。まぎれもなく、作者の分身のひとりである筈である)。
なお、いまだに解釈が特定できないことの一つが、本書の冒頭に掲げられたのと同じ意味の「脳は内臓にすぎない」という言葉。主人公は研究者から聞かされたあと、よほど影響を受けたように反芻しているのだが、その理由がわからない。もしかすると、これまで脳よりも肉体のみを信頼してきた主人公が、「脳も臓器だ」と教えられてはじめて、思考や言語化の価値を認識していったのだろうか?
科学SFの部分は「評価不能」として読んだが、一方で、ダンス表現や芸術を追究するシーン、父子や家族、ラストの〈つながり〉を認識するシーンには強い感動を覚えた。それでも、そのことがかえって、自分は本作を本当に「SF」として読めていないのではないか、と問いながら、本作については「評価不能」であると感じていた。
しかし、選考会で、選考委員のおひとりから、SFにおける科学とは、自然科学だけではなく、社会科学、芸術にまで及んでいることを示唆していただき、「評価」を再考した。そして──身体と芸術と人間をこれまでにない方法で考察した本作を、私が選考期間中に最も長く、多く読み、最も付箋の枚数を多くつけていた本作を、「大賞受賞作」にすることに同意した。
自身の講評は以上の通り。
なお、この候補作を読んでいるうちに興味深い共通点に気がついた。
それは、少し前の時代へのノスタルジーである。
『わたしたちの怪獣』収録の「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」では表題作に使われたホラー映画も「ゾンビ」も1978年制作。『回樹』収録の「BTTF葬送」には「ネバーエンディングストーリー」(1984)や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985)など、80年代映画の「素晴らしさ」じたいがモチーフになっている。『アブソルート・コールド』の主人公コチが聞いている歌手エディ・ウィルソンとは映画『Eddie and the Cruisers』(1983)に登場する架空の歌手だし、この小説のムード自体その前年の『ブレードランナー』(1982)を意識しているように思われる。『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』のノスタルジーはいうまでもなく、個人的に連想したドラマは70年代のものだった。『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』だけはノスタルジーがない……かといえばそうではなく、個人的な感想だが、主人公と知り合う永遠子のイメージは、古き佳き昭和の日本映画に登場する楚々とした女性像を彷彿させる。
70年代、80年代が、その時代を知らない作家の作品にまで登場するのも、この時代のSFの特徴なのだろうかと、興味深く感じた次第。
2020年代に生まれるSFたちも、後世の作家に強い憧憬を与えることができれば素敵なことだ、と夢想しながら筆を擱く。(了)
選評 池澤春菜
毎年「いっそ全部受賞作というわけには……いかないですよねぇ」と半泣きで選考会に臨んでいます。今年も一長一短どころか百長零短な候補作ばかりで、呻吟しました。
選考委員の皆様と話していると、それぞれの読み方や評価基準が異なっていて、新たな魅力を教えていただけるのも面白い。今年も一介の本読みとして、大変幸せな時間を過ごさせていただきました。
最も読むのが楽しかったのが『アブソルート・コールド』。
万華鏡のように視点人物が現れ、それぞれの登場人物の顔や過去を一瞬のぞき込み、またすぐに視界が変わる。過剰なまでの情報量が酩酊感を生み出し、ページをぐいぐいとめくらせるのと同時に、一読では済まされない重層的な構造がある。
来未パート、尾藤パート、ともに魅力的だけど、わたしはとくにコチのパートが好き。小猿型の人工知能、百が一番のお気に入りです。
サイバーパンクという一世を風靡した、だからこそ今ではミームとして消費されかねないジャンルに真っ向から挑み、勝利した快作だと思う。
最も一気読みさせられたのが『回樹』。
惜しげもなく披露されるアイデア、それを支える時にドライで、時にウェットな舞台設定と登場人物たち。筆者にしか持ち得ない素材と味付けが、唯一無二の世界観と読後感を生み出している。
SF的IFがある世界を細かく説明せずとも、短編ならではの語り口やキャラクターの魅力で読者を引き込んでいく。この語り口は斜線堂有紀ここにあり、という感じ。
七編の短編はいずれも、痛みと愛と死に満ちている。中でもわたしは「奈辺」がオフビートなユーモアで好き。
最も余韻が残ったのが『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』。
ボーイミーツガール、ガールミーツボーイ。そして異なる世界同士の科学と歴史の出会いでもある。
中編の『グラーフ・ツェッペリン 夏の飛行』と印象を変えずに長編として描ききったのも見事。長編では作者の思い入れのある土浦という場所がより深く掘り下げられ、すれ違う夏紀と登志夫を繋いでくれる。もう一人主人公がいるとすれば、この場所そのものなのかもしれない。
リアルな土浦と対比されるようなVRの世界は、何でもできてしまうが故に手触りがない。異なる世界、異なる時間、異なる歴史越しに、精一杯伸ばされた夏紀と登志夫の手が切ない。
最も刺さったのが『わたしたちの怪獣』。
前回は、会長職との兼ね合いで選考委員を他の方にお願いしていたので、短編としてではなく、短編集として今回向き合うことができた。
いずれの作品にも、社会や人間関係、人生からこぼれ落ちてしまった人々の思いや寄る辺なさが色濃く漂っている。それぞれ作品のテイストは違いながらも、透徹した芯が作品を貫いている。作者が小説を通して掬い上げたいもの、手を差し伸べたいものはこれなんだ、と一冊を通して読んだからこそ感じ取ることができたのかも。
残酷で、美しくて、救いがなくて、でもどこかに希望があって、愛おしい短編集だった。
最も読むのが辛かったのが『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』。
一歩も引かず、一言も疎かにせず、傷の在処を確かめるように言葉が刻み込まれる。真摯な眼差しは、冷徹なまでに、全てに揺るがず注がれる。
肉体と精神とAIとが、残酷な距離感で描かれる。読む方の覚悟も問われるようで、何度も本を置きながら読み切った。踊りを通じて感じられる肉体の存在や重み、記憶と認知、人の尊厳、自身の経験をここまで客観視しながら書けるとは、小説家とは恐ろしい生き物だと思った。
どれだけ発達した義肢が存在する未来でも、居酒屋でバイトをしなければいけないし、人が人の命を背負って介護をしなければいけないのか、と思って地味に辛かった……。
一人の作家が一生で一度だけ書ける小説があるとすれば、これだと思って大賞に推しました。
わたしの好きな歌手SADE(シャーデー)の歌は、トーチソング (torch song)と呼ばれています。報われない愛や片思い、失恋の辛さを歌うラブソング。
torchとは松明のこと。語源は「to carry a torch for someone」誰かのために松明を灯す。
痛みや喪失、諦念、愛と死、届かない願い、そして希望をSFとして掬い上げたこれらの物語が、誰かのための松明になりますように。
選評 草上仁
プロトコル・オブ・ヒューマニティ
ダンスである。わたしは幼稚園の時代から、お遊戯が苦手で、いまだにダンスには劣等感を抱いている。身体能力が低いので、リズムについていけない。自分だけ、みんなと動作がズレる。ダンスは天敵なのだ。なのに、ダンスをモチーフとした小説──悔しいけれどそれが面白い。引き込まれる。だから、「やられた」「ずるい」と思った。
精神と肉体、脳と他の臓器を分離して考えるのは間違いだ、という説が腑に落ちた。『腑』つまり臓器で、この表現自体、臓器に脳が含まれることを前提としているわけだが。脳と他の臓器だけではない。ステージ表現を考えるとき、AIやロボットも人間と分離できなくなる。いや。本作では、AIに関しても、身体の一部でもあり、外部環境でもあるという位置づけになっている。
本作は、人間とは、個性とは何か、ということを考えさせる。そのための対立概念として、『人間でないもの』を持ち出して来るところが、優れてSF的である。対立概念と言っても一筋縄ではいかない。ダンサーもカンパニーの主催者も、そして覚醒した技術者たちも、人間と機械、あるいは人間と社会環境との対立ではなく、かと言って支援や協調でもなく、同じステージで共存することの意義や、それを表現する方法を見つけようと格闘するのだ。
一方で、主人公の父親によって、人間から知識や経験をはぎ取っていくと何が残るのか、何が変わらないと言えるのかという葛藤をつきつける。同時に、兄の姿から、家族間でも根本的に共感できない関係を示す。恋人との関係から、信じること、頼ること、甘えることと強がることを描く。
人間と機械、生きがいと家計、介護者と被介護者、生者と死者。感謝と怒り。「全部入り」だ。その全部が、枠に収まらない生き生きとした関係性を失わない。プロトコルは、関係性の中でこそ定義される。
何より唸らせるのは、単なる問題提起ではなく、エンターテインメントとしてのストーリーが編み上げられていくことだ。全てが見事にステージに収斂して行く。しかも、収斂だけで終わらない。試練の中で努力を重ねた末に主人公が勝っておしまい、ではないのだ。
脱帽だ。文句なしの大賞です。
回樹
驚いた。何でこんなものを、こんなことを思いつくのか。特異な、プライベートでエモーショナルなモチーフが、ドキュメンタリーのような硬質で理性的な語り口で淡々と綴られていく。
『解決』や『種明かし』という面では、もどかしさも感じる。でも、巻を置いて目を閉じると、実は今感じているのがカタルシスだったとわかる。不思議に矛盾した感覚。それでつい、次を読みたくなる。たぶん計算した結果ではないだろう。天性のストーリーテラーなのだ。
「骨刻」が凄いと思った。ボーンレコードがここに展開するとは。それに比べると、「BTTF葬送」はオーソドックスな設定に見えた。最初は、だ。しかし──。
「奈辺」。作者は、普通なら読んで忘れてしまうような史実やトピックをアクロバティックに組み合わせて、世界を織り上げるのが実にうまい。読者は、あっというまにその世界に引き込まれて、それが現実であるかのような錯覚に陥りながら、登場人物との情動を共有する。それがSFの基本構造だった、と思い出すのは読後しばらく経ってからのことだ。
早い話が、収録作は全部凄い。読み手の期待から微妙にずらしたストーリー展開で虜にしてくれる。もっと、もっとという禁断症状に陥れる。依存症になりたくなかったら、避けて通ったほうがいい。でなければ、心地よく耽溺してしまおう。ちなみにわたしは後者、でした。
アブソルート・コールド
まっすぐに、きちんと書かれた恋愛小説と言い切りたい気もしたが、少し違う。主人公二人の関係は、ある意味で淡すぎ、別の意味で切実すぎる。死と再生の物語? それも違う。生者と死者、人とAIのアイデンティティが、同等に扱われているように読めるから。不老不死を求める仙薬探索譚? さらに的を外れてきた。最近はやりのメタバース、違う。ぐっと砕けてコンピュータ反乱ドラマ? ディストピア小説? いくら何でも大雑把すぎるだろう。
そもそも、レッテルを貼ろうとするのがいけない。わたしは、SF読者として、ついついストーリーを要約したくなってしまう。うまく要約出来たら、他の誰かに説明できるし、レッテルをつけた箱にしまい込むこともできる。ひとしきり意見交換したら、あとは安心して忘れることができる。
本作はそういう小説ではない。要約して、意見交換して、分類して、しまい込んで、忘れる作品ではない。整理や収納を放棄して、なんとなく身近に置いておくのがいい。そうすると、折に触れてイメージがよみがえる。コチや百の気配が、ふと身近に立ち現れる。親しかった誰かの面影みたいに。
それでいいんだと思う。ある意味では、ディストピアだ。陰惨なディテールもある。主人公たちはそれぞれ、過去に繋がる何かを抱えている。わかりやすい目的に向かって突き進むわけでもない。
それでいて、読後感は爽やかで、何度も思い出したくなる。不思議な、美しい小説です。
グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船
不満がある。『自分のことしか考えていない』と揶揄されるあの子が好きだったのに。今、わたしは、朝ドラの結末が気に入らないと、わざわざ放送局に投書する視聴者の心境になっている。
これは、思い出せるストーリーだ。そんな状況、そんな景色、そんな感情は、自分の記憶の中にもあると、読者に思わせる力を持っている。一言で言えば、作品中で巧みに使われる既視感、だ。
そうそう、そんなことがあった。あれは確か──と、具体的に思考を巡らせようとすると、指先からすり抜けて、甘く切ない思いが残る。もどかしくもあり、嬉しくもある。そんな既視感。
プロットは、かなりハードだ。量子論と並行世界という背景に説得力がある。同時に、プライベートでコージーでもある。ディテールにリアリティがあって、読者の没入を誘う。しかし、パソコンOSのバージョンやデバイスに、作者は少しずつ違和感を忍び込ませる。
既視感に違和感はつきものだ。それがあるから、『既視』に『感』がつく。『実際には見たことがないはずなのに』の『なのに』は違和感を意味する。そして、『はず』は、不確定性を意味する。量子論だ。いったん観測してしまったら、断言できなくなる。
プライベートでコージーな世界から、ストーリーは一気に加速する。そして、ある意味で必然の結末になだれ込む。この加速感がたまらない。カタルシスは満点だ。
でもさ、低級で下世話なことはわかってるけど、こうなるしかないのかも知れないけれど、やっぱりファンとしては結末に不満なのよ。投書、しようかな。
わたしたちの怪獣
これ、不利だよー、と思った。作者に悪いよー、と。
だって、表題作が、過去にも候補作になっているのだ。表題作を持ち上げにくい。こいつは凄いぜ、と主張したら、じゃあ、去年はどこをどう読んでたんだと言われそうだ。当時の選者は目がなかったんですねー、とは言えない。残念ながら、わたしもその一人だったからだ。表題作について、過去と同じことを書いても、まるで違うことを書いても各方面から批判されそうだ。批判されるのはかまわないけれど、読者を退屈させてもいけない。他の作品のことを書く。
ぴぴぴ、ぴっぴぴ。『声掛け』ってすごいアイディアだと思う。タイムリーパーが世界を救う話はよくあるけど、特別な能力を持たない市井の若者が、ささやかな事故防止のために非正規で働くという職業観が魅力的だ。つらくて、すごい。結末には、新鮮なタイム・パラドックスが提示されるが、アイディア小説と言うより、正面から主人公の絶望や葛藤を描きながら、幾重にも皮肉を効かせている。
夜の安らぎ。従妹の血液についてのみずみずしく、ショッキングな感性、一般のホラーよりもダークな恐怖感。これはコワい。ファルスは怖さを倍加させるのだ。夜安との再会が、今から楽しみだ。
『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら。白眉である。冒頭、少し、『回樹』の「BTTF葬送」と設定が似ていて嫌だな、と思った。評価上、後から読むことがハンディになりかねないからだ。
杞憂だった。これもファルスだけれど、「夜の安らぎ」よりもダークで怖い。なのに読後感はいい。なぜだ。おかしいだろう。Z級の力だろうか。いや、それは映画の話であって、作品は特A級だ。
表題作について書かなくて申し訳ない。表題作を含めて、お楽しみください。楽しめることは、請け合います。
選評 斜線堂有紀(書面による事前審査の評)
『回樹』が第44回日本SF大賞の候補作となりましたので、書面にて参加させて頂きます。心の底から受賞したいという気持ちを一旦忘れ、以下に現時点での考えを述べさせて頂きます。結論から申し上げますと、『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』と『わたしたちの怪獣』を現時点では推しております。
『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』は人間とは何か? をコンテンポラリーダンスを用いて語る、優れた舞踏SFです。この作品ではダンスという人間の根源にあるものながら、未だに全てが解明されていないものを題材に、近い未来必ず訪れるだろう身近なファーストコンタクトを描いてます。動的な描写は書き手の筆力に大きく依存してしまうため、実作者としては恐ろしくもある題材なのですが、本作では並々ならぬ筆力によりコンテンポラリーダンスの魅力を紙上に再現するという偉業を成し遂げていると思います。
一方で、人間性とは何かを追う過程において老人介護及び認知症の要素が語られ、それにより失われるもの/失われないものによって人間性を描き出すパートが入ったことにより、芸術としての域まで達していた物語がややぼやけた印象になったのも否めませんでした。卓越したコンテンポラリーダンスの描写を通し人間の身体に向き合っていた点が素晴らしいと感じていた為、ある種人間味に溢れすぎたテーマである血縁や認知症患者における自己同一性の問題を差し挟まず、護堂恒明と義肢との対話によってのみ人間の身体を掘り下げきってほしいと考えてしまいました。これはこの作品が優れているが故に生まれた贅沢な思いなのだと思います。いずれにせよ、傑作であることには間違いありません。
『わたしたちの怪獣』は、大賞に推そうかと悩んだ一作です。表題作にはやはり疑問を抱きました。第43回日本SF大賞の選評にも書いたように、父親が実は生きていたかもしれない、という描写を差し挟み、メタ的に罪を除くことによって物語を当たり障りのない形で軟着陸させてしまったことが残念であったからです。
しかし、他の短篇は奇想とエンターテインメント性を併せ持った独自性の高いものであり、ページを捲る手が止まりませんでした。二番目に収録されている「ぴぴぴ・ぴっぴぴ」に描かれた血流の周波数をコントロールすることによっての時間跳躍は、紛れもなくユニークな奇想でありながら説得感の強いものだと思います。それによって繰り広げられる物語は、一種の特殊設定ミステリ的でもあり、この枚数でこれだけの展開を見せられる筆者の力量に感嘆しました。続く「夜の安らぎ」は吸血鬼化に救いを求める少女の切実さがひしひしと伝わってきました。痛快さすら感じさせる楓の自棄の起こし方は、後に語られる吸血鬼の魂の冷たさに対比されるものでしょう。ラストを飾る「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」は、シネフィルの愛嬌とZ級映画のエッセンスを織り交ぜつつ、脱力感のあるコメディに仕上げた一作です。その上で待ち受ける独特な切なさのラストは、短篇集を締めるに相応しいものだと感じました。
『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』はとても爽やかなボーイ・ミーツ・ガールでしたが、夏紀と登志夫が出会い物語が進んでいくまでが長く、重要であるはずの終盤の展開が駆け足な点が少しバランスの悪さを感じさせました。その結果、重ね合わされた二つの世界のどちらかを選ばなければならなくなり、結果夏紀が大きな選択をすることにカタルシスが欠けているように思われます。また、タイトルにあり、印象的な描写の多いグラーフ・ツェッペリンがほぼ物語に絡んでおらず、飛行船である必然性が感じられないところに物足りなさを覚えました。
しかし、夏紀と登志夫が重ね合わされた同一人物であることの伏線が「生理」という極めて生々しい事象によって張られていたことにはなるほど、と思わされました。当該部分は描写が丹念に繰り返されているため、最初はその意図がわからず困惑させられましたが、その後、世界の真相が明かされた際にこの困惑が一気に反転し、あれこそが最も重要な箇所であったのだと気づかされた時に、筆者の思惑にまんまとかかる気持ちよさを味わいました。同時に、揺らぐ世界の中で、人間と人間を繋ぐものが肉体である、ということは人間賛歌であるのではと思います。
『アブソルート・コールド』は骨太なサイバーパンクストーリーであり、微細走査や企業によって都市が支配され、独自の発展を遂げている設定などを面白く読みました。ですが、終始読みづらさが先立ち、登場人物の個性があまり出ていない印象を受けました。その結果、ラストの心臓の高鳴りがあまり効果的ではないと感じたり、コチと来未には雫が嫉妬するほどの絆があるようには思えませんでした。この物語で最も素晴らしいのは産業密偵の存在であり、彼からは真に生と死の狭間にある者の凄みを感じさせられました。彼の物語をもっと読んでみたいと思いました。
選評 立原透耶
『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』
全方位に向けての人間関係が描かれており、ある意味完璧だと感じた。SFとはなにか? を突き詰めて考えた時、科学と人間だと思ったのだが、本作品はまさにそれを具現化していた。恋愛、友情、兄弟、母と子、父と子。あらゆる人間関係が描かれる中、非常に描写が難しいダンスシーンを見事に表現していた。並々ならぬ筆力である。文句なしの大賞であった。おめでとうございます。
『回樹』
どこから出てくるのだろう? というアイデアの泉に脱帽した。どこか星新一氏を思い出すような作風もあり、非常に読み応えがあった。「回樹」と「回祭」は本書の冒頭と末尾を飾る作品で、見事に呼応していた。「愛する」ということをどう捉えるのか、非常に切ない恋愛物語でもあり、胸に染み入った。「不滅」はSFらしいSFと感じた。驚くべき種明かしがよく効いていた。どの作品も素晴らしかった。
『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』
映画化されそうな爽やかな青春SF小説であった。主人公二人の瑞々しい恋愛に目を奪われていると、いつの間にか壮大なSF的設定に巻き込まれていくことになり、驚かされた。片方を科学的な立場に、もう片方をオカルト的な立場に置いたのも絶妙なバランスで良かったと思う。二人の存在についても新しいアイデアで、非常に興味深かった。
『わたしたちの怪獣』
去年短編で候補に残ったのが少し損を見た感じがして、もったいなかった。どの作品も何かしら切ない人権が描かれている感じがして、そのマイノリティへの眼差しがとても暖かく、心地よかった。「わたしたちの怪獣」、「夜の安らぎ」が特に好きだったのだが、「夜の安らぎ」のコウモリがよたよた飛ぶところが特に印象深かった。新しいアイデアと優しい眼差しが感じられる一冊で、今後も作品を読みたいと思わされた。
『アブソルート・コールド』
スタイリッシュな文体が印象的な一冊であった。個人的にはビトーと環の二人にキャラ萌えしてキュンキュンしながら読み進めた。近未来的な描写もかっこよく、キャラクターも生き生きとしていて、大変面白かった。最後のあたりのアクロバティックな「蘇り」作戦には度肝を抜かれた。さまざまな人間関係が描かれており、それらも読み応えがあった。